9つの命を持つ猫

雨宮悠理

9つの命を持つ猫

 雨が降る中、麻衣子は静かな郊外の街を歩いていた。


「ああ。また終わっちゃったなあ」


 付き合っていた彼氏に浮気された挙句、それにも関わらず無理やりに引き留めようとする彼を振り払って出てきた。

 彼のことは当然に好きだったのだが、信頼のおけない相手と関係を続けていくことは難しい。多少なりとも情もあるけれど、それとこれとは話が別だ。


 そんな折に、どこからか鳴き声が聞こえてきた気がした。麻衣子が鳴き声の聞こえた方向に歩いて行くと、そこには一匹の猫がうずくまっていた。その猫は長い毛を持ち、不思議な模様が体を彩っていた。猫は静かに麻衣子を見つめている。彼女はその視線に心を打たれ、猫を抱き上げることに決めた。


「大丈夫?どこか怪我しているの?」麻衣子が優しく尋ねると、猫は小さく鳴き、彼女の腕の中で身を寄せた。

 この雨の中、このまま放置するわけにもいかない。麻衣子は一旦猫を連れ帰ることに決めた。


 自宅アパートに着くと、麻衣子は猫を優しく床に下ろした。猫は部屋を静かに見回すと、とことこと室内を歩き回り、麻衣子の足元で止まった。


「ごめんね。いまから食べるもの用意するから、ちょっと待ってね」


 そういって麻衣子は優しくその頭を撫でてあげた。猫は彼女の足元から離れず、静かに尻尾を振り、喉を鳴らした。彼女は柔らかな毛の感触を楽しむようにゆっくりと撫でた。

 帰り道にコンビニで買った食べ切りサイズのキャットフードと水を用意する。入れる容器が思いつかなかったので、以前友人の結婚式の引き出物で貰っていたが、長年出すことのなかった小鉢を使うことにした。


「はい、どうぞ。いっぱい食べてね」


 猫は小さな口でキャットフードを丁寧に食べ始めた。麻衣子はその姿を見ながら微笑む。


「ねえ、君ってどこから来たの?」


 猫は麻衣子を見上げながら小さく鳴いただけだったが、彼女が撫でると嬉しそうに目を細めた。


 仕事もあるし、このまま飼い続けることが果たして出来るのだろうか。麻衣子は頭を悩ませたが、また雨の降りしきる道端に戻すなんてことはできない。もしかしたら帰る家があるのかも知れないから、それが見つかるまでは面倒を見よう、そう決めた。


「そうと決めたら、まずは名前よね」


 麻衣子は考え込んだ。猫の持つ見たことのない不思議な模様から彼女は「まぼろし」という名前を思いついた。猫はその名を呼ばれると、麻衣子を見上げ、小さく鳴いた。


 その夜、麻衣子は幻と一緒に過ごした。幻は麻衣子のそばで大人しく寝息を立てながら寝ている。麻衣子はその小さな身体を見つめながら、不思議と心の安らぎを感じていた。


「君も一人で辛かったよね。一緒に幸せになりたいね」


◇◆◇◆◇◆


 翌朝、麻衣子は目が覚めると、幻の姿がいなくなっていることに気が付いた。辺りを見渡しても、その姿が見当たらない。麻衣子は慌てて外に出る。


「幻!どこにいるの!」


 アパートを出たが、見える範囲に幻の姿は見当たらなかった。彼女は近くの公園や路地裏などを探すが見つからない。


どこにいってしまったんだろう……。


 途方に暮れた麻衣子の耳に車のクラクションが聞こえた。振り向くと、そこには必死に探していた幻がいた。美しい模様があるその猫は彼女の目をまっすぐ見つめながら歩いている。


「幻!危ない!」


 私は叫んだ。幻の背後からは白い普通車が走ってきている。

 なんとか幻のそばまで辿り着いたが避けられそうにも無い。

 だが運転手も必死にブレーキを踏んだようで、なんとか麻衣子と幻に当たるギリギリの所で車は停車した。


「大丈夫ですか!」


 急ブレーキを掛けた車の運転手が駆け寄ってくる。降りてきたのは、歳の頃合いが同じくらいの、ぱりっと糊の効いたスーツを着ていた男性だった。


「大丈夫ですか! 怪我はしていないですか!」


 男性は慌てた様子で声を掛ける。


「すみません、あやうく轢いてしまうところでした。なんとお詫びしてよいやら」


 麻衣子は勢いよく首を振ると、大丈夫ですからと麻衣子も頭を下げる。


「いえ、どちらかといえば私の管理不足が原因ですので。本当に申し訳ないです」


 男性は麻衣子を見て心底安心したような表情を浮かべると、改めて謝罪を述べてから車に乗り込んだ。そして車に乗り込んだあとすぐに、また思い出したかのように麻衣子の元へと駆け寄ってきた。


「何度もすみません。もし何かあった時のために連絡先だけ交換できませんか? 問題などが起きたら遠慮せずにすぐに連絡をください」


「あ、はい。大丈夫です!」


 そして麻衣子は男性と連絡先を交換した。

 彼は名前を「白河しらかわ」というらしかった。

 そして白河と別れた麻衣子はアパートへと戻っていった。麻衣子に抱き抱えられた幻は麻衣子を見上げ、一声小さく鳴いた。


◇◆◇◆◇◆


 麻衣子と幻が出会って半年ほどが経った頃。

 麻衣子は前に住んでいたアパートから、近くのマンションへと引っ越していた。

 ご飯の準備を始めようとキッチンに立った麻衣子の足元に、幻が近づき高めに喉を鳴らした。


「あら、お腹が空いたのかしら。ちょっと待ってね」


 麻衣子は買っておいた、チュールタイプのオヤツを小さな小皿に出してあげた。昔はあまり食べなかったのだが、ここ最近は幻が気に入って食べている。鳴き方も心なしか声が高くなっていて、擦り寄ってくることも少なくなった。きっと幻も一緒の生活にだいぶ慣れてきて、リラックスできるようになったのかも知れない。そうこうしているうちに玄関の扉が開く音がした。


「麻衣子さん、頼まれていたもの買ってきたよ」


「あ、わたるさん! ごめんね、ありがとう!」


 幻を拾ってから二ヶ月くらい経った頃だろうか。

 麻衣子は白河と正式にお付き合いをすることになった。

 連絡先を交換してから互いの性格や趣味の一致などが重なり、交際に発展したのだった。

 白河は真面目な性格で、時間には正確だった。毎朝通勤前に麻衣子のアパートへ寄り、会社帰りにも一緒に過ごすようになっていた。なにより彼は優しい人だったので、麻衣子は白河と付き合うことに何の問題も無かった。


 幻を拾った翌日から、麻衣子の周りでは不思議なことにさまざまな環境の変化が起こり始めた。


「そういえば麻衣子さん、僕、来春から課長に昇進することになったんだ」


「え、本当! おめでとう!」


「それでなんだけど、えっと……」


 白河は何故か言い淀み、目が泳いでいた。その様子を見て麻衣子は首をかしげる。


「どうかしたの?」


「……ちょっと話したいことがあるんだけど……ここじゃあれだから……」


 彼は頭を掻きながらそう言った。何か話しづらいことなのだろうか? でもせっかく昇進の話が出たのだからお祝いもしたい。私は少し考えたあと彼にこう言うことにした。


「それなら今夜はホテルで食事しませんか?」


 麻衣子のとっぴな提案に彼は目を丸くしたがすぐに承諾してくれたのだった。そして迎えた夜二十一時、麻衣子は白河渉からプロポーズを受け、それを承諾した。


 麻衣子は白河と共に自宅に戻ると、すぐに幻を呼び寄せて抱きしめた。

 幻は低い声でごろにゃあ、と一回鳴き麻衣子の顔にすりすりと体を寄せた。

 きっと幻も祝福してくれているのだ。

 そう思うと麻衣子はとても幸せな気持ちになった。


◇◆◇◆◇◆


「麻衣子はさ、すごいよね! 見ない間に色々と変わったんじゃない?」


 週末のランチタイム。麻衣子は高校時代からの親友とカフェでお茶をしていた。


「えっ、まあ。確かに変わったといえば変わったよね」


「だってその指輪、彼氏にもらったんでしょ?」


 それは去年、白河から貰ったものだった。プラチナのリングはきらきらと光輝いている。結婚はまだ少し先になりそうだが、彼とこの先もずっと一緒にいたいと思っている。


「私、いま彼氏とかいないからさ。早く欲しいなぁ」


 仲の良かった彩香あやかは同級生と去年まで付き合っていたのだが、彼氏の浮気が原因で別れることになったらしい。

 

「それに麻衣子もすごく有名になってさ、本当に幸せいっぱいじゃん」


「うん、ありがとう。でも私自身びっくりしてるんだ」


 麻衣子は趣味で書いていた小説を自身のホームページにひっそりと公開していたのだが、ある出版社の担当者の目にたまたま留まり、あらよあらよという間に書籍化、さらには本屋大賞を受賞してベストセラーにまでなった。

 それも幻と出会ってからの日々をベースに、猫との一生を描いた小説だった。

 渉さんの仕事も順調で何ひとつケチをつけるところのない、とても幸せな生活を送れている。


「ちなみにさ、人生うまくいく秘訣とかってあったりするの?」


 彩香は興味津々な様子で麻衣子を覗き込む。


「うーん、難しいなぁ。まあひとつあげるとするなら……。猫を助けたことかな」


 麻衣子は笑いながらそう言った。それを聞いて彩香は首を傾げる。


「ん?どういうこと?」


 麻衣子は雨の日に猫を拾ったこと。その猫を育てることを決めてから、大きな人生の転機が訪れたことを話した。


「へぇ。それがキッカケで良いことが立て続きに起こった、と」


「うん、でもこれってちょっと極端な話だと思うけどね」


 彩香は目を輝かせながら麻衣子を見ていた。


「なるほど。まさに福を呼ぶ招き猫って感じね」


 招き猫。確かにそう言われたらそうかもしれない。


「あ、でもね。ウチの幻は確かに不思議なところがあって、ごく一般的な普通の猫とは少し違う気がするの」


「例えば?」


「うーん……言葉では説明しづらいんだけど、昨日までだったらごろごろ鳴いて擦り寄ってきていたのに、次の日になるとぱったり寄ってこなくなったり、好きな食べ物や鳴き方なんかも時期で変わるし。毛並みの色も時々だけど変わっているような気がするの」


「へえ、そんなことがあるのね」


彩香はおかしそうに笑った。そして紅茶に口をつけて啜ったあとこう言った。


「まあでもさ、確か猫には九つの命が宿っている?とか聞いたことあるし。あながち間違いでもないかも知れないよ。そのいろんな性格になるってのもさ」


「……九つの命」


 初めて聞いた。もし本当に九つの命が宿っているとするならば、一体どれが本当の幻なんだろう。麻衣子はそんなことをぼんやりと考えながら、窓の外を見つめた。


「……え? ホラホラ、あくまでこんなの迷信なんだから!本気で考えちゃダメ!」


 そういって彩香は困ったように笑っていた。


◇◆◇◆◇◆


 あれはそう。確か彩香と会ってから1ヶ月ほど経った頃だった。

 その日、帰宅すると白河は帰っていなかった。最近忙しいらしく帰りが遅い日が続いている。

 「ただいま」と麻衣子は幻に挨拶をしたあと、夕食の準備を始めた。今日は彼が好きなビーフシチューを作ることにした。鍋でじっくり煮込んだあと、味見をする。なかなかの出来栄えだ。

 あとは彼が帰ってきてから温め直せば完璧である。

 ふと時計を見ると時刻は二十二時を過ぎていた。しかしまだ帰宅しない。仕事が忙しいのだろうか? 麻衣子は心配しながら彼の帰りを待っていたのだが、結局その日は帰ってこなかった。


 翌日。ケータイに警察から着信通知が届いていた。

 掛け直すとどうやら白河が警察署で保護されたとの連絡だった。驚きで飛び跳ねた麻衣子は急いで上着だけ羽織り警察署へと向かう。

 そこには呆然とした表情の白河がパイプ椅子に力なく座っていた。

 スーツは皺だらけで、白いシャツは所々が土や泥で汚れているように見えた。

 彼は麻衣子の姿に気がつくと、両手で頭を抱え込んだ。


「麻衣子さん、本当にごめん。……昨日のこと、よく覚えていないんだけど」


 彼はぽつりぽつりと話し始めた。


「昨日、仕事が終わってから家に帰ろうと夜道を歩いていたんだ。……で、近道でいつも通っている裏路地を歩いていたんだけど、そこで、……猫を見たんだ」


「猫?」


白河の言葉に麻衣子は思わず聞き返す。


「それで、猫を追いかけて……。気がついたら山に迷い込んでいたんだ」


白河は頭を抱え込みながら話を続けた。


「その奥に、小さな墓所があったんだけど……」


彼はそこで言葉を止めた。しばらく沈黙が続いたあと、再び口を開く。


「……そこで、僕は……あれ?何をしていたんだっけ?」


彼は混乱した様子で頭を押さえた。どうやら記憶が混濁しているようだった。麻衣子は彼の肩を抱き寄せる。


「渉さん、落ち着いて。ゆっくりでいいの。無理する必要はないわ」


麻衣子は彼の背中を優しくさすった。


「ありがとう……。うん、僕は大丈夫だから」


彼は深呼吸をしたあと、再び話し始めた。


「それでね、墓所の前まで来て猫に追いついたんだけど、その後から記憶がなくて……」


白河はそこまで言うと黙り込んでしまった。どうやらその先の記憶が思い出せないようだった。


「彼はお墓を清掃していたみたいなんです」


様子を見守っていた警察官の男性が口を開いた。


「……お墓を?」


「はい。彼の衣服に付着していた土や泥はお墓のもので間違いないとのことです」


「じゃあ、彼はそのお墓で手を洗っていたってことですか?」


麻衣子は彼に尋ねた。警察官の男性は首を縦に振る。


「はい……なぜか複数あるお墓のうち、一つだけ綺麗に清掃していたみたいなんです。でも彼に尋ねたところ、全く身に覚えのないお墓だったそうで」


麻衣子は目線を移すと、彼は無言で頷いた。


「それで明け方になったところ、たまたま近隣の住民の方がお墓の前で気を失っている彼を見つけたそうです。念の為、病院で検査をしましたが何も異常は無いとのことでしたので。また状況は詳しく伺いますが、本日ご自宅に帰れると思います」


「……はい」


 白河は力なく返事をした。彼の身体はまだ震えていた。相当ショックだったのだろう。麻衣子は彼を抱きしめたまま、一緒に事情聴取を受けた。その後、二人は警察署を後にした。


「渉さん、大丈夫だよ。私がいるからね」


 麻衣子は彼の背中をさすりながら、最後に警察官の方から聞いた言葉を思い出していた。


「すみません。これはあまり口外すべき情報ではないのかも知れませんが、あのお墓に眠っている男性の奥様は、つい先日、失踪届が出されました。生死不明のまま七年以上が経ち、法律上では死亡したとみなされた訳です。結局、旦那様は奥様の帰りを待ちながら、この世を去ってしまったと聞いています。そんな経緯もあったので、てっきり彼が親類や関係者なのかと思っていました。……色々と混乱されているようですので、ご自宅でしっかりと静養されてください。」


◇◆◇◆◇◆


 それからほどなくして、幻は麻衣子の実家へと預けられることになった。


「ごめんね、麻衣子さん。僕のせいで」


「いいのよ、気にしないで。それよりもまずは自分を大切にしてね」


 麻衣子は笑顔で彼を励ますと、幻を抱き上げて頬擦りをした。


「本当にごめんね、ほんの少しの辛抱だからね」


 幻は出会った頃よりも随分と体格が良くなり、毛並みも灰色に近い色へと変化していた。なにより白河が警察に保護された出来事があった日から、幻はどこか虚であまり動き回ることがなくなった。

 白河はあの一件以来、猫と接することに強い拒否反応を示すようになっていた。

 特に自らをトラブルに巻き込んだのは猫だったという。どうしようかと迷った末に麻衣子が実家に相談したところ、両親が快く幻を預かってくれることになったのだ。


「じゃあ、幻を連れて行ってくるね」


 そう言って自宅を出る。最後の最後まで白河は申し訳無さそうに俯いていた。


「うん、ありがとう。幻のことよろしくね」


麻衣子は笑顔で手を振ると玄関の扉を閉めた。


◇◆◇◆◇◆


「わあ、この子が幻ちゃんね。本当におとなしい猫ちゃんだこと」


 麻衣子の母はそう言うと、幻の頭を優しく撫でた。


「ごめんね、お母さん。迷惑かけちゃって」


「いいのよ、気にしないで。それより元気に過ごしていたら良いから」


 母はそう言って微笑むと幻を抱き上げた。すると幻は物悲しそうな目で麻衣子を見たあと、ニャーと小さく鳴いた。

 やっぱり幻も寂しがってくれてるのかな。

 麻衣子はそんなことを考えながら、きゅーっと胸が締め付けられるような感覚がした。


「じゃあ、行ってきます」


 そして麻衣子は実家を後にした。


◇◆◇◆◇◆


 自宅へ向かい歩いていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。

 そういえば、天気予報で雨が降ると言っていた。渉さんが傘を持って行った方が良いと言っていたことを、すっかり忘れていた。

 だが今は、この雨が心地よい気がした。

 最後に見た幻の顔が思い出されて、どうしようもなく悲しい気持ちになる。冷静に考えれば、何も今生の別れじゃない。ただ実家に預けただけではないか。

 何も悲しむ必要なんて無いはずなのに。麻衣子はそんな思いを打ち消すように首を左右に振る。


「……麻衣子」


 急に聞こえた声に振り返ると、そこには前に別れた筈の元カレが立っていた。


「え、……どうして?」


 麻衣子は驚いて尋ねた。

 別れてから連絡も完全に絶っていた筈の彼が、私の名前を呼んでいる。フードを被っていて表情が半分見えないが、どこか正常な状態ではない気がして、背筋がぞくりとする。


「どうしても麻衣子に会いたくなって」


彼はそう言うとフードを外した。その瞳には生気が宿っていないように見えた。


「君が俺の事を拒絶したのは、何度考えても気の迷いだったとしか思えないんだよな……」


 男はそう言って不気味に笑った。


「だからもう一度やり直させてあげるよ……だって俺たちはあんなに愛し合っていたんだから……」


そう言いながらゆっくりと近づいてくる。逃げようと思った次の瞬間、気が付いた時には麻衣子は首を絞められていた。


「ずっとここで君を待ってたんだ」


男は荒い息で麻衣子の首を締め続ける。


————ああ、きっと私はこのまま殺されてしまうのか。

————これも幻を手放した私への罰なのかな。


 麻衣子は意識が遠退く中で、二本の傘を持って取り乱す白河の姿が見えた。


 男は白河らしき人影に向かってけたたましい叫び声をあげて、離した片手で胸元からナイフを取り出した。


————渉さん、来ないで!


 叫びたかったが、麻衣子は声を出すことが出来なかった。

 その時だった。視界を黒い何かが遮る。

 飛んできた影は男の手からナイフを叩き落とし、顔を思いきり引っ掻いた。

 衝撃で麻衣子を掴んでいた腕の力が抜け、麻衣子は地面にどさりと倒れ込む。


「っざけんじゃねえぞ、このなんなんだよ!おい!」


 男は地面に降りた猫の体を思いっきり蹴飛ばした。蹴られた猫は地面を転がっていく。


「幻!」


 麻衣子は気がつくと大声を出していた。なぜ解らなかったのか。あれはどう見ても幻ではないか。その瞬間、白河は男に思いきり覆いかぶさり体を抑え込んだ。騒ぎを聞きつけた周りの通行人の助けもあって、元カレの身柄は完全に拘束されていた。


 私は重い体をずりずりと這って、幻へと近づいていく。幻はダメージが大きく、息がかなり弱くなっていた。


「幻!しっかりして!」


 麻衣子は泣きながら呼びかけた。すると幻はうっすらと目を開けた。


「……あ、……りがとう」


 そのとき、確かに幻はお礼を言った。

 これは私の妄想かもしれないが、確実にその瞬間幻と意識が通じ合ったような感覚があった。

 そして幻は、力なく尻尾を振ったあと、動かなくなった。


◇◆◇◆◇◆


 その後、元カレの身柄は警察に引き渡された。取り調べで彼は『復讐したかった』と供述したらしいが、それはあくまで表向きの理由でしかなかったようだ。警察から聞いた話によるとあの男は過去にも何度か似たような事件を起こしており、警察からも要注意人物としてマークされていたようだ。

 そして幻は、その後すぐに亡くなった。


「ごめんね……」


 麻衣子は自宅で一人、ぽつりと呟く。


「私のせいでこんなことになっちゃったんだよね」


 彼女はそう言って涙を流した。だがどれだけ泣いても、幻が帰ってくることは無かった。


◇◆◇◆◇◆


 あれからしばらく経ってからのことだった。

 麻衣子は休みの日に、白河と二人で幻のお墓参りに訪れていた。


「幻、私と渉さんね。新しい家族ができたんだよ」


 そういって麻衣子は自身のお腹をさすった。


「渉さんも幻に会うのは久しぶりなんじゃない?」


「……うん、そうだね」


 彼は笑顔でそう言ったあと、少し考え込むような仕草を見せた後、口を開いた。


「……実はね、僕はずっと君がいう"幻"は見えていなかったんだ」


 彼の言葉を聞いて麻衣子は思わず息を呑んだ。


「でも君がすごく幸せそうに話すから、それを見ている僕も幸せだったんだ」


 白河の話す言葉を聞き、麻衣子は思わず俯いた。


「……ごめんなさい、でも私にはずっと幻は見えていたわ」


 麻衣子がそう言うと彼は優しげな表情を見せた。

 そんな彼の様子を見て、麻衣子も言葉を続ける。


「でも私、なんとなくそんな気がしてた」


 確かに渉さんも、お母さんも一度たりとも幻を抱き上げたりする姿を見たことが無かった。でも幻が来てから、私の人生は大きく変わった。それは事実だ。


「私ね、ずっと幻に助けられていたんだよ」


 麻衣子はそう言って微笑む。

 すると白河も笑顔で頷き返した。


「……そっか」


 彼はそう呟くと、手に持っていた花束をそっと墓前に添えたあと、ゆっくりと目を瞑った。


 「ありがとね、幻」


 初春の少し冷たい風に乗って、どこかで猫の鳴く声が聞こえた。

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