僕はキャンディになりたかった

@hutonnotomo

僕はキャンディになりたかった

 隣の席の彼女は教室で食事をしない。昼休みになると、彼女は騒がしくなる教室を出て行ってしまう。僕はそんな彼女の後ろ姿を目で追うことしかできなかった。


          〇


 今日も、彼女はいつものように教室を出て行った。僕はその後ろ姿を見届けた後、カバンに入れておいたキャンディの袋を覗く。僕のお気に入りだ。人の形をしたキャンディは、舐めているうちに色が変わるのだ。幼い頃は、舐めていたキャンディを途中で吐き出して、何色に変わったのか確認するのが楽しみだった。それを一つとって、こっそりと机の中に忍ばせる。

僕が弁当を食べ終わるころ、彼女は教室に戻ってくる。隣の彼女を盗み見ながら、机の中に入れておいた飴をきゅっと握った。

「あ、あの……」

 僕が声を掛けると、次の授業の準備をしているらしい彼女が、顔を上げて僕を見る。その顔を見るだけで、僕は何を言いたかったのか忘れそうになる。

「これ。良かったら……」

 僕は掌に載せたキャンディをおずおずと差し出す。心なしか、パッケージの顔も引きつっているように見えた。

「え、私にくれるの?」

「う、うん」

「ありがとう」

 ありがとう、そんな言葉を聞けるとは。僕は首の後ろを少しさすってぎこちない笑みを浮かべ、自分の席に座る。そして横目で彼女の様子を窺う。

 彼女は、僕があげた人型のキャンディを口に入れた。色が変わるまで舐めてくれるだろうか。

 彼女は口の中でキャンディを転がす。一、二、三。右、左、右。僕は、その様子を息を飲んで見つめていた。

 そして奥歯でキャンディをがりがりと噛んでから勢いよく席を立つと、教室の外へ去っていった。僕はまた、彼女の後ろ姿を見送るだけだ。

 あのキャンディは彼女と5分一緒にいることすら許されないらしい。

 僕は、うつむいて席に座る。

 彼女は今頃必死になって口をゆすいでいるのだろうか。排水溝に流れていく僕のバラバラに砕けた体が目に浮かぶ。僕は彼女の赤い舌の上に、キャンディが乗っているのを思い出す。確かに、僕があげたキャンディが彼女の舌に触れるのを見た。

一度彼女の口に入ったキャンディは、彼女の体温と唾液で周りが溶けていて、べとべとしているだろう。彼女が食べたキャンディは何色に変わるはずだったのかな。赤色だといい。

僕は、彼女があのキャンディをかみ砕いた時、その小さな赤いひと欠片が彼女の奥歯に挟まって、一生取れなければいいと思った。


          〇


 朝、僕は少し早く登校して、彼女が教室に入ってくるのを待つ。彼女が風で乱れた前髪を直す仕草を、僕は何気ないふりをして見る。

彼女は、等間隔に開いたその細い指で、真ん中で割れた前髪をぐしぐしと左右に揺らして、前髪を整える。彼女が髪を触るとき、僕も僕自身の髪をひっそりと触る。その髪は汗でじっとりと濡れていて、髪に刺した指を揺らすと、シャンプーと汗の混ざった匂いが、鼻に甘ったるく纏わりついた。

彼女は教室で必要以上に話さない。休み時間には大抵、一人で読書をしているか、机に突っ伏して寝ている。

僕はそっと隣の彼女の様子を窺う。彼女は本を読んでいた。衣替えの日から間もない、まだおろしたてであろう夏服の制服の胸元を、ぱたぱたと揺らしている。胸元の白い肌が見え隠れする。僕は慌ててそれから目をそらした。

彼女の周りの空気が揺れる。僕はその扇がれた空気を吸っている。彼女の甘い汗のにおいを、爽やかな柔軟剤の香りが包む。彼女のしっとりと濡れた肌から蒸発した汗が、空気と共に僕の鼻を通って肺へ流れる。そしてそれが僕の体を循環する。

彼女の汗が僕の体を循環している。

空気に触れた喉の奥がカッと熱くなって、僕の頭は酸素が足りなくなったように、朦朧とする。僕の血液がふつふつと沸騰して汗が噴き出る。僕は息苦しいままにぐわぐわ揺れながら、また彼女の汗が混ざった空気を吸う。

遠くでチャイムが鳴る音が聞こえた。


          〇


先生は、生徒を指名して発表させていく。どうか当たりませんように。そう思って、僕は下を向いたまま考えているふりをする。

何人かの名前が呼ばれて、そのあとに彼女の名前が呼ばれた。ラッキーだ。僕は、いつもの彼女の声ももちろん好きだけれど、彼女が授業中に出す、少しためらったような小さな声も好きだ。僕はその小さな声を聞き逃さないように注意を払う。彼女は発表するとき、少しかかとを浮かせる癖がある。僕は、顔を下に向けたまま、立っている彼女の上履きを見つめ、そのかかとがふわふわと上下するのを目で追った。

指名された彼女は、「三番です」とだけ言って席に座る。先生はそれにうなずいて、問題の解説を始める。僕は彼女が国語の時間に、間違った回答を発表しているのを見たことがない。彼女は国語が得意なのだろう。

僕は国語が苦手だといったが、だからと言って数学が得意なわけでもない。端的に言えば、僕には得意科目がない。それに引き換え、彼女には苦手な教科がないように見えた。あえて言うならば、体を動かす、体育が苦手であるようだ。しかし僕にとってそんなことは欠点ではなく、むしろ彼女の魅力を引き立てている点のうちのひとつだ。


          〇


 うだるような夏になっても、僕は初めて彼女にキャンディをあげた日から毎日ひとつ、同じキャンディをあげ続けている。最初のうち僕を揶揄っていたクラスメイトは、何度も繰り返される僕の行動に興味がなくなったのか、何も言ってこなくなった。

この頃になるとクラスの中で大方グループが決まってきて、そのグループに入っていない、僕や彼女のことを取り立てて噂をするようなことはなくなっていった。彼らは彼らで楽しくやっているようだし、僕にとっても好都合だ。彼女を小馬鹿にしたような噂を聞くのはいい気分ではない。そう思いながら、新学期の頃、噂を頼りに彼女の情報を集めていた自分にそっと蓋をした。

 今日も昼休みの時間が始まる。僕にとって一番緊張する、そして彼女が一番嫌っているであろう時間が。

「は、はいこれ……」

 僕は初めてキャンディをあげた日と同じくらいに緊張して、キャンディを差し出す。夏の日差しと緊張で、手から吹き出る汗がぐらぐらと沸騰していた。

「うん。ありがと」

 そう言って、彼女は僕の手からキャンディを受け取る。彼女は僕なんかにも、ありがとう、なんて言葉を毎日かけてくれる。僕はそれを聞いて、額に噴き出た汗を手の甲で拭う。

 彼女は最後までキャンディを食べないのに、いつも僕があげたその場でキャンディを口に入れ三度転がす。そして奥歯でかみ砕くと、教室を出て行ってしまう。

 いつも通り、それで会話が終わるはずだった。

 つん。

 肩に何かが触れる。僕は俯いていた顔をあげて振り返る。

 いつの間にか教室に戻ってきていた彼女が僕の肩を、今買ってきたらしい冷えたオレンジジュースのパックの角で、つついていた。振り返って戸惑う僕に、いたずらっ子のような笑みを浮かべた彼女は、何も言わずに僕の胸元にパックをぐっと押し付けた。そして僕がそれを慌てて受け取るのを見ると、いつものように席に座ってしまった。

 僕は呆然としてしばらく彼女を見つめていた。彼女はまるで何もなかったかのように座っている。僕は火照った頭を働かせ、手の中にあるオレンジジュースを見つめる。よく冷えたジュースのパックの周りには、水滴がまとわりついていて、僕の手汗と混ざってぽたぽたと僕のズボンを濡らした。

 そして、パックの裏面を見た時、僕の心臓がどくんと跳ねた。

 彼女の少し右上がりの字でメモが書かれている。

『放課後、二階の空き教室にこれを持ってきて』


          〇


 彼女からの手紙を見てから、僕は上の空でただ椅子に座っている人形のようだった。午後の授業の記憶がすっぽり頭から抜けてしまっている。あのメモは、手紙と受け取って間違いないだろう。

放課後、二階の人気のない空き教室。そこに僕と彼女が向かい合って立っている。彼女の息遣いだけが教室に響いていて――そんなことを考えるたび、僕はふるふると震えた。

 そして放課後が迫る。授業が終わる。チャイムが鳴る。席を立って挨拶をする。教室がざわざわと騒がしくなる。僕の心もざわざわと揺れた。

 隣の彼女を見る。彼女は僕の視線に気が付くと、ふいと顔を背けて、足早に教室を出て行った。僕は急いで帰る支度を済ませて、彼女の後を追う。

 僕が空き教室についた時、彼女は熱がこもった教室の窓から外を眺めていた。僕は、埃臭い教室の中にぽつんと立っている彼女を、きらきらと舞う塵越しに見ていた。

 彼女が僕を振り返る。

「見て。まだ昼間みたいに明るい」

 彼女が僕に言う。

 長い夏の日は、放課後になっても太陽がチリチリと空気を焼いている。

「そうだね……」

 僕は訳が分からないままそう答える。

 僕の答えに、彼女はくすくす笑って僕を手招きする。

 僕が彼女の隣に立つ。

「オレンジジュース、持ってきた?」

 彼女が問う。

「うん」

 僕は今まで握っていたせいで歪な形に歪んだ、ぬるいオレンジジュースのパックを差し出す。

「開けて?」

 彼女はパックを受け取らないままそう言った。

「……」

 僕の体は、僕が頭で理解する前に動いていた。まるで彼女に体を乗っ取られてしまったみたいだ。

「……はい」

 僕はストローを刺したパックを再び彼女に差し出す。

彼女は僕を見つめたまま何も言わない。

 教室の中だけ時が止まったみたいに、すべてが静止している。

 運動部がグラウンドで練習する声が、遠く聞こえる。

 しばらくして、彼女が口を開く。僕はそれから目が離せない。

「私ね、ものを飲み込むことが恥ずかしいの」

「……え?」

 僕は乾いた喉から出た、掠れた声で答える。

「いつもくれた飴、食べてないんだ」

 ごめんね、彼女はそう言って笑った。それに合わせて僕もぎこちない笑顔を浮かべる。

「う、うん。大丈夫……」

 知ってた、とは言えなかった。僕は彼女を裏切ってしまったような気持ちになる。

「だからこれは特別。君にだけだよ」

 そう言って彼女は縛っていたポニーテールを解くと、僕が持っているパックに顔を近づけて、ストローをくわえた。僕は彼女の動きを目で追う。少しうねった黒髪が彼女の顔にかかって、影を作った。彼女がジュースを吸う。橙色の液体が、半透明なストローの中を通っていくのが見える。

 ごくん、ごくん。

 彼女は、一度も口を離さずにジュースを飲み干した。僕は、ストローを通るジュースと、ジュースがなくなるにつれてしぼんでいくパックをただ食い入るように見ていた。

 彼女がストローを離す。彼女が顔を動かすと、日の光できらきらした肩までの黒い髪が揺れる。僕の頭は、熱気がこもった教室の中で茹っている。

「おしまい。またね」

 彼女はそう言うと、しっかりとした足取りで教室から出て行ってしまった。僕は彼女の後ろ姿を目で追うことすらできなかった。


          〇


家に帰ってからも、彼女は僕の頭を悩ませた。

蝉の鳴き声が、近所の林中に響いている。じわじわと湿った空気が熱されて、まるでサウナみたいだ。部屋に一つある窓を全開にして、扇風機の前には凍らせたペットボトルがおいてある。母が冷凍庫に用意いてくれていたものだ。こうするとクーラーみたいに涼しい。

「あー……」

 彼女と恋仲になりたい。そんな絵空事が浮かぶ。

 僕は、彼女に告白しているところを想像する。夕方、僕は教室で彼女が来るのを待っている。今回だけは、彼女を待たせるわけにはいかない。僕は彼女がそうしていたように、窓から外を眺める。この時、窓は開けておくべきだろう。夏休みに入ってますます誰も使わなくなった教室なんて、肌がじりじり焼けるような埃臭い空気で充満しているに決まっている。そんなのは僕の告白にふさわしくない。

そうしているうちに、彼女が教室に来る。僕は彼女に近づき、ジュースを渡す。「僕と付き合ってください。もし付き合ってくれるなら、このジュースを飲んでほしい」そう言ってジュースを差し出す。彼女は笑って、何も言わずにストローに口をつける。俯いた彼女の長いまつげが、彼女の顔に影を落としている。彼女の喉が控えめに波打つ。ごくり。ごくり。ごくり――

「ねえ!」

「わ!お母さん?」

「夕立が来るから洗濯物取り込んでおいてって言ったのに!」

 ザアア。大粒の雨が屋根を叩いている。近くで雷が鳴った。

「あっ、気づかなかった!」

「お母さん明日は仕事で遅くなるから、ちゃんとしてよ!」

「……はーい」

 まったく。母はそう言って僕の部屋を出ていく。僕は母の背中が見えなくなった後、椅子から立って、全開だった窓を、雨が入らないくらいまで閉めた。雨粒が窓を叩きつけ、部屋に入り込んで床を濡らしていた雨粒が僕の靴下を濡らす。

 告白シミュレーションに夢中になるあまり、夕立が降り始めたことに気づかなかった。僕は降ってくる雨粒を眺める。攻撃的なそれらは、ばたばたと派手な音を出しながら、道路のコンクリートに砕けていく。雨粒に当たった葉や枝がぐらぐら揺れている。厚く空を覆った雲は、今にも落ちてしまいそうなくらい重い。

 深呼吸をする。夕立が来て、しんと温度が下がった空気が肺を満たす。森のにおいがする。土のにおいがする。僕はそんな匂いを嗅ぐのが好きだ。森が、木が、土が、生きているとわかるから。生きている空気は重いのだ。

 雨を見ているうちに、喉が渇いてきた。

 僕は二階にある自分の部屋から一階のリビングに下りて冷蔵庫を開け、麦茶を探す。

「そうだった」

 忘れていた。さっき麦茶を飲み干してしまったばかりなので、ピッチャーの中はまだ透明な水の中に麦茶のパックが浮かんでいるだけだ。

 僕は取り出したピッチャーを冷蔵庫に戻して、再度物色する。

 これでいいか。僕はトマトジュースの小さなペットボトルを持って自分の部屋に戻ると、勉強机の椅子に座る。僕はペットボトルの蓋を開けてトマトジュースを一気に半分ほど飲んだ。

 ふと、机の上に並べておいてあるキャンディの大袋が目に入った。僕は彼女にあげたキャンディを数え間違えないように、中身がなくなった袋をきれいに伸ばしてとっておいている。その空になった四枚の袋の上に、まだ開けたばかりの五つ目の袋が乗っている。

 僕はその中からキャンディを一つとって、口の中に入れる。それから三度転がす。一、二、三。右、左、右。そうして、奥歯でキャンディをかみ砕いた。

 僕は砕いたばかりのキャンディを、べえっと左手の掌に吐き出す。ただ唾液がまとわりついただけの人型のキャンディが、無残に腹のあたりから割れていた。そして、表面の紫色の内側には、隙間なく赤いキャンディが詰まっている。

 赤い、赤い、赤い僕の内臓が、いつの間にか夕立が晴れた西日の太陽に、きらきらと宝石みたいに光った。僕はそれを傾けたり、日に当てたりして、光がちかちかと反射するのを楽しんだ。

 赤い内臓なら赤い血が必要だ。僕は、ちょうど半分の残っていたトマトジュースを数滴、左手の上に垂らす。

 ぽたり、ぽたり。

 僕の内臓が、急に現実味を帯びてびくびくと痙攣する。手のひらの上では、見事なバラバラ死体が出来上がっていた。僕が、腹から流した赤い血液の中で力なく横たわっている。あまりの現実離れした光景に頭がくらくらする。

彼女の柔らかい舌が僕の体をなぶる様子を、僕は知っている。彼女の口の中は暖かくて、僕はなすすべなく彼女の舌に転がされながら、その白い歯が僕をかみ砕くのを待っていた。暗い、暗いけれども暖かい。暖かいけれども怖い。怖いけれども気持ちいい。

期待や恐怖や快楽でかき混ぜられた脳みそがどろどろと溶けていく音が聞こえた。液状になった僕の脳みそが、留まっていられなくなって流れてくる。喉の奥に鉄臭いにおいが染みる。

ポタリ。

僕の死体の上に赤い液体が落ちた。僕は慌てて鼻を触る。ああ、鼻から脳みそが出てきた。僕の右手は赤く汚れた。僕の死体も、偽物の血なんかより、ずっと鮮やかで温かい、とろりとした赤で覆われた。僕は鼻から脳みそが垂れているのもそのままに、左手の上を食い入るように見つめる。

ポタリ。

僕の体がますます赤く染まる。僕は割れている体を右手でつまんで、口の中に入れた。それから左手の掌を、残った体の欠片と血液が少しも残らないようにきれいに舐める。

キャンディが溶けて口の中がべたついている。甘ったるいキャンディの味を、チクチクとした鉄の味がかき消す。それから、ほんのりしょっぱい。

これが僕の味だ。僕はキャンディが溶けてなくなるまで舐め続けた。

キャンディが口の中からなくなってしまっても、僕はしばらく動けないでいた。とてつもない喪失感が僕を襲う。それと同時に背徳的な期待が胸のそこでうごめいている。

もし、彼女が僕を食べてくれたなら。

遠くで日暮が鳴いている。そのほかにも、よく知らない虫や野鳥の声が響く。扇風機が部屋の中の空気をかき回している。扇風機の前に置いておいた、凍らせたペットボトルはすっかり溶けていて、カーペットを濡らしている。夕暮れの日差しに濃くなった影で、部屋の中がずんと沈む。

僕は、部屋に充満したままの重い空気を吸い込んだ。それと同時に喉に流れた血液に少しだけむせた。


          〇


 次の日、彼女はなにも無かったかのように椅子に座っている。当たり前のように、そこに会話はない。僕は彼女が振り向いてくれるのではないかと、少し期待した自分に腹が立った。そんなはずないだろ、つけあがるなよ。

 昼休みの時間に、僕は彼女にキャンディをあげる。僕はいつもみたいに緊張しながら彼女が教室に戻ってくるのを待つ。僕が汗と一緒に握りしめていたキャンディの包装には、くしゃくしゃに皺がついていた。僕はそのキャンディを、手のひらの上で小さな水たまりのようになっている汗の上に浮かべて、彼女に差し出す。

「ありがとう」

 彼女はそう言っていつものようにキャンディを受け取った。僕はまた彼女から、メモを書いたオレンジジュースをもらえるのではないかと期待していたが、その日、彼女が僕にかけたのは、ありがとう、の一言だけだった。僕はそのことに少しだけ落胆する。

 僕は、落胆している自分自身に驚いていた。僕はいつの間にこんなに貪欲になった?彼女が僕のキャンディを受け取ってくれるだけで満足だったはずなのに。

 僕が、毎日キャンディを彼女にあげることに夢中になっている間に、夏休みが間近に迫っていた。焦りと夏の暑さが思考を麻痺させて、僕の背中を押す。僕は、小銭を握りしめて、自動販売機に走る。初めて、一年の教室が一階にあってよかったと思った。僕は汗でぬれた小銭を慌ただしく自動販売機に入れて、迷わずにオレンジジュ―スのボタンを押した。がたんとジュースが落ちる。僕はよく冷えたそれを握って、教室に走った。

 彼女がオレンジジュースをくれないのなら、僕があげればいいじゃないか!いつもキャンディをあげていたのになぜ思いつかなかったのだろう。僕は体から汗が噴き出るのを感じながら、思い切り破顔した。

 教室について、座っている彼女のもとに向かう。

 脳が溶けてしまうような夏の日に走った僕は、もう考えることができない。息が上がっているのに構わずに、彼女に声を掛けた。

「あの!」

 彼女が読んでいた本から顔をあげる。彼女はこんなに暑い日でも、いつもと変わらず読書をしていて、まるで彼女の周りだけクーラーが効いた図書館みたいだ。僕はぼっと呆けたまま彼女を見つめる。

「どうしたの?」

 彼女が言う。そうだ、呆けている場合ではない。

「あの……、これ」

 僕は握っていたオレンジジュースを差し出す。彼女はそれを不思議そうに見た。

「放課後、に、二階の空き教室に、これ、を持ってきて……」

 ほしい。そう言ったつもりだけれど、急に自信がなくなってきた僕の声は尻つぼみになって、たぶん彼女には聞こえていなかっただろう。そもそもこんな話、彼女が受け入れるはずないじゃないか。何を考えているんだ、僕は。

「やだ」

 ほらやっぱり。

「そ、そうだよね……、はは」

 僕は引きつった顔で愛想笑いをしながら、オレンジジュースを持った手を引っ込め、ようとした。が、できなかった。彼女が、オレンジジュースを持っている方の手首をつかんだから。僕は、彼女に触れられて動けなくなった。

「君が」

 僕は足元をうろついていた目線を彼女に向ける。彼女は座ったまま僕の顔をまっすぐ見つめていた。それに少しだけうろたえる。

「君が、持ってきて」

 そう言って彼女はつかんだままの僕の手首を、ぐいと僕の腹部に押し付けた。腹がヒヤッとして、ジュースについた水滴が僕のシャツを濡らす。

「わ、かった」

 僕は反射的にそう言って頷いた。それを見た彼女は満足そうに笑って、「また放課後にね」

と言うと前を向いて座りなおした。

 僕は今起こったことを理解するのに、午後の授業の時間を目一杯使った。休み時間も使った。でも、何が起こったかは分からなかった。

ただ、彼女のしっとりと湿った、僕より少しだけ体温の低い手が触れた感触がいつまでも残っていて、彼女も汗をかくんだ、と当たり前のことにぼんやりとした驚きを感じていた。


          〇


 放課後、うるさい鼓動を無視しながら、二階の空き教室に向かう。教室の前についた僕は、少しだけ開いたドアの隙間からそっと教室の中を覗いた。

 彼女はあの日と同じように、窓の近くに立って、外を眺めていた。さっきまで結ばれていた彼女の髪の毛は下ろされていて、結んでいたあたりの髪の毛に癖がついてごわごわと乱れていた。そのうねった髪の毛に強い光が当たって、彼女の髪の毛はきらきらと輝いて見えた。僕は乱れる呼吸を、押さえつけて、ドアを開けた。

 がらがら。

「待ってたよ」

 彼女が振り向く。

「あ、ごめん……」

そう言って狼狽える僕を見て、彼女がくすくす笑った。彼女が笑うと、肩までの髪の毛も一緒にふわふわと揺れた。

「そ、そうだね……」

 僕はそう言いながら彼女の元に歩いていく。誰も使っていない教室は、古い木材と埃のにおいが染みついた空気がこもっていて、息苦しい。教室はそう広くないはずなのに、彼女にたどり着くまでが、果てしなく遠いように思えた。

 やっと彼女の隣に立った頃、僕は浅い息をしながら鼻の頭に汗を浮かべていた。

「君も物好きだね。また見たいなんてさ」

「だ、だって。君が、きれいだから」

 僕は彼女の顔を見る。彼女は少し驚いたような表情をしていた。

「きれい?そう言われたのは初めて」

「そ、うなんだ」

「うん」

 彼女がそう言ったきり、教室が静まり返る。僕はなんて言っていいのか分からなくて、黙って彼女の上履きを見つめていた。彼女のかかとが僅かに上下する。あ、彼女も緊張しているんだ。そう思った僕の口は、ますますカラカラに乾いて、それをごまかすように喉をさする。

「ねえ、始めようか」

 彼女が言う。

 僕は震える指でなんとかストローをパックに刺すと、それを差し出す。ずっと握っていてぬるくなったパックを持った手が痺れている。

 彼女は僕の様子を見て言った。

「緊張してるの?」

「あ……」

 喉に何か詰まってしまったみたいに、うまく声が出せない。パックの周りに結露した水滴が、するするとパックの表面を滑って、ポタリ、と床に落ちた。

「ちゃんと持っててね」

 彼女はやはり、僕からパックを受け取らずに、少しかがんでストローを咥えると、そのまま一気に飲み干した。僕はパックを握っているだけで精いっぱいだった。

 彼女がジュースを飲み干す。

ずごご。その音ではっと我に返る。彼女はストローから口を離すと、おもむろにスカートのポケットをまさぐると、今日僕があげたキャンディを取り出した。

 彼女が髪の毛を指にくるくると巻きつけながら言う。

「見てて」

 僕は彼女の指がキャンディの袋を破るのを、食い入るように見た。そうして取り出されたキャンディは彼女の指に触れることなく彼女の口に放り込まれた。それが少し残念だと思う。彼女はいつものようにキャンディを口の中で転がす。彼女の赤い舌が僕の腹を、頬を、足を撫でる。全身がむずむずして、唾液でぬれてゆくのがたまらない。それから、彼女の白い歯でかみ砕かれる。頭の中に、僕の骨が折れる音が響いて、僕はそれに喚起する。そして僕の内臓が彼女の口内にぶちまかれる。とろりとした赤色が、彼女の粘膜を濡らす。そして彼女は僕の全部を、吐き出すことなく飲み込んだ。

 大きく口を開けて、べえ、と舌を出す彼女が言う。

「君、食べられちゃったね」


          〇


 この日ほど、僕が人間であることを後悔した日はない。

 僕は、彼女の奥歯に挟まったままの赤いキャンディの欠片を見て、それが僕の肉片でないことにひどく落胆した。


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