傷だらけの天使
なしごれん
傷だらけの天使
1
昨晩から続いた雨がすっかり止み、校舎を囲うように植わったソメイヨシノの青葉に
もうすぐ夏が始まる、と少年は思った。校庭に響く女子生徒の黄色い声が、鬱蒼と枝にぶら下がる緑葉のひとえ一重に力を与え、柔らかな風が日差しと共にそこへ訪れると、小気味よく互いの身体を合わせ
その晴れ晴れしい光景に思わず優しい息が漏れる。澄んだ蒼さが少年を、どこまでも遠くへと誘ってくれるような気がして、彼は暫く窓から目が離せなかった。背後から忍び寄る黒い存在など忘れて。
2
少年は青色が好きだった。空、海、絵具、信号機、見る人に安らぎと爽快を与え、薄らと保つ幼さがどこか気品さを漂わせている、そんな青が好きだった。特に澄んだ紺碧は、海辺に佇むヨーロッパの観光地を思い浮かばせ、海底までも
ハッと目を見開いて起き上がると、屋上に吹き荒れる
鼻先が痛かった。先ほど殴られたとき咄嗟に、うつ伏せのまま強く打ってしまったのだ。運よく鼻血は流れなかったが、肩と膝に大きな痣をつくってしまい、保健室に行くと言って屋上へと逃げてきた自分が彼方へと消えていく。
弱ったな、と少年は小さく笑って目を閉じた。苛む気持ちを静めようと闇に身を投じ、羞恥を耐えて己を律しようとした。すると闇の中から色が浮かび、光を包んだ一面の空が眼前に甦る。今しがたの眺望は、永遠の青だった。
目を開けた少年は、しばらく瞼の裏に浮かぶキャンバスに耽っていた。次第に左の方からうろこ雲が流れ出し、青の薄くなった天空に、白色が混じりだす頃になると、もう少年が見ていた景色とはすっかり変わってしまった青空がそこにはあった。
少年は立ち上がると塔屋に入り、そのまま階段を下った。
けれど少年は、いましがた屋上で見上げた空の一瞬の風景が、いつまでも忘れない宝物になるだろうと思った。
3
少年はいじめが嫌いだった。一方的に暴力を振るわれることもそうだし、笑いで昇華させようとする場の空気も陰湿で醜く、何よりもそんな目に遭っている自分が堪らなく嫌いだった。
けれど、殴られた者にしかわからない痛みが必ずあった。無作為に放たれる拳の波はそれぞれ力の差があり、強い者もいれば弱い者もいた。拳に加わった力が少年の肌を突き破り、血肉を侵して性の縫い口に到達すると、一瞬脳裏に「死」の文字が浮かび上がる。じんわりと血が広がり、首筋を伝う冷や汗が、口いっぱいに酸っぱい臭気を漂わせて、少年はその場に
4
良く晴れた日ほど心をえぐられるような不快な気分に
またある日、少年は足を引きずりながら何とか屋上へと辿り着いた。登校時に後ろから羽交い絞めに会い、藻搔いた時分に足を捻ったのだ。幸い捻挫は免れたが、痛んだ足が授業中に疼いてたまらない。少年は逃げるように屋上へと赴いた。一人になりたかったのだ。
スポットライトのように陽の当たる巨大な受電機の縁に腰を下ろし、途切れた雲の行方をおぼろげに見つめていると、塔屋の上に赤い布が揺らめいて、下に出来た影とともに動いている。目を凝らすと、それが可愛らしいスカートの裾とわかり、思わず視線を上へもっていく。白い上衣を身に纏い、睫毛の長い少女と目が合った。少年は
「おーい、なにしてるんだ」
少女は言葉を返さなかった。ピンク色の唇は小さく重ねられ動かなかった。そんなところに上って何をしているのだろうと、少年は少女のことが気になって、塔屋の上へあがろうと、二メートルほど上部にある縁を掴んで、何とか身体を持ち上げた。痣の残る左腕と、捻った足を持ち上げるのに苦労したが、少年は額に汗を浮かべ、何とか塔屋の上に辿り着くことができ、再び少女に声を掛けようとして口を噤んだ。
少女の背に大きな羽が二つ、微風に揺れていた。
5
それから少女は少年が屋上へ訪れる度に現れた。少年は晴れた日は決まって屋上へ赴き、チャイムが鳴る何分かを空を見上げて過ごしたが、最近は専ら少女のいる塔屋に上り、彼女の背に生える巨大な翼の模様を仔細に見入ったり、また少女の隣に足を放り出して座り、雲の影がゆっくりと町並みを覆う様を眺めたりして時間を潰した。時折、少年はひとりごとのように少女に声を掛け、返答がないと分かっていながらも、楽しそうに微笑んだりすることもあった。
「きみはあの子たちのようにテニスをやらないのかい」
「……」
「ぼくも昔やっていたんだ。ちゅうがくの頃だけどね」
「……」
「でも直ぐに辞めたんだ。つまらないじゃない。ただボールを追うだけなんてね」
「……」
「でもたまに、やりたくなる時があってね。今日みたいによく晴れた日なんかは特にね」
「……」
「ねえ、一緒にテニスをやろうよ。ぼくはきみとだったら、上手にテニスができると思うんだ」
少年はそう言って少女の手を取ろうとしてやめた。少女の凛とした表情に太陽が翳り、いつも以上に無機質な表情が、少年に畏怖ともとれる感情を生み出していたのだ。
少年は黙って町を見下ろした。いつも通り軒先に日が当たり、活発に動く人々の姿が、淡く過ぎていく雲とともに望めた。少年は隣に座る少女を見やった。よく開かれた瞳が僅かに揺れ、長い睫毛を微風に晒していた。少年はひとりで眺める何気ない風景が、少女と見ることで心なし異なって見えるのはなぜだろうとその時思った。ひとりで過ごしてきた一月前と、少女が現れたここ最近とを比べると、身体に出来る傷の数も増え、日毎に眼を付けられることも多くなったが、それと同時に心の中で何かが生まれたのもまた事実であった。
少女はぼくの存在が不思議ではないのだろうか、と少年は思った。幾たびも屋上を訪れ、可否も聞かず少女の隣に腰を下ろし、あまつさえ独り言のようにいつまでも語りかけていると言うのに、少女は不満ひとつとして出したことが無い。少女は僕のことをどう思っているのだろうか。少年はもう一度空に目を移し、変化し続ける雲の影を見やった。そして瞼を焦がす太陽のように、自分も少女の存在が不思議だとは思わないと感じた。
6
学期末の試験が終われば、いよいよ夏休みが始まるというのに、少年はいつものように屋上に身を潜めていた。彼らの行為は数を重ねるごとに威力を益し、人は増え、とてもひとりでは太刀打ちできぬまでエスカレートしていった。少年は風呂に入る度に、自分の身体に浮かび上がる傷の、その毒々しい重さに目を背けたくなった。何とか母親に見つからぬようにと、わざと袖の長い上衣を羽織って寝室へと逃げた。
少女は相変わらず塔屋上に腰を下ろしていた。階段を上り、外れかけの裏窓から屋上へと侵入すると、水を含んだ錆びの匂いと一緒に、空を覆う風の青い香りが少年の鼻翼をくすぐる。柵を跨ぎ、コンクリートを踏むと、まるで山頂に到達したかのような爽快に、頭上いっぱいに広がる青空が少年を迎え、汗で濡れた鼻先をゆっくりと拭うと、ちょうどよく心地よい風が吹いて、少女の存在が視界に確かめられた。
「毎日ここにいるんだね」
「……」
「そんなに町ばかり眺めて、嫌にならないのかい」
「……」
「君だって同じじゃないかって?ハハハ。ぼくは違うよ」
「……」
「ぼくはね、この町が好きなんだ。確かにビルばっかりで味気ないし、裏通りもジメジメしてて陰気臭い、事故もしょっちゅう起こってる。でも光が当たれば、どんなところも晴れ晴れと輝いて見える。今までのことが全部幻だったみたいに、全部が煌めいて見えてくるんだ」
「ぼくがこの町に生まれていなかったら、こんな想い、抱かないんだけどね。でも、些細なことかもしれないけど、毎日こうやって眺めているとね、町もちょっとずつ変わっていってるんだって思うんだよ。区画整理だったり、道路工事とかで、町も、ぼくたち人間みたいに成長していってるんだなって。そう思うと何だか親近感みたいな情が湧いてきて、ずっとこうして見守っていたくなるんだ」
少年はそこまで口にして少女の横顔を眺めた。ちょうど長い睫毛の下に陽が当たり、白くなった肌に細い前髪がこびりついて、童顔な少女をより一層幼く映していた。
少年はふと隣のクラスにいるひとりの女子生徒のことを頭に浮かべていた。それは学級委員でも騒がしい生徒でもなく、また、ひと際周囲を黙らせる美貌の持ち主でもなかった。けれどたまに教室を移動するさいに目が合って、こちらが一瞬逸らしてまた目をやるとまだ見ている。動揺してまた目を逸らすがやはり眼が吸い寄せられ、そうなると互いに見つめ合う時間だけが長くなって、結局どちらかが廊下へ去ることによって事は終わるのだ。そんなことを二三度繰り返すうちにこちらが恥ずかしくなってしまい、今では伏し目がちに教室を出るのだけれど、そんな時でもやはり彼女の顔が浮ついて離れない。瞼の裏に張り付いたように、鮮明にその女子生徒の顔が目に浮かぶのだった。
開け放たれた窓から吹き出す風でカーテンが躍るように、少年の頭にいつまでも女性生徒の顔が回っていた。すると今隣りに座り、様相を変えることなく町を眺めている少女の顔が、いつの日かの女子生徒とそっくりな気がして、少年は時間を忘れてその横顔に見入っていた。
そうすると、心の中の
「
少年は少女の瞳を見た。そしてゆっくりと、長い時間を懸けて自分の過去を語りだした。
7
ここにあるものは
全て
一片手に取ってみようとも
すぐさま風に散ってしまう
危うさは忘却を孕んでいるのだ
ぼくの前に現れた天使
浮遊する空に架かったくじら雲
風にはためくシーツのように
受けた光が目を散らす
そのまま地上へ降りてきて
何言うことなく座り込む
ぼくの前に現れた天使
太陽はきみそのものさ
時計台より高くそびえる
大きな幹に身を寄せて
きみはひとり俯きげに
小さく息を吐いている
愛とか恋とか数多ある無常の輝きに
闇を纏った一矢の不安が投げられて
未熟な肌は黒々と
針の先から血が伝う
白い光を
きみは薄ら
呟くことなくぼくを見る
雪刻よりも冷たいまなざしに
温かな血の昂ぶりが
次第に目元を熱くさせ
肉の疼きを感じるぼくは
まさに偽物そのものだ
8
夏休み直前の三日間、それまでの快晴が嘘のように闇が空を包み、膨らんだ夥しい雲の層から水が鳴った。その間も僕は屋上に立ち寄って、上靴を滑らせながら何とかコンクリートを踏み、少女の所在を確かめたが、雨の降り続けた三日間、彼女が屋上へ現れることはなかった。
テスト返却後に男子トイレに呼ばれ、その気もないのに付いていくと、普段親しくしていた者が顔を埋めて倒れている。「どうした?」と駆け寄ってみても返事がない。すすり泣く声が口元から漏れるだけで、後ろの嘲笑がそれを消し去る。
「こいつが口を割ったんだよ。お前が盗んだってな」
「そんなはずないだろ。ぼくはなにも取ってない」
「こいつの言ってることが信じられないって言うのかよ」
黒い脚がみぞおちに刺さる。鈍痛が足元をよろつかせ、便器に手をついて何とか身体を持ち起こすが、左や右から詰襟が目に飛んで、たちまち視界は暗くなる。頭皮を締め付ける上靴の
帰り道、少年は空になった財布を強く握っていた。頭が真っ白だった。これから何をするべきかと、考える度に殴られたこめかみが疼いて、行かう人々となるべく目を合わせずに帰路に就く。けれど足先がなかなか家へ向かわない。道を進もうにも後ろめたさが先立って、母親の悲しい顔ばかり浮かび上がる。少年は雨上がりの赤い陽を背に、顔をひきつらせながら水たまりを強く踏みしめた。
9
終業式が終わり、勉強から解放された学生の喚声が、屋上の一角からでも確かに響いていた。校門から蟻のように解き放たれる生徒らを、塔屋から足を放り出して見つめている少女に向かって、少年は語りかけた。
「今回はなかなか上出来だったよ。英語に数学に世界史に……なによりも苦手だった古典が、二十点も上がったんだ。へへへ。それでね、自慢じゃないけどね、今回は物理が学年で一番だったんだ」
「……」
「用紙を貰うときに先生がね、よく頑張ったなって、褒めてくれたんだ。それを聞いた時、ぼくほんとうに泣きそうになってね。頑張ってよかったなあって、そうしみじみ思ったんだ」
「……」
「それで次の休み時間にね、たまたま廊下を歩いていたら、隣のクラスの、ほら、前にきみに似ているっていったこがさ、物理何点でしたって、話しかけてくれたんだ」
「……」
「そしたら、なんとそのこが物理で二番目だったんだ。ぼくの次に高い点数だったんだよ。それでぼくすごくびっくりしちゃってね。なんでも、去年期末考査が張り出されたときに、ぼくの名前を憶えてくれていたんだって」
「……」
「ああ、なんだか今日は気分がいいな。昨日からずっと雨だったのに、こんなに晴れて。見てよほら、雲一つない快晴だよ。それにあそこ。水たまりが陽に当たって虹みたいだ。きれいだね。あんなに空がキレイなら、虹にすむ住人も、いい眺めだろうね」
少年の引き攣った笑いは突如訪れた風に消えていった。沈黙が幾分か続き、再び風が現れだした頃、少年は塔屋から立ち上がっていた。
少年は死のうと思った。ここから飛び降りてしまえば何もかも終わりに出来ると思った。少年は二日前、下駄箱で待ち伏せにあったさい、母親の財布から取った一万円を、呆気なく彼らに渡してしまったのだ。少年は絶望に身を縮ませて頭を下げ続けた。お願いです。何とかこのお金だけはと、声を出す度に閃光のように拳が肉をえぐり、口は切れ、身体の節々が痛んだ。けれど少年の心には、そんな言葉では形容できない痛みが
母親を裏切ってしまったという後悔。それは少年が金品を迫られ焦っていたころ、ちょうど母親が居間を出た隙に、急いで財布に手を付けてしまったことだった。それは生れてから今まで、女手一つで育ててくれた肉親を
情けなさと、不甲斐なさと、そしてそんな自分が生き続けていることに恥ずかしくなって、少年は自らを無くすことで全てを終えようとしたのだ。
「ぼくはアイツらを懲らしめたいとか、償わせようとか、これっぽっちも思ってないんだ。全部自分が弱くて情けなくて、意気地がないからいけないんだ。そのうえ一番愛してくれた母親まで裏切って、ぼくはもう生きていられないよ。だからここで断言する。ぼくは死んでやる。アイツらのためじゃない、決してアイツらのためなんかじゃない。ぼくは自分のために死ぬんだ」
言い切ったあと少年は靴を脱ぎ丁寧に揃えた。そして姿勢よく前方を見つめ、息を吐き、また吸い込んで目を閉じた。暗闇の中から浮かび上がる死への恐怖は、全てここで静めようと心に決め、穏やかな波が訪れるのを待った。少年は少女の前だけは、強い自分を見せたかった。
風の音だけがいつまで鳴っていた。没入の前の暗闇は、既に生前の思い出に染まっていた。少年は今になって飛び降りるのを
「ねこ」
少年は驚いて目を開いた。少年の隣に座り、身動き一つ示さなかった少女が、腕を真っすぐ出し、左の方角をさしていた。表情は普段のままだが、腕だけはしっかりと肩と平行に上がっていた。少年は咄嗟に指の向いた方へと顔を向けた。すると十メートルほど離れた囲い柵の上に、一匹の白猫が眠っていた。
危ない!と少年は塔屋から降り、靴を履くことも忘れて猫の元へ走った。今まで幾度となく屋上へ訪れていたが、生き物が現れたことは一度もなく、ましてや猫が侵入できるような通路は何処にもない筈なのにと、手すりの面にバランスよく身体を預け、気持ちよく眠っている白猫を抱き寄せて、ホッと胸を撫でおろして塔屋を見上げると、少女の姿が見当たらない。少年は急いで塔屋へよじ登り、少女の座っていた場所で足を止めた。
そこには小さくなった羽根が一枚、風に揺れることなく静止していた。
《おわり》
傷だらけの天使 なしごれん @Nashigoren66
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