第49話 判らなくても一周だけ巡ってみて

自分に判らないコトがある時、「自分はこのコトが判って居ない」っていう事実については判っているとなにかといいよね。





自分の無知に自覚的である状態。





何かついて「判らない」という情況になっちゃった時、全要素をひっくるめてなんでもかんでも「判らない」と感じてしまっている人をよく見かける。





ただ実はそこまで悲観的な状況ではないケースが多い気がする。





「全てが判らない」と感じてしまうと糸口を見つける可能性さえも無条件で放棄してしまうので、あまりよろしくないと思う。





誰かに教えてもらったり導いてもらうコトは一見楽チンなのでつい求めてしまう解決方法、そう、そう思うよね。





ところがその手段を使う度に、自分で考える機会を一回分捨てたコトになるのは間違いない。





ケースバイケースで使い分けるのがいいのでしょうけど、その瞬間瞬間にいつも冷静でいられるわけではないし(むしろ判らないコトに遭遇するとほんのり混乱している)、人に頼ってその不安状態から脱出できるならつい飛び付きたくなるのも判る。





痛いほどよく判る。





でも、とりあえずの答えを見つけるか、それとも考えたけど何も出てこないという状況に至るかして、せめて考えを一周巡ってみるくらいのコトは自分でヤっておきたいもの。





人に教えを乞うのは悪ではない。





でもせめて自分で答えを見つけようとした事実を提示出来ると、助けてくれる人は段々増えてくるかもよ、って他人事ながら思う。





わたしの場合は、なんとしても自分で答えを見つけようとするタイプ。


本気で自分独りでなんとかしたいと思っていたら、これまでなんとかなってきたよ。


---

つづく

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