一番大事なこと

「とにかく、僕達はこれから行くところがあるんだ。邪魔しないでくれるかな」


 『あっくん』はそう言うと、久美の手首を摑んでさっさとその場を立ち去ろうとした。久美が汚らわしそうに顔をしかめて手を振り払おうとする。


「久美! あんた本当にそれでいいの!?」


 侑李が久美の背中に向かって叫んだ。久美のヒールの音が止む。


「あんた、本当はそんな男のことなんて好きじゃないんでしょ? なのにそいつに言われるままになって、本当にいいの?」


 久美はうつむいて返事をしなかった。『あっくん』はじれったそうに久美の手を引っ張ったが、それでも久美は動かなかった。


「……だって。侑李が」


 やがて久美がぽつりと言った。地面に視線を落としたまま、絞り出すように続ける。


「侑李が……あたしのことほったらかして葉月さんのとこばっか行くから……。だからもう……侑李はあたしのこと、いらなくなったんだって思って……」


 切れ切れの久美の言葉は次第に嗚咽混じりになっていく。だけど侑李は同情できないのか、呆れ顔になって腰に手を当てた。

 

「あのねぇ、凜はずっと入院してたんだよ? 心配して、なるべく傍にいてあげたいって思うのは当たり前じゃん。それに久美、あたし以外にも友達いっぱいいるし、別にあたしがいなくたって……」


「それじゃダメなの!」


 そう言うと久美は顔を上げ、『あっくん』の手を乱暴に払った。勢いのまま振り返り、侑李の方に身を乗り出して叫ぶ。


「他の友達なんていらない。あたしには侑李だけいればいいの! あたしにとっては侑李が一番で、だから侑李にとっても、あたしが一番でいてほしかった。なのに……、侑李はいっつも葉月さんのことばっかりで、あたしのことなんか何にも……」


 そこで堪え切れなくなったのか、久美は両手で目を覆うと、ぼろぼろと涙を零し始めた。侑李は困惑した顔になって泣きじゃくる久美を見つめている。そんな二人を遠巻きに眺めながら、凜はようやく、久美が自分にしてきた仕打ちの理由がわかった気がした。


 久美はずっと、自分に嫉妬していたのだ。自分が侑李と仲良くなったことで、たった一人の親友を奪われるのではないかと心配になった。だから凜をクラスで孤立させ、二人が仲良くなるのを妨害しようとしたのだ。


 だが結局、侑李は凜と付き合うのを止めず、凜が入院してからはずっと自分に付き添ってくれ、久美との距離はどんどん離れていってしまった。それは久美にとって、全てを奪われたも同然だったのかもしれない。


 久美は侑李と幼なじみで、二人はずっと一緒だった。久美が侑李に執着する気持ちはわからないでもない。

 だけど一方で、それを押しつけられている侑李はどうなるのだろう。他の人と仲良くすることも許されず、ずっと一人だけとの関係を強制されている状態。それは侑李にとって辛いものだっただろう。久美を見捨てるような発言をしてしまったのも、いい加減その関係から解放されたいと思っていたからかもしれない。


 すれ違う二人の気持ち。その溝を埋めるためには、他の誰かが口を出すしかない。


「……あのさ、侑李は、片瀬さんのこともちゃんと考えてると思うよ」


 気がつくと、そんな言葉が凜の口を衝いて出ていた。途端に久美が険しい顔になり、目に涙を溜めたまま凜を睨みつけてきた。


「何? アンタに何がわかるの? あたしから侑李を奪ったくせに!」


「……その、奪うとかさ、そういうこと、考えなくていいんじゃないかな。別にあたしが侑李と仲良くしたって、侑李が片瀬さんの友達じゃなくなるわけじゃないし……。

 それに侑李、片瀬さんが学校来なくなってからずっと心配してたんだよ。今日だって、片瀬さんがここにいるって鷹が知らせてくれた時、侑李は早くそこに行かなきゃって焦ってた。友達じゃないって思ってるならそんな必死にならないよね?」


 そう言われても納得できないのか、久美はなおも疑い深い眼差しを向けてくる。凜の言葉を撥ねつけることで、自分の身を守ろうとしているかのようだ。

 凜は頭を捻りながら、何とか言葉を続けようとした。


「侑李は片瀬さんのことキライになったわけじゃない。ただ、片瀬さんとしか一緒にいられないのが嫌だったんじゃないかな。片瀬さんは侑李だけいればいいって言ってたけど、侑李は他の子とも仲良くしたかった。侑李が他の子と仲良くなったら、その子に侑李を取られちゃうって片瀬さんは思ってるのかもしれないけど、侑李は絶対そんなことしないよ。他に仲いい子ができたとしても、片瀬さんのこと捨てたりしない。だから今も、こうやって駆けつけてくれたんじゃないの?」


 久美は上目遣いにちらりと侑李を見上げたが、すぐに憮然として顔をうつむけた。何人かの通行人が、物珍しそうな顔をして凜達の方を振り返っていく。


「……アンタは怖くないの?」


 やがて久美が尋ねてきた。先ほどまでの勢いは殺がれ、声が震えている。


「あたしが学校に行って侑李と仲良くしたら、アンタには友達がいなくなる。そしたらまたひとりぼっちになるんだよ? そういうの怖いとか、嫌だとか思わないわけ?」


 また同じ質問だ。鷹からも、侑李からも訊かれた質問。見返りがないことのために奔走するのはそれほど奇妙なのだろうか。


「……正直、最初は何も考えてなかった。片瀬さんが学校に戻って自分がどうなるかとか、また一人になるかもしれないとか……。そりゃ一人になるのは怖いよ。せっかく自分の居場所見つけて学校が楽しいって思えるようになったのに、また一人に戻るなんて絶対嫌。……でも、それ以上に嫌なのは、自分が何もしないでいること」


 凜はそこで顔を上げた。表情を引き締め、身を乗り出すようにして続ける。


「このまま片瀬さんのことほっといた方が、あたしは楽しいままでいられるのかもしれない。でもね、そんなの全然嬉しくないんだよ! あたしは片瀬さんに学校に戻ってきてほしいし、侑李と仲直りしてほしい! それでまた一人になったとしても……何もしないよりはよかったって思う」


 そう一息に言ってのけ、凜は改めて久美を見つめた。久美もまた、珍しい生き物を発見したかのような顔で凜を見つめ返してくる。さっきまで遠巻きに凜達を眺めていた通行人は、今や興味をなくしたように傍らを通り過ぎていく。


「……アンタ、バカだね」


 ぽつりと零したのは久美だった。凜から視線を外し、あーあと言って大げさに息をつく。それから両手を頭上に挙げ、トップスからへそが見えそうになるほど思いっきり伸びをした。


「なーんか、いろいろあって疲れちゃった。久美、今日はもう帰る!」


 いきなりそう言うと、久美は凜達に背を向けて一人でさっさと歩いて行ってしまった。急に話を打ち切られ、一同はぽかんとして彼女の背中を見送っていたが、いち早く気づいた侑李が後を追って駆け出した。


「ちょっと久美! 待ちなさい!」


 険しい顔で侑李が叫び、凜も慌てて後に続く。そこでようやく、完全に蚊帳の外にいた『あっくん』が息を吹き返した。


「え……ちょっと久美ちゃん!? この後は映画に行く予定じゃ……」


 『あっくん』が慌てふためいた様子で叫び、手足をもつれさせるようにしながら久美の後を追おうとする。が、彼が駆け出すよりも早く誰かに腕を摑まれた。


「このまま出番なしじゃ何だから、俺からも一言言わせてほしいんだけど」


 声の主は鷹だった。『あっくん』はじれったそうに振り返ったが、自分より背の高い鷹に気圧されたのか、ひっと情けない声を上げて仰け反った。そんな『あっくん』を見下ろしながら、鷹が容赦なく語を継いだ。


「あんたさ、完全に勘違いしてるぜ。あんたみたいな冴えないオッサンを、片瀬が本気で相手すると思うか? あんなアイドル顔負けのビジュアルした女が?

 あんたはさ、ただ暇つぶしの相手としてあいつに遊ばれてただけなんだよ。あんたがいくらあいつを追っかけたところで、あいつは絶対あんたになびかない。いい加減こんなバカなこと止めて、もっとマシな相手探せよな」


 『あっくん』は目を剝いて鷹を睨みつけ、反論しようと口を開いたが、すぐに思い直したように口を噤んでがっくりと頭を垂れた。本人もうすうす気づいてはいたのだろう。


 鷹は憐れむような視線で『あっくん』を見下ろしていたが、やがて皺になったスーツから手を離すと、自分も足早に久美達の後を追った。


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