欲しかったもの

 午後七時四十分、間もなく面会時間が終了しようとする病院内の受付で、木塚恵きづかめぐみは今日の面会簿をチェックしていた。


 面会客の中には、毎日来ているために顔と名前を覚えてしまっている者もいる。例えば、四〇七号室を訪ねてくる芳賀侑李という子。いつも学校が終わった四時過ぎくらいにやって来る、大人びた雰囲気のある女の子だ。入院している葉月凜という患者の友達だろうか。二人ともまだ高校生くらいだろうに、可哀そうに――。恵はそんなことを思いながら面会簿を捲った。


「……あの、すみません」


 小声で誰かに呼ばれ、恵は慌てて顔を上げた。おそらく初めて見る顔だと思うが、高校生くらいの女の子が緊張した面持ちで立っているのが見えた。


「あの、面会ってまだ行けるんですか。もし行けるんだったら、部屋の番号教えてほしいんですけど」


 病院に慣れていないのか、少女がたどたどしい口調で言った。恵は壁の時計をちらりと見やった。時刻は七時四十五分になろうとしている。


「あと十五分ほどで面会時間は終了しますので、少しお立ち寄りになる程度になるかと思いますが、構いませんか?」


 恵が事務的な口調で尋ねた。少女は小首を傾げて考えた後、こっくりと頷いた。


 恵は面会簿を少女の方に差し出し、記入を促した。そのまま少女が記入する様子を眺めていたが、そこに書かれた患者の名前を見て、おや、と思った。そこにはさっきまで自分が見ていた患者の名前、葉月凜と書かれていた。


 恵は顔を上げて改めて目の前の少女の顔を見つめた。あの侑李という子もなかなかの美人ではあったが、目の前の少女もまたとても可愛らしい顔をしていた。通りすがりの入院患者や面会客も彼女の方を見ている。別の友達だろうか。


 恵がそんなことを考えていると、記入を終えた少女が面会簿を差し出してきた。恵は急いで意識を現実に戻すと、記載内容に漏れがないかをチェックした。


「葉月さんの病室は四〇七号室です。東側病棟の一番奥にあります」


 すぐに確認を終えて恵が言った。少女は小さくお礼を言ってエレベーターの方に歩いて行った。

 恵はその後ろ姿を見送りながら、少女の着ている制服があの侑李という子と同じものであることを思い出していた。




 


 ほとんど面会客のいなくなった病棟内を、久美は緊張した面持ちで歩いていた。


 ここに来るまでに随分時間がかかった。まず病院の場所を突き止めるのに苦労した。侑李に聞いても教えてくれるとは思えなかったし、他にあの子と仲がよかった子も知らなかった。

 幸い、担任に聞いたらあっさりと教えてくれたが、今度はいつ来るかで散々迷った。侑李と鉢合わせするわけにはいかないから、侑李の予定を人づてに聞き出し、それでもまだ足りない気がして、こうして面会が終わるギリギリの時間にやって来たのだ。


 そんなことを思いながら久美が歩き続けていると、突き当たりの部屋に四〇七号室のプレートが見えた。患者の名前を確認し、そっと病室の扉を開けて中の様子を窺う。室内は静まり返っており、見舞客は誰もいないようだ。


 久美はほっとして息をつくと、こっそりと病室内に足を踏み入れた。部屋には四つベッドがあり、目的の名前が掲げられたベッドは奥の窓側にあった。久美は恐る恐るその方に近づいて行った。


 仕切られていたカーテンを開け、ベッドに横たわるその人物を見つめる。色の抜けた長い髪に吊り気味の目。毎日クラスで目にした見慣れた顔。直接話したことはほとんどなかったけれど、その存在はいつも意識していた。


 葉月凜。そうだ、葉月凜だ。知らない中学からいきなりやって来たくせに、侑李と親しげにしていたあの子。凜が侑李と仲良くなっていくのを見るたび、このままでは侑李の親友の座をあの子に取られてしまうのではないかと何度も不安に襲われた。

 だからわざと凜を孤立させ、侑李に近づけないようにしたのだ。あのライブ会場で二人を邪魔するような真似をしたのも、凜に心ない言葉を投げたのも、全ては自分と侑李の関係を守るためにしたことだった。

 だが、その結果は――。


 久美はじっと凜の顔を見下ろした。自分から侑李を奪おうとした、ずっと憎いと思っていた相手。

 だけどまさか、あのやり取りの直後に凜が事故に遭うなんて思わなかった。それを聞いた時にはさすがの久美も血の気が引いたし、侑李はすぐに凜の方に飛んで行って、久美のことなど忘れてしまったようだった。


 それは翌日以降も同じで、侑李は学校が終わるとすぐに一人で病院に行ってしまい、全く久美の相手をしてくれなくなったのだった。

 久美はショックだった。自分のしたことが裏目に出てしまったことが、侑李が自分よりも凜を選んだという事実がショックだった。


「……なんでよ」


 気がつくと久美は呟いていた。震える拳を握り締め、顔を歪めて凜を睨みつける。


「……あたしは小さい頃からずっと侑李と一緒にいて、これからも侑李の親友はあたしだけだと思ってた。

 なのになんで……? なんであたしじゃなくて、アンタなのよ……!?」


 握り締めた拳がぶるぶると震える。これまで自分の思い通りにならないことなんてなかったのに、一番欲しいものだけは手に入れることができなかった。

 親戚からもらえるチケットも、何でも言いなりになる友達も、侑李がいなければ何の意味もなかった。

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