穏れ月の里
創也 慎介
プロローグ
どこか遠くの空で、カラス達が鳴いていた。乾いた音色が夕暮れ時の村に幾度もこだまし、響き渡る。
雲一つない空は茜色に染まっていたが、つい先程より随分と仄暗い色が混じり、光そのものが重さを増したかのように錯覚した。
見慣れた村の風景にべったりと影が張り付き、浸食していく。
広大な田んぼ、あぜ道、ぽつぽつと点在する民家の群れ、そして野山――それらが全て、暗い影に飲み込まれていった。
道のど真ん中に立ち尽くし、前を見つめる。遥か背後から、同級生達が自分を呼ぶ声が聞こえた。
急げ、走れ、逃げろ――そんな彼らの声を受けてもなお、ただただランドセルの紐を強く握ったまま、身動きが取れない。
滲みだす手汗のぬるい感覚が酷く不快だが、それでも指を強く突き立て、まるで命綱のようにそれを掴み続ける。
目の前に立つ“それ”がまた一つ、足音を立てて近付いてくる。
煤のような汚れが目立つ穴だらけの農作業着。首に巻かれたガサガサのタオル。泥まみれの真っ黒な長靴。
なにもかもが全て、“噂”通りの姿であった。
何度だって聞いていたし、遠巻きにその姿を見たことだってある。
だがどれだけ心の中で備えていたとしても、実際に“それ”を目の前にすると、自然と身がすくんでしまった。
足が動かない。
小さな体がカタカタと小刻みに震え、どれだけ痛みが走っても瞬き一つできなかった。
また一つ、長靴が足音を刻む。
夕日を背負い、濃厚な影と共にこちらを見つめるその姿を、幼い眼にしっかりと焼き付けてしまう。
“それ”の顔に深々と刻まれた、しわが見えた。
ぼさぼさに生えそろった白いひげが、“それ”の生きてきた時間の長さを物語っている。
だが何より、その目を見て悟ることがあった。
“それ”は自分とは、まるで違う生き物だ。
人としての肉体を持ち、服を着て生活をしていようとも、その奥底に宿るものがまるで異なっている。
“それ”としっかり、目が合った。
血走った眼球の中央で、どこか焦点の合わない虚ろな瞳が震えている。
カラスの鳴き声、友人の悲鳴、足音、風によってざわつく野山。
鼓膜がぐわんぐわんと揺れるなか、“それ”は右手に握りしめた道具をゆっくりと持ち上げた。
どこにでもある、農作業の道具である。
それでも、子供にとってその湾曲した鋭利な“刃”は、痛みを生む畏怖の対象でしかない。
片手に“草刈り鎌”を携えまた一歩、“それ”が近付く。
間近まで迫って初めて、また一つ、新たな“音”が小さな肉体を震わせる。
異形の喉元から、静かに響く“歌”。
楽しそうに、だがどこか悲し気な波長で、“それ”は歌った。
“おに”がついたら、くびおとそ――不揃いな歯を並べた“それ”の口が、はっきりと大きく笑う。
至近距離に迫った黒い影を前に、ようやく小さな体の奥底から、甲高い悲鳴が上がっていた。
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