ズル

MURASAKI

ズル

「昨日の話は、無かったことにして頂きたい」


 美咲が顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。

 旅行先のホテルのラウンジで、お気に入りの小説の続きを読みながら炒りたての芳ばしい珈琲の香りを楽しんでいたのだが、そんな早朝の極上な時間を邪魔されてしまった。

 小説を開いたまま、目の前の見ず知らずの男の顔からつま先までを瞳だけで二往復する。顔は整っているが美咲の好みではなく、やはり知らない男だと思う。


「申し訳ありませんが、私はあなたのことを存じ上げません」


 美咲はそう冷たく伝えると、再び小説の世界へと身を投じる。

 本は良い。世の中の煩わしい喧騒を全て消してくれる。さっきの男の声などすぐに忘れることが出来る。


「あの、話は終わっていません。昨夜、間違いなく貴女に重要なことをお伝えしました」


 知らないと言っているのに、男はしつこく話しかけてくる。流石にここでゆっくり小説を読むのは無理だと小さくため息をつき、お気に入りのしおりを開いていたページに挟みこむ。普段そんなことはしないが、わざと大きく音が立つように本を少し乱暴にパタンと閉じ、残った珈琲を一気に飲み干すと、美咲は突っ立ったままの男に軽く会釈してラウンジを去った。


――新手の軟派かしら。せっかく浸りたい良い場面だというのに、二度も邪魔するなんて最低!


 そもそも、あんな男のことなど知らない。したがって、知らない男の話を無かったことにするのは無理がある。

 宿泊した部屋の階にエレベーターが到着し、扉が開くとそこには先ほどの男が立っていた。


「お願いします。昨日の話は、無かったことにして頂きたい」

「私はあなたを知らないし、何を無かったことにするかすら分かりません」


 どうしてこの男は私の宿泊している階を知っているのだろうか。少し気味が悪くなり、美咲は踵を返しエレベーターに乗り込むと、フロントの階を押そうとした。ボタンを押させまいと、間髪を容れずに美咲の腕を取った男は再び同じ言葉を続ける。


「後生ですから、答えてください。無かったことにすると」


 腕を握る男の顔には悲壮感が漂っていた。失礼な行動に腹を立てていたはずが、男の必死な顔を見ていると不思議と怒りが収まり、逆に申し訳ないという思いが込み上げてきた。


「わかりました。あの、腕を離してください」


 少し強く握られた手は熱く、少しむず痒く感じる。その手が離れるとなぜか残念な気持ちが芽生え、美咲は自分自身に驚いた。

 目の前の男が何をしたいのか分からないが、望んだ言葉を言えば逃げられるのだろうかと思考を巡らせる。

 しかし考えたところで状況が変わるわけでもないとため息をつき、階を押していないのに動きはじめたエレベーターの中でその言葉を告げる。


「無かったことにします。……これでいいですか?」


 言い終えて男の顔を見上げると軽い眩暈を覚え、エレベーターの壁に寄りかかる。男に肩を支えられ、乗り込んでくるVIPと思われる良い背広を着た男と入れ違いに到着した階に降りると、一気に昨夜の記憶が蘇った。


 ホテルの最上階のラウンジで、ひとり静かに飲んでいた美咲の隣に居た男と意気投合し、夜遅くまで楽しく飲んだ。

 酔いが回り足元がおぼつかない美咲を部屋まで送った男はそのまま部屋に上がり込み、ベッドに美咲を押し倒す形で口説いた。


「たった数時間だけの関係なのは承知の上で、ボクは貴女を愛してしまいました。……本気です」

「そんなわけ……十年付き合った男に浮気されて振られるような女よ?」


 傷心旅行と言うには楽しい旅で、付き合っていたマンネリ男のことなどどうでも良くなるほど満喫していた。ただ、男に言い寄られて思い出してしまった。

 目を伏せる美咲の心を見透かすように、男は続ける。


「いいえ、あなたはとても美しい。魅力的な人です。ですが……」


 男の真っすぐな目に心がグラつき次の言葉に期待してしまう。心の奥がチリチリと焼け焦げるようにむず痒く、美咲は視線を外せず押し黙る。


「美咲さん。ボクは貴女と一夜限りの関係になりたくありません。ですからボクと賭けをしませんか?」

「賭け?」

「そうです、賭けです。先ほどお話ししましたが、ボクは催眠術をかけられます。今夜のことを忘れ、あるキーワードを言うと今夜のことを思い出します。キーワードを言わせられたらボクの勝ち。言わなければ貴女の勝ち」

「あなたが勝ったら?」

「ボクと結婚を前提に付き合ってください」

「待って、それだと私に何も良いことがないわね?」


 熱い視線が絡み合い、美咲は言葉には出さないがこのまま大人の夜を過ごしたいと、男に組み敷かれた身を捩りアプローチをした。

 男はゆっくり首を左右に振ると、更に真剣な眼差しで美咲を見た。


「今日の貴女は酔いすぎています。素面で今と同じような気持ちになった時にぜひお願いしたい」

「私を押し倒しておいて、それはないんじゃない?」


 潤んだ目で男を見ると、男は寂しそうに笑い言葉を続ける。


「忘れたままなら、貴女はボクと言う男と知り合わず、ただ楽しい旅行を過ごせたという記憶だけでいられます。それはメリットでは?」

「そうね……」


 美咲は顔を横に伏せ、男の視線を外す。ここまできて抱かないほど魅力がない女……つまり、今まさにかかされているこの恥も忘れられる。

 情けなくなり思わず乾いた笑みが漏れる。


「賭け、いいわ。やりましょう」

「必ずボクが勝ちますけど、いいですか?」

「どうかしら」

「では、いいですね。ボクの目を覗き込んでください……」


 その後、男と一夜を共にした記憶は無く身体にもその痕は無かった。目の前の男を再び見上げると、どこから出したのか男は一輪の赤い薔薇の花を持っていた。


「ボクと付き合ってください」


 端正な顔立ちが赤く染まり、自分よりも大きな身体をしているのに、小さな子犬のようで頭を撫でたくなるような可愛さがある。

 昨夜の楽しい時間を思い出し、美咲の頬にも紅が差してくるのが分かる。


「こんなやり方、誰でもその台詞を言ってしまうでしょう」


 男はゆっくり首を左右に振った。


「貴女が忘れられなかったからこそ、こうして貴女を見つけ出し声をかけました」


 それは、忘れたままお互いが知らない顔をすることも出来たということだ。


「確かにボクは自分にも保険をかけました。けれど貴女を好きになってしまった事は嘘ではありません。嫌でなければ受け取ってください」


 向けられた薔薇は瑞々しく露を付け、広いラウンジの窓から差し込む陽の光を受けて反射している。

 美咲は差し出された薔薇を何となく受け取ると、笑いながら呟いた。


「ズルいわ」


 美咲の頬にやわらかな感触が小さな痕を付け、冷えた心を溶かし始めた。

 こんな恋の始まりも良いかもしれないと、受け取った薔薇を眺め再び男の顔を見る。そっと男の頭を軽く撫で、お互いを優しく見つめ合う。

 やがて美咲のかかとが宙に浮く。


 朝日はやわらかく二人を照らし、結ばれたばかりの二人の姿を描き出した。

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ズル MURASAKI @Mura_saki

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