第9話 魅惑な女性に誘惑されたときに必要なのは強靭な忍耐力だ
風俗街、女も男も一夜を共にする相手を探してふらりと立ち寄る夜の街。東側にある商業区の奥の方に位置するその場所に、若い男女が二人……俺と先輩はいた。
「駄目だからね! 絶対に他の女の子を見ちゃだめだからね!?」
「あの先輩……両手で目隠しされるの、めっちゃ歩きづらいです」
「だってそうしないと見えちゃうじゃん!」
いや、正確には『いると思われる』。もうね、先輩がずっと後ろから目隠ししてくるの。
秘密裏に動きたいからと、どちらも私服なせいで先輩の大きな胸がむぎゅうう~!っと背中に押し付けられている。
目隠しも相まって神経が背中に集中してしまう……周りからもイチャイチャしているカップルだと間違われているのが耳に入ってきて、余計に目立っていることを俺はひしひしと感じていた。
「先輩……手をどけてください」
「やだっ!」
「死ぬほど目立ってるのでどけてください……っ、内密の『な』の字も無いじゃないですかこれじゃ」
俺がそういうと、むぅ……と先輩の不満げな声とともに視界が明るくなる。
たしかに、道行く女性の恰好が昼間よりも
「あー! 言った側からもう見てる!」
「見てるというより、見えてるの方が正しいですよこれ。地面以外に視線を向けたらいますよ女性の一人や二人」
「じゃあ俯く!」
「ほかの人にぶつかるじゃないですか……」
理不尽な命令をしてくる先輩を軽く流しつつ、俺は街に漂う香水の匂いの濃さに思わず顔をしかめるのだった。
そんな時、近くの店から大きな
「だ、大丈夫ですか!?」
「おやカタリナじゃないかい。衛兵の出る幕じゃないさね、うちの店でツケようとした
「イザベルさん!」
伸びている男を介抱していると、店からキセルをふかした妖艶な女性が出てくる。極東の民族衣装と言われている鮮やかな赤の『着物』を着崩し、胸も足もギリギリまで見えるように開かれた艶やかな姿は道行く男の視線を独り占めしていた。
『イザベルさん』、と先輩から呼ばれたその女性は俺が介抱していた男の額にキセルを押し付ける。
――ジュッ!
「あっづ!」
「寝たふりしてるんじゃないさね、女の一晩をツケで買うなんていい度胸してるじゃないか」
「う……うぅうるさい! 俺はオルスティン家が一男、カマッセ・オルスティンだぞ!? 平民以下の
男の口から飛び出たのは、なんとも横柄な暴言。というかこの男、貴族だったのか……暗がりで遠めだったからよく見えなかったが、改めて男の恰好を見るとほつれのない上質な絹の衣服を着ているのが分かる。
「後で払うと言ってるだけでも優しいだろうが!」と自分勝手な弁論をしている男に俺がほとほと呆れていると、イザベルさんがキセルをふかしながら笑った。
「あっはははは、なんだいオルスティンの坊主かね。当代の女の趣味から外に漏らせない秘密まで知ってるさ……お家を潰されたくなければさっさと消えな、ガキ」
「――っ」
イザベルさんが一睨みすると、とてつもないプレッシャーに襲われる。なんだこの重圧……俺に差し向けられているものではないと頭で理解していても、近くにいるだけで全身に鳥肌が立つ!
「おっ、覚えてやがれー!」
「言われなくても出禁の顔として覚えているさ……と、大丈夫かい衛兵さん」
腰が抜けたのか、足をばたばたさせながら赤ん坊の様に地面を這いずりながらカマッソと自己紹介した男が逃げていった。
高級そうな服に土ほこりや砂が付くのも構わず必死に風俗街の闇に消えていった男の背中を見つつ、イザベルさんはそう言って俺に手を差し伸べる。
俺が地面に座っていたから、イザベルさんが屈んで手を差し伸べると胸の見えてはいけないところまで見えそうになっていた。
俺は慌てて立ち上がり、目線をイザベルさんの顔に固定する。ハンス衛兵長を反面教師にして、先輩で訓練したあの日がこんなところで役に立つとはっ!
「大丈夫です、お心遣い感謝いたします」
「あらまぁ……ふふふ、紳士さね」
「ちょっ……!」
イザベルさんは俺の態度を見ていたずらな笑みを浮かべると、ずいっと距離を詰めてきた。桃色の瞳が近づいてきて、かんざしを差した長い紫の髪から香油の匂いが強く漂う。
――ハンス衛兵長みたいになりたくない、ハンス衛兵長みたいになりたくない、ハンス衛兵長みたいになりたくない……っ!
妖艶な女性の色気で崩れそうになる忍耐力を『ハンス衛兵長』で頑張ってつなぎ合わせているなか、もう少しで鼻同士がぶつかる――といったところで、先輩が手を差し込んできて阻止してきた。
「はいすとーっぷ! イザベルさんダメ、今すぐヴェルナーから3メートル距離取って!」
「あっははは! 冗談さねカタリナ。しっかし
「ボっ……ボクたちはそんな関係じゃないよ!」
「おや、そんな関係でも無いのに連れてきたのかい? 捕まる前にやめときなよ、欲求不満ならうちの男娼を貸してやるのに」
もう、もうっ!と両腕をぶんぶん振りながら顔を真っ赤にして否定する先輩。それを見ながらキセルをふかしているイザベルさんの目が笑っているのを俺は発見して、先輩がからかわれているのを察した。
俺を誘惑していたのも先輩をからかうための冗談だったのだろう……ありがとうハンス衛兵長、あなたがキモイおかげで耐えることができました。
衛兵長はこれからもキモイままでいてください。
俺がここにいない衛兵長に感謝していると、先輩もイザベルさんにからかわれているのを察して頬を思いっきりふくらませながら不満げな表情を露わにする。
イザベルさんはそんな先輩の不満を笑って受け流しつつ、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「ふーむ、切れ目の赤い瞳に黒い髪。顔も中々悪くないし、カタリナにしごかれてるのか細身ながら筋肉もある……男娼だったら『宵闇の赤い月』なんて呼び名でそこ行く女性たちに人気になっただろうさね」
「あ、あの……?」
「しかも女慣れしていないと来た。カタリナ、あたいに彼を一晩預けてみる気はないかい?」
「無い! ヴェルナーは誰にも渡さないもん、というかからかってるよねイザベルさん!」
いやぁバレたさねー!と朗らかに笑うイザベルさん。だが俺は虎視眈々と狙っているイザベルさんの仄かな『悪意の臭い』に気が付いて警戒を緩められなかった。
それよりもっ、と先輩が手を叩いて強引に話をぶった切る。
「イザベルさん、『最上階』借りれる?」
「ほう……いいさね、来な。いらっしゃい、『
先輩がそういうと、何やら納得したイザベルさんがゆったりと俺たちを手招きして、店の中へと案内してくれた。
そうして俺と先輩はイザベルさんの先導のもと、階段を上って一番上の部屋へと通される。
……ちなみに、俺は階段を上っている間先輩から両耳をふさがれていた。
最上階へと上がった俺たちはソファーに腰を下ろすように言われ、イザベルさんは反対側のソファーに腰を下ろして手すりにもたれ掛かる。
そのままキセルをふかしてぽわっと白い煙を吐いた彼女は、真剣な顔をして俺たちに向かって質問した。
「さて、何か秘密の話があるのかいカタリナ? 最上階を借りるってことはさ」
「うん、ヴェルナーにも来てもらったのはその秘密の話をするためだよ。イザベルさん……いえ、イザベル・グランツァ伯爵」
「ほう、家名に爵位まで出すとは『貴族としての』あたいの力が必要なんだねカタリナ?」
キセルを灰皿に置いたイザベルさんは、そう言って挑発的な笑みを俺たちに向けるのだった……
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