一章 魔女に首輪は付けられない(3)
◇
首都はいつも喧しい。どこへ行ってもクラクションが鳴っている。車の群れがやっと動き出す。しかし気が滅入る一方だった。魔女との捜査――それも署に派遣されて当日からだ。先が思いやられる。
「そう邪険にするなよ」
と魔女が助手席から言った。ローグはそちらの方を見ないで答える。
「黙ってろ。自分の立場をわかっているのか?」
「そんなこと言うなよローグ君。協力しようよ」
「誰がするか」
「つれないねえ。昇進がかかっているんじゃないのかい?」
「お前には関係ねえだろ」
「そうかい? 多少なりとも関係はあるように思うんだが」
「お、バカやめろ!」
魔女――ミゼリアが肘でローグの脇腹を突っついてきた。危うく歩道脇の街路樹にぶつかるところだった。
ハンドルを切り元の車線に戻ると、
「ふざけるなよ魔女。車両の維持にどれだけ金が掛かってると思ってやがる」
「いいじゃないか。私には関係のないことだよ」
「頭がおかしいぞお前」
ローグの言葉にミゼリアは声をあげて笑った。車内で移動中もずっと笑っている。まるでピクニックにでも行くみたいに。
(よく笑う魔女だぜ……)
しかしだからといって魔女は魔女だ。油断などできない。それきりローグは口をつぐんだ。ミゼリアが何か話しかけてきても応じずに車を走らせる。五区――商業地区のディロに到着すると、大通りから裏通りに回った。規制線が貼られているのが見え、少し離れた場所に車を停めた。
雨上がりで水溜りがまだ残っている。路地裏なので陽も当たらず、少し肌寒い。壁は派手な色のスプレーで落書きされている。下手糞な絵だ。
ローグは車から降り、
「着いたぞ」
「ご苦労ローグ君」
言ったきりミゼリアは座席に腰かけたままだ。右手を上向きにして、開いたドアの前に差し出している。
「何してんだよ」
「ローグ君はエスコートもしてくれないのかい?」
「……」
ひょっとしてこの魔女はヴェラドンナに雇われたエキストラで、ローグは悪質な悪戯を受けているだけではないのか。いや、あり得ることではないが。
「……くだらねえ。そもそも乗る時はやらなかっただろうが」
「残念だが以前やらなかったことは、次やらない理由にはならないよ」
「言い訳するな。行かないと置いていくぞ」
「可愛げがないねえローグ君は」
ミゼリアはようやく車から降りると、のそのそと尊大に歩いてきた。
「さあ! 捜査を始めようじゃないか!」
「静かにしろ。お前が出る幕はねえ」
規制線の側には現地の警官が立っている。ローグは『現在』の身分を言った。
「イレイル支部局局長直属捜査官のローグだ。で、こっちは捜査協力者。〈魔術痕〉の専門家だ」
「はっご苦労様です」
警官が敬礼し、通してくれる。
ヴェラドンナが寄越した情報には偽の身分もあった。魔女を捜査に参加させていることが漏れるのは局長として不味いからだろう。ローグとしても余計な気配りを必要としないことには賛成だった。
死体袋の前まで行くと、ローグは目を見開いた。
中身がまるで存在していないように、くしゃりと凹んでいる。人間一人が入っているとはとても思えなかった。
顔を顰め、ジッパーを下ろす。
「胸糞悪い……」
ローグが呟いたのも無理はなかった。
死体袋の中身は幼児だった。髪の毛すら生えていない。ブカブカのコートに身を包まれ、うつろな目を晒している。
「クライム・フタ」――今年で八十になる花屋。目の前の赤ん坊とは、DNAが一致。指紋も彼が「クライム・フタ」であることを示していた。
八十年生きた彼の痕跡は完全に消え失せていた。
「興味深い現象だね」
ミゼリアが言った。
「若者が老化し、老人が幼児化する。ふむ、大した魔術じゃないか。ローグ君、君の見立ては?」
「……被害者が抵抗した痕跡がない。完璧に痕跡を消したとすると、後処理には相当な時間をかけたはずだ」
「それで?」
「大通りから外れているとはいえ、ちょっとでも覗き込まれればバレるような場所で、遺体の後処理はできない。おそらく……犯人は別の場所で被害者を殺し、後処理を済ませてからここに運び込んだ」
ミゼリアがゆっくりと拍手をした。
「いい推理じゃないか。さすがは期待の新人だね」
「馬鹿にしてんのか?」
「いやあ、本心だよ。大体合ってるだろう。で、問題はどうやってここに運び込んだか? だね」
「別にそんなのは問題じゃねえ」
「ふうん?」
笑いかける魔女を無視し、ローグは来た道を引き返す。警官の群れを通り抜け、現場に到着した時の、落書きだらけの路地裏まで歩くとローグは足を止めた。
「ここから犯人が出入りしていた」
目の前の壁には街の不良が描いたと思われる絵。様々なスプレーの色が飛び散っている。視界の端にはゆったりと歩いてくるミゼリアが見えた。
「理由を聞いても?」とミゼリア。
「〈
魔術を行使するには〈詠唱〉か〈刻印〉を必要とする。即座に効果を発揮する詠唱と違い、刻印は時間差で魔術を発動できるのだ。計画犯罪では、近辺に刻印を用意しておくのは常套手段だった。
またも大仰に手を叩き、
「すごいねえ。では、あとはスプレーを落とすだけだね」と言ってミゼリアがローグを見る。
「……」
「うん? どうしようというんだい、ローグ君?」
構わずにローグは端末を取り出し、かけようとする。連絡先は科捜研の知り合いだ。高圧洗浄機を持っていたはずだった。
「別に。スプレーを落とす道具を持ってくるだけだ」
「おいおい。そんな手間をかける必要があるのかい? 浄化魔術でも使えばいい」
「……俺の勝手だろ」
「ふむ、なるほど」
ミゼリアが手を叩き、いかにも合点がいったかのように、
「君は〈声無し〉か」
「……」
発信ボタンを押そうとするとミゼリアは、
「それならば仕方がないね。魔術を代わりに使ってあげようじゃないか。全く、早く言っておいてくれればいいのに」
ローグから端末を奪い、ローグのポケットに戻した。
「……魔女にやる個人情報なんて一個もねえ」
「ふうん、君はそういう人か。でも私はもう、君の名前も、君がどんな仕事をしているかも、知っているよ」
「……」
「『手段』が届くまでにどれだけかかるのかな?」
「……お前に頼ればいいってのか」
「そんなにきつい言い方をしなくてもいいじゃないか。私たちはもう仲間だ。いくらでも頼ってくれていいよ?」
「……お前の手はいらない」
「おやおや、大丈夫かい? ヴェラドンナは事件を早く解決しろと言っていたような気がするけれどねえ」
意地の悪い顔、ミゼリアはそうとしか言い表せない顔をしていた。ぐつぐつとはらわたが煮えくり返るが、ローグは堪えた。確かに意固地になっている場合ではないかもしれない。事件解決は早ければ早いほどいい。ローグにとっても。誰にとっても。
ローグは信じられないほど重くなった口を開いた。
「……魔術を使ってくれ」
ふふっ、とミゼリアが息を漏らし、
「了解だよ」
と左手を斜め下に突き出した。ちょうど手の甲が上面に見える。
「何をしてるんだ」
「ここに口づけをしてくれ。ああ、ちゃんと跪いて感謝の言葉も述べて欲しいな。一分以内に頼むよ」
「は?」
頭が真っ白になった。
こいつは、殺人現場の前で何を言っているのだ。
「どうしたローグ君? 何か問題でもあるのかい?」
「お、大ありだ!」
あまりに突拍子もなくて呂律が回らなくなった。
「ば、馬鹿じゃないのか! 事件との関連もねえ! そもそも何のためだ!」
「ローグ君」
ミゼリアが一歩踏み出し、ローグは一歩後ろに下がった。
「人が行動するには理由がいると思わないかい? どんなに楽なことでも理由がなければ全て億劫さ」
「そ、それがどうした」
ミゼリアがさらにもう一歩進み、ローグはもう一歩下がる。
「正直なところねえ、事件が解決しようとしまいと私にはどうでもいいことなんだよ。私が事件捜査に望んでいることはただ一つ、『楽しさ』だ。君がそれを提供してくれるのなら、私はどんな協力も惜しまないつもりでいるよ」
試すように目を細め、さらに仰々しく手を差し伸べてきた。
「……楽しさだと?」
もう一歩下がると背中に壁が触れた。後ろに下がりすぎた。ミゼリアと目が合う。その瞳は爛々と輝いていた。
「そうとも。理解してくれたかな?」
「……理解できるか」
「では交渉決裂かな?」
「……そうは言ってない」
「ふむ、しかしローグ君は乗り気ではないようだ。やめるべきかもしれないね」
ニヤニヤとミゼリアが笑う。
「……待て。それ以外ならやってやる。代案を出せ」
「そうだなあ……」
とミゼリアは思案している風に上を見、やがて自分の右頬を指で突いた。
「こことかどうかな? 手の甲よりも柔らかいけど」
「……や、柔らかさの問題じゃ」
「ふうん? じゃあもっと硬いところにしようか。おでこはどうかな? これなら君もできると思うけどねえ」
「――――――――」
絶句すると同時にローグはわかった。ミゼリアは単に、捜査官をやっている人間を跪かせたいのではないと。ミゼリアは人が苦痛や躊躇いを覚えている瞬間を見たいのだ。それがミゼリアにとっての『楽しさ』であるのだろう。
「く……そ……」
しかしそれがわかったからといって、これ以上の抵抗はできなそうだった。どう足掻いても屈辱的な方向に持っていかれる。それにあまり長居しては警官たちが様子を見にやってくるかもしれない。
呻きながらローグはその場にしゃがみ、片膝をついた。
(『これ』にキスするのか? 今ここで?)
間近で見るミゼリアの手は真っ白で、でもほんの少し、生き物らしく赤みがかっていて、艶やかだった。
(……捜査のためだ)
そう自分に言い聞かせる。これは必要なことだと。
しかしいくら言い聞かせても、納得はできそうになかった。
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