洛外で僕が君に想うこと

@koseki-asami

厄介な幼馴染


プロローグ


 真理と書いてマコトと読む。

 この少々厄介な名前のせいで、幼い頃からたびたびからかいをうけてきた僕が、親を恨まなかったと言えば嘘になる。

 しかし、名前には、たいてい子どもにそうあって欲しいという親の願いや祈りのようなものがこめられているものだ。

 あるいは、何かしらの切実な背景があったりすることも。

 これは、僕がそんな、ある意味当たり前のことを知った、十七歳の秋から十八歳の夏までの出来事だ。


1-1


 放課後、僕は図書室の扉をそっと開けた。そしていつもの場所に僕は彼女を見つける。

 邪魔にならない、けれど彼女の姿が密やかに眺められる場所に席をとる。書棚から適当に選んだ本を三冊並べ、使う予定はないが、カバンから筆記用具を取り出す。

 十七歳高校2年生の僕は、現在、少し遅い初恋に浸っていた。

 相手は、クラスメイトの海堂麗香さん。

 彼女は、名は体を表す、を自らの存在をもってその信憑性を世に示すような、麗しく、上品な、美少女だ。おまけに成績優秀。でも、運動は少し苦手という、完璧ではないという魅力もある。

 彼女は、辞書をお供に洋書を読んでいるようだ。噂によれば、外国語大学への進学を希望しているらしい。英語圏への留学も視野に入れているとかいないとか。

 なんにせよ、彼女は僕にとってとうてい手の届かない高嶺の花であり、こうしてこっそり眺めるくらいがせいぜいだが、不満はない。

 ときおり、クセなのか、手入れの行き届いた長い黒髪を、彼女は右手の人差し指で耳にかける。

 その仕草に、なんだかいい香りまで漂ってくるようで僕は何かに浮かされたようにうっとりする。

「マコチャン、涎、出てるえ」

 生温かく気持ちのいい夢想世界から僕を現実に引っ張り出したのは、幼馴染のりつ

 はしばみ色の柔らかそうな髪、同じ色の大きな瞳、ぬけるような白い肌が、図書室の窓から微かに差し込む陽射しにとけてしまいそうだ。

 葎は、容姿だけでいえば、麗香さんと人気を二分する。

 けれど、僕は葎のその可憐な容姿に一ミリも感情を揺らすことはない。

「ストーカー条例に引っかかって、通報されるえ」

 葎は、麗香さんに視線を向けながら、薄笑いを浮かべた。

「僕はここで偶然彼女を見つけて、美しいものに心を寄せ自分の感性を磨いていただけや」

 そんな僕の言葉を無視して、葎は、僕が並べていた本を書棚に戻す。筆記用具もカバンにしまわれる。

 こんな時、僕は抵抗しない。経験上それがどれだけ無駄なことかを知っているから。

 葎に背中を押されるように図書室を出る時、麗香さんと視線があった。そしておまけに彼女が微笑んでくれた。おそらく僕にではなく葎にだろうが。そんなことはどうでもいい。それだけで僕は幸せだ。

 図書室を出て、昇降口で靴を履き替えて校舎を出る。校門を抜け疏水にかかる小さな橋を渡ると、葎が口をとがらせてからこう言った。

「今日は手芸クラブがお休みやから、一緒に帰ろうって言ってたやん」

「そやったかな」

 覚えはないがはっきり否定はしないほうがいい。

「しゃあないなあ……そしたら、手、つなぐ?」

 そしたら、の意味がわからない。

 僕は首をフルフルと横に振る。

「ええの? 麗香ちゃんに、まこちゃんが小2の時、香りつきの消しゴムの万引きに失敗したこと、言うても」

盗んだのは葎だ。

 けれどバレそうになると、葎は消しゴムを僕のポケットに押し込むとサッサと逃げた。

 僕は文房具屋の婆さんに捕まり、小銭の一つも持っていないことがわかると母を呼ばれた。母は、土下座せんばかりに頭を下げ、消しゴムを買取り僕を連れ帰った。すぐに父も仕事を抜けて家に帰ってきた。そして大きなため息をついて言った。

「俺のスーパーが、どれだけ万引きで苦労してるか知らないのか」

 知らんけど、とは言わなかった。言えば、親子の絆の何かが傷つくと子ども心にも思ったからだ。

 しかし、両親はその後、詳細を尋ねることもなく叱りもしなかった。言い訳はしなかったが、文房具屋には葎と一緒に行った、と言ったからだろう。それだけで色々察したようだ。

 ちなみに、父は勤め先の『スーパー音羽』を俺のスーパーと頻繁に言うが、経営者ではない。正式な部署名は知らないが、仕入れ先の開拓や仕入れ先との折衝を担当する部署の課長だ。

「言うてもええけど、言わんといてくれたほうが嬉しいかな」

 僕がそう返すと、そこに僕の本音と諦めを感じて満足したのか、葎は出していた手を引っ込めた。しかし念のため、僕は空いていた左手をズボンのポケットに突っ込んだ。


1-2


「で、何? どうかした?」

 何か言いたいことがあって僕を図書室から拉致したことはなんとなく察していた。

「どっかカフェとか寄ってもええ?」

「制服のままはまずいやろ」

「昼休みに散髪に行ってたくせに」と葎は笑う。

 理髪店は飲食店やゲームセンターとは違う。そして昼休みは、登下校の際、ではない。なので校則違反ではないはず。

「せやったら、ゼミの教室借りひん?」

 ゼミとは、僕らが通う「石井ゼミナール」という高校生相手の学習塾のことだ。その名のとおり、石井先生が塾長で、アルバイトに武田さんと大野さんという大学生がいる。

 各学年十数人程度の小さな塾だ。

「教室が空いてるかどうかわからへんけど、行ってみるか」

 グラウンド脇の長い坂道を下り学校の敷地を出て、住宅街を抜け駅の高架下のトンネルを抜けると駅前のロータリーだ。そこを通り過ぎ、駅前の再開発から取り残された感の否めない一角にある小さな雑居ビルの階段を2階まで上る。

 葎は事務室兼用のA教室の扉をノックもせずに開けた。

 少し驚いた顔の石井先生は、僕らを見ると、咎めることもなく机の引き出しを閉めると立ち上がり僕らの方へやってきた。

「2人揃ってどうしたんや? マコトの補講の申し込みに葎が付き添ってきたんか?」

 妥当な判断だ。葎の成績はトップクラス。補講の必要は全くない。

「そうじゃなくて」

「マコト、どうしたんや? はっきり言わんとわからへんで」

 石井先生だけではないが、先生も、僕と葎のことは名で呼ぶ。

 まあ、葎の苗字は呼べないだろう。先生だけでなく、この街に暮らす人は誰も滅多なことではその苗字を口にしない。口にした途端、災いを呼ぶとさえ言われているのだから。しかし僕の苗字はありきたりではないが、たまきというその苗字にはどんな謂れもないものだ。ただ葎とペアで認識されることが多いせいか名で呼ばれることも多い。

「なんや込み入った話があるらしくて、葎が。空いてる方の教室貸してもらえへんかなって」

「葎が……じゃあどうぞ」

 無料で貸し部屋扱いされるとわかっているのだろうが、先生は、笑顔でうなづいてくれた

 そうするしかないだろう。

 葎が望めば誰も逆らわない。ときおりでも逆らうのは、僕と葎の姉、葵さんくらいだ。

「あの、できたら先生にも聞いてほしいんです。マコちゃんだけやと心許ないし」

 先生は助けを求めるように僕をみた。僕は黙って首を横に振る。

 むしろ、先生にだけ相談してくれればいいのに、と思いながら。

「そうか。なら、こっちの教室で五時までやったら」

 僕と葎は教室の席に適当に座る。

 相談があると言ったくせに、葎は黙ったままだ。気まずさを埋めるように、先生は向かいのビルの一階にある喫茶ひまわりに電話をかけコーヒーの出前を頼んでくれた。程なくトレイごとラップをかけられたホットコーヒーが届けられた。

 夏も近いというのに、ホットコーヒーかと思ったが、そういえば先生は一年中温かい飲み物しか飲まない人だったと思い出した。

 僕たちは、無言のままそれぞれのカップに口をつけた。

 葎は、一口飲んだところで涙目になり、次の瞬間泣き出した。

 とりあえず僕はポケットをまさぐりハンカチを取り出したが、三日ほど洗っていないものだったのでどうしたものかと思っていたら、先生がどこかの粗品らしい白いタオルを柔らかなビニール袋から取り出し、葎に手渡した。

 葎はそれに顔を埋め盛大に泣いた後、こう言った。

「まっさらのタオルって水分吸いにくいやん。それにこれ、肌触りが最悪やし」

 僕と先生は顔を見合わせて、軽く頷きあった。好きなように言わせておこうと。

 葎は同じ調子で続けた。

「私、脅されてるんです」

 僕はコーヒーを吹き出し、先生はなんとか堪えてカップを置いた。

「ありえへん」と僕は呟き、先生は「まともやない」と顔色を悪くした。

 当然だ。

 葎の実家、鳥辺野家は良くも悪くも、いやほとんどは悪い意味かもしれないが、富も権力も、そして摩訶不思議な怪しげな力でも、街のみならず国をも超えて特別だ。

 葎の言葉を借りれば、世界中を敵に回しても三年くらいなら笑って過ごせるらしい、そんな家だ。葎は可憐な容姿で柔らかな服装を好むが、中身もそうかと言えば、誰に聞いても頭を振るだろう。

 白か黒かを決めつけられないものの存在、善悪では判断できない事象をそれなりに理解し、理解できない場合は踏み込まない、その程度の分別を持つ者なら、絶対に、鳥辺野一族の葎を脅迫したりしない。

「ほんまやから。見る?」

 そう言いながら葎が机の上に置いた一枚の紙には、こんな文字が印刷されていた。


 手を引け。さもなくばお前は半分をなくし永遠の地獄を味わうことになる。


 これって脅迫状なのかな。厨二病の誰かのイタズラではないのか。鳥辺野がどんな存在かもわかっていない頭の悪いヤツの。

 先生も、戸惑っているようだし。

 その雰囲気が気に食わなかったのか、葎はまたタオルを顔にあて泣き出した。明らかにこれはもう嘘泣きだ。

「何から手を引けって、心当たりあるんか?」

 なおざりに聞く。

「ありすぎてわからへん」

「ほな、お前お前の半分ってなんやろ? そっちの心当たりは?」

「全くわからへんけど、もしかしたらマコちゃん?」

「なんでやねん。それはない。絶対に」

 僕はキッパリ否定して、同意を求めて先生を見る。

「幼馴染で仲はええんやろけど、さすがに葎とマコトで、半分は言い過ぎやないかな」

 そうだけど、先生に地味にディスられるとちょっと傷つく。

「ところでこれ、いつ届いたんや?」

 先生がサラッと話題を変えた。

「朝に気づいたんやけど、ポストに投函されたのは昨日の17時以降かな。学校帰りに一回ポストは確認した時にはなかったさかい」

「じゃあ、これは実家やなくてお前の一人暮らしの部屋のポストに入ってたんやな」

 僕の言葉に先生が驚いている。どうやら葎が家を離れて一人暮らしをしていることを知らなかったらしい。

「実家に死角はないさかい、もし頼まれただけの誰かが投函したとしても、その人はすぐに特定されて、今ごろ、半分どころか全てを失ってると思うえ」

 その言葉に納得しつつ、僕と先生は身震いする。

「指紋を調べるとか、防犯カメラ見せてもらうとかは?」

 震えを隠すように僕は尋ねる。

 警察も自分の手足のように使う葎なら、それくらいは簡単なはず。

「指紋はついてへん。付近の防犯カメラは全部チェックしてもろたけど、怪しげな人はいいひんかった」

 言いながら葎は僕の鼻をつまむ。それが僕の震えを止めるスイッチだとでもいうように。

「葎が一人暮らしをしてることを知ってて、なおかつ防犯カメラの位置も把握してるってことか。となると、葎に近しい人物でこの辺りの土地勘があるヤツってことになる」

 それって僕のことでは? いや僕じゃないけど。

「最近、変わったことはなかった? 些細なことでも」

 先生の質問に葎が小首を傾げる。

「そういうたら、河原町でスカウトされたな。コーヒー奢ってもろて、連絡先書いたわ」

「個人情報書いたってこと? あかんやん」

「まさかほんまのこと書くわけないやん。名前も住所もマコちゃんのをサクッとね」

 あ、そういうことね。僕の小さなため息が教室にポワンと漂う。

 滅多なことで本名など書くことができない葎は、その中性的な容姿を利用して、僕の名前を記入し、その用途によって名のふりがなをマコトにしたり マリにしたりしているらしい。ちなみに学校の答案用紙など本名を書く必要があるものには、ひらがなで、とりべのりつと書いている。漢字よりは可愛げがあると本人は言っているが、どうなんだろう。

「けど、住所 漏らしたんは気になるな。僕と葎の住所は部屋番号以外一緒やさかい」

 そこでまた先生が驚く。

「そうなんですよ。僕ら同じマンションの住人なんです」

 僕は家族4人で、最上階の角部屋に葎は一人暮らしだけど。

「そうか。知らんかったけど。まあそれはええか。で、そのスカウトの人のこと、なんか覚えてるか?」

「金髪プリン頭の長身の女の人」

「それやったら、その人はこれには関係ないんかな」

 先生が言う。

「なんで?」

 僕は首をひねる。

「いくらなんでも、葎を脅すのにそんな目立つ容姿ではな」

 そう言われればそうか。

「けどあの時のコーヒー、なんか味が変やったかも。あんな安物のコーヒー飲んだことないさかい、正直、わからへんけど」

 先生は不安そうにコーヒーカップを見つめる。

「これはまあ飲めるえ。ギリやけど」

 先生が不憫すぎる。

「けど、仮にそのコーヒーになんかが入ってたんやとしたら、お前、無事やなかったやろ。……これって、実はその後なんかされたっていう前振りなん?」

 せっかく珍しく僕が葎を心配したというのに、葎は爆笑している。

「私に効く薬物なんてあるわけないやん」

「へ?」

「うちの家は盛る側の専門家やし。その分、小さい頃から耐性つけてるさかい」

 葎がとことん冷酷な笑みを浮かべる。

 これも幼い頃から練習してきたのだろうか。それともその遺伝子に組み込まれたものなのか。

 僕は身震いを止めるため深呼吸をした。





 


 





























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