*6*

 きららは大学に向かっても、殆ど講義が頭に入らなかった。


 最低限の課題はなんとか提出したけれど、このままでは期末考査が危ない。

 気持ちを切り替えなきゃ。


 暗黒のような数日間を過ごし、気分が晴れないまま大学へ向かったある日の昼過ぎ。

 学生事務室から呼び出しを受けたきららは、学生事務室で信じられない事態に直面し、あっと驚いた。

 学生事務室にいたのは、間違いなく機織有理香その人だった。

 しかも、身に纏っているのは中学の制服であろうものである。

「石英先生。やっと会えました。」

「……。有理香さん。どうしてここに。」

「だから。石英先生に会いに来たんですよ。」

 事務員の一人が割って入る。

「その子、石英きららという学生に会わせろと言って引かなかったんです。そもそもこんな平日のこんな時間に中学生がいるのもおかしいことですけど! 石英きららに会わせれば帰ると言うから、こちらでは手に負えなくなって石英さんを呼び出した次第です。早く用を済ませてくださいね! こちらとしても、学内を好き勝手に動き回られては困りますので!」


 きららは事務員にきつく言われてしまった。

 事務員は相当カンカンなようだ。……無理もないけれど。


「ごめんなさい。この子は確かに私の知り合いです。出来るだけ速やかに済ませますね。」

 事務員にそう返事をし、きららは有理香を引き取った。

 

 と言っても、こんな事務室のど真ん中では話しづらいことこの上ない。

 一旦学生事務室を出ると、近くにテーブルと椅子があった。

 お昼時を過ぎているからか空席である。

 ここからなら一応、学生事務室からも見えるからセキュリティ的にも良いだろう。

 有理香さんが悪いことのために大学にまで入ってきたとは思わないけれど、念のため。


「さて、ここなら落ち着いてお話できるかな。……なんのために、こんなところまで来たの?」

「何回も言わせないでくださいよ。石英先生に会いに来たんです。」

 有理香と初めて会った日にも、きららは何回も言わせるなと言われた。

 けれど、今日はあの時よりもずっとずっと穏やかな言い方だ。

「よく大学にまで行こうと思ったね。」

「そうでもしないと、二度と石英先生に会えないと思ったからです。」

「どうやってここまで来たの?」

「初めて石英先生が来た日に置いていった名刺を見てきました。」


 そういえば。名刺は優海さんと有理香さんそれぞれに渡してたわね。

 あの時は、まさかこんなことになるなんて思わなかったけれど。

 とりあえず。

 今は名刺を有理香さんにも渡した過去の私に感謝だわ。

 そして、わざわざ私の大学にまで来てくれた、有理香さんの行動力にも感謝しないと。


 きららはそんなことをぼんやり思う。

「ありがとう。……私も有理香さんに会いたかった。本当に、あの日からずっともう会えないと思ってたから。」

 たった一か月ほどしか教えていないのに、有理香はきららの中で大きな存在になっていた。

 勉強のレベルも申し分ないのだが、勉強と関係ない雑談でも、何を教えてもきらきらと目を輝かせてくれる有理香を、いつの間にかきららは愛おしく大切に思っていた。

 だからこそ、優海によって無理やり有理香と引き離されたことが、きららには辛く悲しいのだ。

「石英先生。」

 有理香はきららに呼びかける。

「なあに?」

「あたしは、まだまだ、もっと、石英先生に教えてもらいたいです。たとえ県立さくらが丘高校に合格できなかったとしても……。石英先生に教えてもらう時間は楽しくて、幸せで。こんな気持ち、とってもとっても久しぶりで。たとえお母さんがダメと言っても、あたしは、もっと石英先生と一緒にいたい!」

 きららの心は、まるで風が厚い雲を一息に吹き飛ばしたかのように、晴れていった。


 無駄じゃなかった。

 優海さんには届かなかったけれど、有理香さんには届いてた!

 ……と同時に、妙に見られているような居心地の悪さも漂ってきた。

 気が付けば、さっきまでほとんどいなかったはずの学生たちが集まってきている。

 ……ああ。有理香さん。

 最後のほうは声がとても大きかったわね……。

 目の前の有理香さんも状況に気づいたようで、気まずそうに俯いている。

 有理香さんの気持ちを聞けたこと自体はとても嬉しい。

 しかし。

 ここでこのまま話を続けてしまうとあまりにも目立ちすぎる。

 学生事務室に目をつけられるのもそうだが、他の学生に変な目で見られたり変な噂が立ったりしそうで、そちらの方が厄介だ。

 この続きは、別の場所でやるべきだろう。


「ありがとう。有理香さん。今ので私、元気が出たよ。だけど、このままここでお話を続けると、周りに変な誤解をされちゃいそうなの。この続きは今度、場所を変えてやっていい?」

 そう聞くと、有理香は顔を上げるものの決まりが悪そうに少し横を向いてしまう。

「あの。あたし。……中学をサボってここに来ました。お母さんは普段通り中学に行ってると思ってます。だから、その。また今度は、また中学をサボることになっちゃいます。それは、内申に悪いから、あんまりやりたくないです。」


 なんてこと!

 有理香さんは、中学をサボってまで私に会いに来てくれたなんて!

 受験に障ることや周りよりも遅れることを何より恐れたあの有理香さんが!

 ここまで慕われたなんて、家庭教師冥利に尽きると言っても言葉が足りない。

 それならもう。

 なんとしてでも有理香さんの望みを叶えてあげたい。

 その為には、やはりお母さん……優海さんを変えなければ。

 優海さんに拒絶されたままでは、真に有理香さんが幸せになりきれないだろう。

 さりとて。

 私は優海さんのことをほとんど知らない。

 やはり有理香さんから、取っ掛かりになりそうな何かを引き出すしかない。

 何か。何かないのか。

 この際、過去のものでも何にでも縋るしかない。

 わからないなら、ひたすら総当たりするしかなかろう。


「ねえ。有理香さん。」

「なんでしょう。」

「有理香さんが県立さくらが丘高校に行きたいのって、お母さんを楽させてあげられるから。それは間違ってない?」

「はい。それは正しいです。」

「じゃあ、もう一つ聞くね。それは、お母さんから県立さくらが丘高校に行ってくれとお願いされた? それとも、有理香さんが自分で言い出した?」

 この問いには、有理香は目つきを変えて答えた。

 その据わった目から、きららは強い意志を感じ取った。

「はい。それはあたしが自分で決めました。国公立大学への進学率が高い県立さくらが丘高校に行くのが、あたしにもお母さんの為にもなるって。お母さん、学歴差別ですっごく苦労してるらしくて、あたしにはいい大学に行って欲しいと小さい時から言ってました。だから、あたしは国公立大学への進学実績もあって支援も手厚い県立さくらが丘高校を、中学の先生と相談して決めたんです。あたしは、お母さんにこれ以上苦労してほしくないんです。」

 聞いていて、きららはより一層、有理香と優海母子を他人とは思えなくなっていた。


 やっぱり、有理香さんは過去の私だ。

 そして優海さんも、今のやり方が極端すぎるだけで娘を想う良い母親だ。

 有理香さんが親孝行を自分の意思でやろうと思う。

 それほど優海さんは、元々は優しくて良い母親だったのだろう。

 それなら尚更。

 何かないのか。

 この母子に温かさだとかそのような、形は無いけれど良いものを取り戻せるようなきっかけはないのか。

 なんとしてでも突破口を見つけてみせる。

 目の前にいる、私の大切な教え子のために。

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