*4*

「さて。じゃあ始めましょうか。」

 きららが教えることはもう決めているが、その前にクライアント有理香と優海側の依頼をこなしておかないといけない。

「どの教科から始める? 今日は初日だし、全教科満遍なく、でもいいよ。」

「では、これで判断してください。」

 有理香が出してきたのはそれまでのテストが綴じられたファイルだった。

 見たところほとんど80点前後は取れており、極端に苦手な箇所は無いように思える。

「うーん。だいたい出来てるね。強いて言うなら数学がちょっと苦手な傾向があるかな。でも、正直これくらい出来てれば県立さくらが丘高校も十分入れると思う。」

「そうですね。数学はあんまり得意じゃないです。」

 ここできららには疑問が出てきた。


 有理香さんの実力は、県立さくらが丘高校を目指すにも十分なものだ。

 それなのに、なぜ私という家庭教師がつくことになったのか。


「有理香さん。有理香さんの実力なら県立さくらが丘高校には十分入れると私は思う。……私に教えてほしいことって、何かな?」

 きららが有理香にそう聞くと、有理香は少し困ったようにうつむきながら答える。

「でも。絶対に。100パーセント。あたしが県立さくらが丘高校に合格できるって保証されてるわけではないですよね。」

「……そうだね。もし、有理香さんよりもっともっと成績のいい子たちがたくさんいたら、私の目測は間違ってたことになるね。……でも。絶対に合格できるってことは、どれほど成績が良くても言い切ることはできない。それは、有理香さんならわかるはず。」

 有理香はきららの言葉に頷く。

「不安なんです。他の子は塾に行ったり家庭教師をつけてもらったりして、どんどんあたしの知らないことやテクニックを身に着けて先に進んじゃう。……それならあたしも、家庭教師をつけてもらわなきゃ、って。」

「そうね。塾はそういう受験のテクニックとかノウハウを、言ってしまえば売るのが商売だからね。私は個人で家庭教師してるだけだから、言えることは私の経験に基づくことだけかな。でも、だからお安くできるんだけどね! ……正直なこと言っちゃうと、この月謝だと大手の会社に入ってるような家庭教師を探すのはすごく難しいと思う。あるいは悪いことを企んでるような連中に当たっちゃうか。」

「石英先生も悪い先生ですか。」

 そう言われてきららはムッとして反論した。

「失礼な! 私がそんな人に見える!? 私もね、有理香さんと同じ母子家庭で貧乏だった。ひどいことだって、同級生にも先生にもいっぱい言われた。たった一人だけ、私にずっと優しくしてくれた先生がいて、私はその人みたいになりたいと思って先生を目指すようになった。……どうして、私がわざわざ、個人で家庭教師してるのか教えてあげる。」

 有理香は怯えてしまった。

 有理香の反応で、きららは自らの失敗に気づいた。

 (しまった。感情的になりすぎた。)

「……有理香さん。ごめんなさい。怒りすぎちゃった。……ごほん。私がわざわざ個人で家庭教師をしてる理由。それはね。」

 有理香はきららを見つめる。

「報酬や教える内容を自分で決めるため、だよ。……大手の会社にバイトで入っちゃうと、時間単位の給料が決められちゃうからね。大手だとある意味で会社に守ってもらえるし、営業も自分でやらなくていい。身元もしっかりさせてくれる。……でも自由はない。……私はね、どんな子にでも優しく平等に教えてあげられて、後押ししてあげられる先生になりたいんだ。有理香さん……そして昔の私みたいな子を、放っておけないんだ。」

 有理香は話し終えたきららにおずおずと言葉を返し始める。

「……石英先生も母子家庭だったんですか。……どうして、そんなに人に優しく出来るんですか。」

「うーんそうだねぇ……。」

 きららは窓からそらを見上げて、そらに向かって答える。

「優しくしてもらえたから、というのと、この世界には素敵なものがいっぱいあるから、かな。」

「優しくしてもらえた? 素敵なもの?」

 有理香はきょとんとしながらきららに尋ねる。

「うん。私の母は私を大学に行かせるために朝から晩までずっと働いてた。でも母は、忙しい合間を縫って私を図書館に連れて行って、いっぱい本を読ませてくれた。私が目標にしてる先生は、私にある本を教えてくれて、今でもその本は私の宝物になってる。……有理香さん。」

「はい。」

 きららは有理香に問いかける。

「さっき。有理香さんは教科書以外の本なんて読んだことないって言ってたよね。……たまには。少しだけ、お勉強をお休みして本や漫画も読んでみない?」

「え、だから。そんな時間ないって言ってるじゃないですか。」

「有理香さん。貴女は、自分が思ってるより実力あるよ。ちょっとくらい勉強じゃないことをしたって、全然置いていかれないと思う。……そうだね。私、今の有理香さんに足りなくて必要なもの。わかった。」

「なんですか。」

「それはね、楽しいことを楽しいと思える心と、そのための余裕……いや、余白、かな。」

 それを聞いて有理香は、またかという気持ちが溢れたかのようにいらいらを破裂させてしまう。

「だから! 何回言ったらわかるんですか! あたしには、そんな余裕なんてどこにもありません! ちょっとでも時間があったら、勉強しないといけないんです! そうしないと置いていかれちゃう!」

 またも食い下がる有理香に、きららは一瞬気圧けおされそうになる。


 これは頑固だ! 手ごわい! でも、私は負けるわけにはいかない!

 ここで私が負けたのならば、この有理香さんはずっとこのままかもしれない!

 ――でも、有理香さんはどうしてここまで勉強にしか興味を持てないのだろうか――

 ――これではまるで強迫観念だ――

 きららの頭に疑問が浮かぶ。

 ……まさか。


 きららの頭には、答えはもうぼんやりと浮かんでいた。

 あとは、それを確証に変えるための証拠だけだ。

 怯みそうになりながらもきららは負けじと有理香に向き合う。

「……有理香さん。……私、有理香さんについて不思議に思うことがあるの。……少しでも勉強をしないと、置いていかれてしまう。県立さくらが丘高校に合格できない。……それって、どうして有理香さんはそこまで強く言い切れるの?」

「なんでって。そんなのそうに決まってるからです!」

 ムキになったままの有理香の答えに、きららは苦笑してしまう。


 本当に頑固だなあ。

 これは、私がちょっと無理やりにでも有理香さんの心に侵入して、こじ開けてでも心に余白を作らないといけないかもね。


 荒療治だけど、乗り掛かった船だ!

「あはははは。それじゃ答えになってないよ。もっと、具体的な証拠を示して。……出せないでしょ。そんな証拠なんてどこにもないんだから。」

 あくまできららは笑いながら話し続ける。


 これはこっちもムキになったら負けだ。


「そ、それは。証拠なんて……無いですけど……。でも! あたしがこうしてる間にみんなはどんどん先に進んでる! 立ち止まってる時間なんてない!」

「それは違うよ。……あっ。有理香さんの今の言い方、実はあるお話で有名なんだ。……いいかい。」

 きららは形勢逆転の道筋を見出していた。

「"自分が立ち止まっていては、周りはどんどん進んでいるから置いていかれてしまう。"

 有理香さんは、留まりたいんだよね。

 みんなと同じか、みんなより先の位置に。じゃあ、そこに留まり続けるには、どうしたらいい?」

 きららの問いかけに、有理香は少し考えてから、自信満々に答える。

「だから。みんなより先の位置に留まるためには、自分も走り続けるしかないでしょう? ……あれ?」

 有理香の表情が崩れる。

 

 やった! 勝ちが見えてきたぞ!

 きららは好機を逃すまいとさらに攻めをかける。

 

「ねえ。有理香さん。結局それって……留まってるの? 走ってるの? どっちかな?」

「だから、留まるために、走る……。うわあん!」

 有理香はわけが分からなくなって叫び出してしまった。

「あははははは。有理香さん。今、わけが分からないでしょう。ごめんね。ちょっと意地悪いじわるしちゃった。」

「いじわる?」

 有理香はキツネにつままれたような顔できららを見ている。

「うん。意地悪。みんなより先の位置に留まるためには、自分も走り続けるしかない。有理香さんのこの言い方が、ある意味で正解なの。留まってるのか走ってるのかなんて、この問いは答えられない。“留まるために走り続ける”としか言えない。……不思議で面白いでしょう?」

 有理香はまるで生まれてきたばかりで世界の何もかもが初めてな子どものようにきょとんとしている。

「こんなの。教科書に載ってない。」

「もしかしたら世界中の全部の教科書をよく探せば載ってるかもしれないけどね。有名な概念だから。さて。答え合わせしようか。」

 きららはにっこりと微笑んで有理香に話す。

「今の話はね、元々は『その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない』という、あるお話である人物が発する台詞なの。……鏡の国のアリス、って、知ってる……かな。」

「タイトルだけなら聞いたことはあります。」

「そっか。この台詞は、鏡の国のアリスの中で、赤の女王という登場人物がアリスに発するものなの。意味は大体さっきのやりとりの感じかな。鏡の国のアリスそのものがどんなお話なのかはここでは触れないけれど。……でも。」

 きららは、ここからが大事だぞと秘かに気張り、有理香の瞳を見つめて話す。

「……不思議で、面白かった、でしょう? 教科書が世界のすべてじゃないし、この世界は面白いことで満ち溢れてる。言ってみれば、この世界全てを教科書にだって出来るわ! こんなちっぽけな教科書よりも、はるかにたくさんのことを教えてくれる! ……そうやって、いろんなことを知って行くのは楽しいと思わない? こういうのを、教養をつけていくってことだと私は思うの!」

「キョウヨウ?」

「難しい言葉だね。」

 きららは、有理香の机上にある、間違いなくおさがりであろうボロボロの国語辞典を手に取って『教養』という言葉を示す。

 

  教養

  1 教え育てること。

  「君の子として之これを―して呉れ給え」〈木下尚江・良人の自白〉

  2

  ㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。

  ㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。「高い教養のある人」「教養が深い」「教養を積む」「一般教養」


 ※作者注※ デジタル大辞泉『教養』より引用


「辞書的な意味はこの通りだけれど、大事なのはここだと思う。」

 きららは『心の豊かさ』という文字列を指さす。

「今、有理香さんは『その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない』という不思議な言い回しと、『教養』という言葉を手に入れた。これって、有理香さんの心の財産が増えた、とも言えないかな。その財産は、目には見えないけれど、素敵なものだと思わない?」

「うーん。そう、なのかな。でも。……石英先生のお話は、面白かった。……あっ。」

 有理香の表情はいつの間にか柔らかくなっている。

 きららはもう心の中ではガッツポーズをしながらも、顔は穏やかなまま有理香に語る。

「うん! 有理香さんが、教科書のお勉強じゃないものを面白いって思ってくれたなら、私は嬉しいよ。……有理香さん。次に私が有理香さんを教えるときも、こんなお話を、していいかな?」

「……ちょっとだけなら。」

「ありがとう!」


 きららは達成感でいっぱいだった。

 やった! 初回でこれは大勝利だ!

 固く閉ざされた有理香さんの心に入り込むための足掛かりになる、そんな小さな隙間だけれど。

 私は間違いなく。

 有理香さんの心の、ほんの隙間には入れてもらえたのだ。

 きららは晴れやかな気持ちで、有理香への指導を時間いっぱいまで続けた。

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