第5話

 何の茶番だ。

 目を細めて、軽蔑するかのようにクレシー侯爵を見つめる。ジャンは感極まったのか、もらい泣きをするかのよう、目に涙を浮かべている。

 確かに病弱ではあったかもしれない。起き上がるのが奇跡のようかもしれない。それを考えたら、多少の我儘を聞いてあげたくなる気持ちもわかる。

 だけれど、今はどうだ?起き上がり、大声を出して、小走りに駆けている。

 しかも、多少どころではない我儘だ。クレシー侯爵家、並びにヴァロア子爵家の醜聞にもなりえる我儘なのだ。そんなものを安々と叶えようとする辺り、貴族当主としてどうなんだと問いたい。

 そして、私の式だと言うのに、それを無碍にするのは、人としてもどうなのかと思えてしまう。


「……お父様……ヴァロア子爵と、話し合いはしたのですよね?」


 低く、鋭い私の声と言葉に、クレシー侯爵の肩が僅かに上がった。

 それでも、こちらを見る事のないクレシー侯爵に、私は尚も問いかける。


「話し合いはされたのですよね?」

「いや、まぁそりゃ……良いじゃないか、そんな事は今」

「……そんな事?」


 私の鋭い視線に、クレシー侯爵は顔を合わせようとせず、視線を泳がせている。その様子を見るに、きちんと話し合いは行われ、お父様から更に苦言を呈された事だろう。

 なら、お父様は新たな契約書を提示した筈で、それに対してサインもしているだろう。……読んでいるかどうかは知らないけれど。


「いや……その……病弱なブリジットの頼みだ。頼む、アンヌ子爵令嬢」


 私の深い溜息を聞いて、焦ったように言葉を紡ぐクレシー侯爵だけれど、言っている内容は一切変わっていない。

 恩義があると、しつこく婚約を結ぼうと言ってきたのはクレシー侯爵だ。この人に義理や人情と言ったものは皆無なのだろうか。

 たとえ一人娘が可愛かったとしても、それで全ての道理が覆るわけないのだ。

 

「帰ります」


 これ以上、話していても埒があかないと思い、踵を返す。


「ま……待ってくれアンヌ子爵令嬢!」

「アンヌ! 義姉さんの頼みを聞いてくれ!」


 まだ言うか。

 だけれど、当の本人であるブリジット嬢は、さっきまで流していた涙はどこに消えたのか。身体を震わせながら、私に対して鋭い目線で睨みつけている。


「この……子爵家如きが!」


 ピタリと、足を止める。

 室内はシーンと静まり返っている。

 ブリジット嬢の一言に、誰も何かを発する事なく……時が止まったかのように。

 ただ唯一、ブリジット嬢だけは興奮冷めやらぬ様子で、肩で息をしている。


 ――子爵家如き。


 よく言ってくれたものだ。

 クレシー侯爵は、顔面を蒼白にしながら、ブリジット嬢を呆然と見つめる事しか出来ていない。


「お取込み中でしたか?」


 扉の外から、声が聞こえる。


「先生!」


 扉が開き、入って来たのは白衣を着た医師だ。

 嬉しそうにブリジット嬢が駆けて行った事から、ブリジット嬢の担当医だという事は誰が見ても分かる事だ。けれど、当の医師は、どうしたものかと狼狽えている。きっと、先ほどの声が扉の外まで聞こえていたのだろう。


「先生? どうされたの?」


 医師の様子が何時もと違う事に気が付いたのか、ブリジット嬢はコテンと首を傾げた。


「ブリジットが泣いたと聞いたからね。すぐに先生をお呼びしたんだ。診てもらいなさい。何かあってからでは遅い」

「まぁ! そうなのですね! ありがとうございます、お父様! では先生、こちらへ」

「先生の薬はよく効きますからね。見立ても良いのでしょう」


 何て過保護な。

 話は変わったと言わんばかりに、クレシー侯爵とブリジット嬢、そしてジャンまでもが退室して行く。……私は頑として、バージンロードをブリジットに歩かせる許可を出していない事は理解しているのだろうか。

 私とマリー、そして医師だけが部屋に取り残された。

 慌てふためき、狼狽える医師は、私の方へと戸惑った視線を投げかける。

 私は、その視線の意味を理解し、深く頷いた。それを見た医師は、自分の使命を果たすよう、目に力を取り戻し、力強い足取りで皆の後を追うように退室して行った。


「お嬢様」


 取り残された部屋で、マリーが私の側に来る。

 その顔は、既に無だ。何も感じていない……というより、もう何も考えたくないのだろう。理解の範疇を超えすぎている。

 そんなマリーに、思わず笑いが込み上げてきた。


「……笑えませんよ?」

「状況はね」


 こんな中でも、まだ軽口を言える余裕が出来るのは、マリーのお陰だと、つくづく思い知らされる。

 私にとってマリーは、自分を保つ為の支えであり、助けでもある、有難い存在だ。


「帰って子爵へご報告ですね」

「あと、お手紙を書いてもらうように言わなければね」

「……あぁ、そうですね」


 皆が退室して行った扉を見て、マリーも察した。

 お父様とクレシー侯爵の間で新たに取り交わした契約。まだ契約書を見ていないけれど、きっとお父様なら、中途半端な情けはもうかける事がないだろう。

 情けをかけた結果が、これだけ見下され、蔑ろにされているのだから。


「帰りましょう」


 そして、私達も部屋を出て、馬車へ向かう。


 ――このまま、何事もなく結婚式を迎えるのか。

 ――それとも…………。


 新たな契約が発揮される事なく終われば良いのだけれど。

 それはそれで、私自身が不安との闘いに身を置く事になるから、歓迎できるものでもないのが本音だ。

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