第6話

 混乱しながらも大きな異変がおきていることはわかった。そして、それに対する恐怖も沸きはじめていた。

「どういうことですか。あ……あの人は」

「どうしたもこうしたもあるか。おかしくなった連中が人を襲い始めたんだ。どこも危険だ。安全な場所を探さねえと」

 老人はそう言って唇をかみしめる。しわの入った顔がさらに険しくなった。

 状況が判然としないまま彼のあとを追った。視界には、異常な景色がひろがっている。道路の壁や物、いたるところに黒く濁(にご)った血のようなものが染みついていた。

「止まれ」

 まがり角に差し掛かり老人に行く手をふさがれた。通りの向こうを覗(のぞ)いてみると、電柱のちかくでジーンズをはいた人の足が横になっているのがみえた。

 だれかが倒れているらしい。その脇には女と男がひとりずついる。最初はなにか怪我人の手当てをしているのかと思ったがそうではなかった。

 彼らは倒れている人間の皮膚や内蔵を食していた。パンやソーセージをちぎりとるかのごとく体中を赤く染めてかまわずそれらを口に放り込んでいる。

 おもわず実影は悲鳴にも似た声をもらす。その音に気づいたか手前にいた方の狂人がくるりと首をまわして実影をみた。

 あの正気を失ったような顔――

 逃げるため元来た道をもどろうとした矢先、けたたましいエンジンを鳴らして一台の乗用車が横道(よこみち)から突進してきた。かと思えばブレーキが地面を焼ききる金切り声が街にひびく。轢(ひ)かれる寸でのところで実影とひげの老人は止まり、車は目の前をとおって横の塀に激突し停止した。

 車のフロントがブロックを崩し貫通している。すさまじい衝撃音が鳴った。あたりが静かなのもあって耳がつんざかれる。

 運転席をみると眼鏡をかけスーツを着たサラリーマン風の男性が頭から血を流してハンドルにもたれかかっていた。動きがなく、気を失っているらしい。なにか車からアラームのような音が延々と大音量で発せられているが男はぴくりとも反応がない。

 音をきいてわらわらと集まってきたのは、近所の住民でも野次馬ですらもなかった。あの正気を失った人々――なかには体中血みどろどころか片腕が欠損していても平気で歩行している狂人たちだった。

「はこぶぞ、手伝え!」

 老人の声にはっとして、実影は運転席のほうへと回る。

 気絶している男を運び出し老人とともに担ぎ上げその場を離れた。男の意識はなくぶつけた際に出血したようだが、そこで手当てをしている余裕はない。

 外に安全な場所はなく、一軒の家のなかへと逃げ込む。老人の自宅らしく、彼はあわただしく玄関や廊下を駆け回りなにかを探していた。手に持ったのはゴルフクラブだった。

「お前はこれを使え」

 彼はそういって木製バットを押し付けてきた。木製と言っても木刀と同じでかなり硬い。成人男性がもてば人を殺めることもできるだろう。

「……いや、いやいや」

 大げさだろうとも思ったが、あの暴徒(ぼうと)たちに素手で立ち向かうのが得策だとも思えなかった。一応はうけとり、脇にはさむ。

 家に籠(こも)ったところで、気絶していた眼鏡の男性が目を覚ます。状況がよくわかっていないようで混乱している様子だった。

「ここは?」と彼は老人を見上げる。

「あんたは車に乗ってた。意識を失ってたみたいだから運んできたんだよ」

 今が現実であることを知り眼鏡の男は頭を抱えた。

「……なんてこった。夢じゃなかったのか」

 頭の血をさわって顔をしかめる。

「なにが起きてるんですか。あの人ら普通じゃない」と混乱気味に実影がきく。

「わ、わからない。とにかく、町はあいつらみたいので……」

 眼鏡の男は体をふるわせて、おぼつかない調子で喋る。

 わからないという言葉に実影は不安をおぼえた。自分もそう思っていたからだ。

 あの集団、というよりそれぞれ独自にうごいているようにも思えたが見たところ年齢も職業もバラバラなのではないかと思われた。まともに服を着ていない者もいた。犯罪集団と言うより一般人が突然おかしくなったようなそんな様子だった。

「外にいたのか。なにが起きたか知ってるか」老人が男性にたずねる。

「電車で、暴れてたやつがいたんだ。電車が止まって、そいつはすぐに降ろされたんだけど、だんだん同じようなひとがほかにも出始めて……」

 そのとき窓ガラスが激しく割れるような音がした。

 続けて、家の中でなにかが倒れたような音もする。居間のほうから聞こえた。

「だれか入ってきた」

 どうするか判断がつかず実影はつぶやいたまま呆然となる。

 入ってきたのはさっきのやつらだろうと、見ずとも確信をもった。

「こんなところにいてもだめだ」

 眼鏡の男が立ち上がり、玄関のドアをあけてそこから逃げようとする。

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