第14話 命が見えない
七月。
暑い。と何度も口ずさむ今日この頃。
じめじめした熱風が舞い、覆いかぶさるようにセミが鳴く。
真昼の直射日光をわざわざ浴びに行く理由はなく、向かうとすれば自然と夕方か夜に足を運ぶ。このまま八月になれば、時に夜風すら熱を灯すだろう。家にいることもさらに増える。そんな太陽が支配する季節でも、悟と愛結が出会うことはまれにあった。
その日、二人の前に宙で生きる黒点が通り過ぎたのだ。
蚊、である。
人類を最も殺す存在。
すべての蚊が滅びてしまえば、爪で皮膚をカキカキ削り取ることもなくなる……という人にとって価値を見いだせない虫である一方、いなくなれば食物連鎖に影響がでるという説もある。
とはいえ、日本人としては深く考えず、とりあえず天誅を下したいところ。刺されて死ぬわけでもないため、発見前の予防だけでなく発見後の対処法などいくらでも普及されている。
バチン! と両手上下挟みで今回も成敗であった。
が、なおも伏兵がいた。
「林道さん、ここ」
愛結を見つつ、悟は自らの袖を指す。同じ袖の場所にいると伝わり、愛結は左手を振りかぶった。
しかし、逃げられる。
服から吸えると考えていただろう時ならば、やられる前に倒せただろうが、蚊は手の風圧に押されて彼方へ戻ってしまった。
「もしかして、殺すのが苦手か」
振りかぶる、がそれを示している。
愛結は行き場のなくなった左手を丸めた。
「すみません。水野さんがそばにいるんですから、殺した方がよかったですね」
「そんなものは自由だ。だが、倒すのが嫌となると林道さんにとって夜の睡眠時は修行になりそうだ」
「家では普通に蚊取り線香に頼っています。殺虫剤を機械にいれて蒸発させるタイプの」
「優しい性格だ」
「単に潰すのが気持ち悪くてダメというだけです。人前ではやっつけるようにしていたのですが躊躇してしまいました」
気持ち悪いだけ、とは違うだろう。
人の気持ちは、いつもごちゃごちゃと多様だから。
悟は視線をクーラーバッグへ移す。
彼が手にするは虫よけスプレー。
「夏も公園に来ることを考えている悟さんなら、当然持っているのでしょうね」
「かゆくないほうが幸せだ」
今日も両手でスプレーを受け取る愛結に、もう少したくさんかけるよう促した。
「一時期、蚊になりたいと思っていたことがある」
「え……」
何となく、返してもらったスプレーを振った。
「本能で動き、思考をせずに生きる。死ぬときも一瞬で潰され苦しまない。そんな小さな生き物にも魂は宿るのだろうか。人の来世としてあり得るのだろうかと考えた」
「楽になりたかった、ということですか?」
悟のまどろっこしい物言いを汲み取るのがずいぶんと上手くなってきた気がする。
愛結は会話をしつつも、宙を眺めて蚊を警戒していた。
「当時は進みたい場所が定まってなかった。だから、そっちもありだなと思っていた。死んだら人はどうなるのか。これもまた永久の命題だ」
悟も愛結に促されて空中に視線を彷徨わせる。
「この事についても霊能者や、啓発本を書いた人が、色々と言っている。結局はなってみるまでのお楽しみだ。だからこそ、俺たちは生まれ変わりについて考えることをやめない。林道さんは、死んだら生まれ変わりたいと思うか?」
「いいえ」
ばっさりだった。
彼女の右手が左腕を掴む。苦笑いとも違う儚げな表情。
「死んだらまたいつのまにか生まれ変わっていて、いつのまにか地球にいるんでしょうか。それがどうしようもないなら本当にどうしようもないですが、記憶とか、何もかもリセットしてしまうのは嫌だと思います。いっそ全部消滅したら、何も感じなくて幸せではないかと」
ずっと抱いている考えなのか、何となく溜めていた答えなのか。
……適当に言ってないことは分かる。
愛結の視線がその右腕で止まった。
注視すると、見事に小さく腫れている。
「スプレーをかける前に刺されていたのかもしれません」
悟は、流れるようにかゆみ止めの薬を渡す。
もってきていないはずがない。
「出会った頃は、生まれ変わりの話までする間柄になるとは思っていなかった」
「それはそうでしょう。わたしは水野さんの本音を聞けた気がして、嬉しいですが」
「ありがとうございます」と塗り薬がまた悟の手に返ってきた。またかゆくなってもすぐに動けるよう、しまわずにそばに置いておく。
「……どうかしましたか?」
「いや、何でもない」
暑さも同時に紛らわそうと、悟は服の胸元をつかんであおぐ。
確か以前、次のようなことを愛結から言われたことがあったはずだ。
『どうしてそんなに打ち明けてくれるんですか?』と。
しかし、ここ最近は逆なことが多い。いや、悟も本音を話してはいるのだが……。
彼女は内心を話す理由はきっと、交流を深めるという相手への慮りからくるものだと、傍で感じる。
「……」
無理をしていないだろうか。
そんな言葉が頭に浮ぶ。
しかし、この時はうまく声に変換できなかった。
用意していない言葉を出すのは、いつも難しい。
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