青年と少女がベンチに座って話をするだけのお話
静原認
プロローグ
何と言えばいいだろうか。
自分の気持ちをそっとだいて、膝の上に置いているような女の子だった。
四月上旬、昼時。
ほんのりと包み込むような微かな雨の中、青年――水野悟(みずのさとる)は、制服を着た一人の少女が公園のベンチに座っているのを見かける。
傘を差さないその姿。
編まれていない黒い髪が肩に寄りかかる。だらりと下がった腕の先にはわずかに開かれた手のひらがあり、足もまた、玄関で休む靴のように力が抜けていた。額から頬へ、そして四肢へ、身体の流れに沿って水滴が伝っていく。近隣の中学校のものと思われる紺色を基調とした制服は、すでに飽和して濃くなっていた。
それでも彼女自身が水の雫を払おうとしないあたり、雨に当たることを求めているらしい。
悩める美少女との運命の出会いだろうか。
しかし、彼女の表情にはこれといって陰が見えない。
頬が悲しみで沈んでいることはなく、乳白色の上に乗せられた赤みは血色の良さを示す。整った鼻梁は先を見据え、口元は自然に置かれている。綺麗なまつげの揃う瞳には、抑揚がなくとも灯りがあった。顎を少しだけ下げて、すこし離れた地面に焦点を合わせている。働く蟻の行列でも見るかのように。
そんな少女を見て、悟は冒頭の印象をもった。
公園に佇む、横に並べられた長い三つのベンチ。少女は正面からみて一番左に座っている。
どうしようか、と立ち止まった。
カッパを上から下まで装備している悟もまた、公園のベンチに用があった。濡れてしまう憂いをなくして雨の中に座ってしまえば、非日常の安らぎを得られると彼は知っている。そんな考えもあって、逆に濡れることを厭わない少女を、ただでさえ人気のないこの公園で見かけるとは思わなかった。
逡巡の後、悟は右端に腰掛けることを決める。
傍にいるのは幼い少女。だが、悟もまだ高校生だ。わざわざ訪れて尋問する警官はいないだろう。とはいえ、身長差のある男性がいきなり近づけばやはり不審だ。一旦フードを脱いで、一瞬だけ目があった少女に会釈をする。
無害を示しつつ、右側に座り、しばらくたって再びフードを被りなおした。
(……雨で過ごすということは、本人のメンタルや体調管理によって風邪へと走っていく。この隣人が倒れた場合に救急車を呼ぶくらいはさせてもらおうか。孤高の狼なら、彼女の方から帰るだろうし)
身体の力を抜くと頭が空を向く。ぽつぽつと落ちる中、雲の白色と灰色が一緒に漂って生きていた。息が広がって世界に染み込む。比喩であれ、そんな感想を抱くことで心が澄むと知っている。
悟も、隣にいる少女も動かなかった。
いずれ必ず終わる一時だ。
何度か足を運んでいる悟だが、今まで少女を見たことがない。見も知らぬ他人が同じバスに乗り合わせたようなもの。
願わくば、刹那の隣人も雨を楽しめていればいい。
……しかし、やがて雨がいたずらをして強くなった。
木々の枝葉、アスファルトの道路、隅っこにある自動販売機、あらゆるものが弾け、楽器のようにパラパラ響きだす。小さくあった水溜りに大きな楕円が生まれ続ける。あぶれた雨が極小の川になって水路に滑り込んでいった。一方で雲の色だけは、些事と言わんばかりに変わっていない。
悟の雨具も笑っていた。
カッパのフードから長靴まで、黄色であふれた一式が胸を張っている。つられて悟本人もより穏やかになる。雨に侵食されない中での天然のマッサージは心地よい。金額は無料、時間帯は神様のきまぐれ。感受しないのは勿体ないというもの。
だからこそ――悟は少女にあるものを渡そうとする
「どうぞ。嫌でなければ、だけど」
キャップ帽だ。
携えていた完全防水のクーラーバッグから取り出したもの。
以前よりパートナーであるクーラーバッグはさまざまなアイテムを渡してくれるが故、悟は信頼を置いている。
雨はこちらの目にいたずらをするが、キャップ帽はそれをなだめてくれる。水辺を模した青色のツバがこちらを守ってくれるのだ。
少女は目を白黒させていた。
差し出すキャップ帽を、悟は両手で持ちなおす。
「髪に触れたり、目をつぶる動作が増えたように見える。それでも立ち去らない理由があるのなら、さっきまでと同じく心地よさを求めていいはずだ。使ってもいいし使わなくてもいい」
彼女の真横に帽子を置き、悟は元の位置に戻った。真ん中のベンチ一つ分の距離がまた開く。
やがて、少女がおずおずと帽子をかぶるのが見えた。
「ありがとうございます」
綺麗な声だと感じた。
鈴の音のように高くはなく、それでいて染み入るそよ風のようにこちらに残る。もし、悟が数年若くて、同級生として少女と関わっていたなら、日々彼女と会話を交わすのを楽しみにしていたかもしれない。
雨にいたずらされることはなくなっただろう。
ただし同時に、空一面の視界にはならなくなる。
結果的に少女がどう感じるかまでは分からない。心地よいところに落ち着けることを、ただ右側で願うだけだ。
「水野悟だ。名前を伺ってもいいか」
「林道愛結(りんどうあゆ)です」
向かいあう互いの顔。
彼女の手が両膝の上で握られた。両足も先ほどよりも丁寧にたたまれ、すっと背筋は伸びている。静かな口元から時間の共有を許してくれていると信じた。
愛結がもつ他人への優しさ、この時点でそれなりに読み取れた。
「どうして雨に打たれている。カッパと長靴は俺たちを無敵にしてくれるはずだ」
「やっぱりおかしく見えますか?」
「変だとは思っていない」
胴をも真横へひねって少女に双眸をぶつける。
彼女の大きい瞳にはやはりしっかりした色があった。
「会話は探りあい。さりげなくふった天気の話題に相手が防御をすることもある。沈黙が互いの試練になることもある。だから歩み寄ろうと尽くし、嫌がられたら謝る。それで嫌われたらあきらめる。――というのが、短くも生きてきた俺が、いまのところ抱いている考えだ。『いまのところ』だから、数日後にはカーブを描くかもしれないが……。とにかく、俺たちは一時の気軽な関係だということだ。『秘密にする』選択肢が君にはあるから、『君のことを知りたい』と言ってみた」
長ったらしく言葉を積み重ねたのは、悟なりの誠意だった。
正直に打ち明けるということだった。
愛結が何を想い答えるかは託し、悟は胴を正面に戻す。
ベンチを背もたれにして寄りかかる。視界の端に彼女が映れば十分であろう。そして愛結が悟をもう一度振り向かせたなら、今日一日話す権利をくれたと解釈するつもりだった。
愛結の指がキャップ帽に触れる。
「もともと一回やってみたかったんです。嫌な事があったらそれをすぐにやっつける方法を探していて」
「すばらしい考えだ」
「あはは。えっと、ありがとうございます。これさえやればすべて回復できる、なんてすごい方法があればいいのですが、残念ながら見つからなくて。たまたま嫌なことが会った日に、たまたま雨が降ったので、やってみることにしたんです。明日は日曜日だから、制服のことは何とかなりますので」
「鞄はどうした?」
「宿題とかをもろもろ終わらせて、ロッカーに放置してきました。『置き勉』も意外とできるものだと知りました。手ぶらで歩いていたので校門を抜けるまではかなり目立ってしまいましたが、幸運にも先生には出会いませんでした」
「あえて制服で挑むことにしたのか?」
「思いついたまま、すぐに行動に移してしまおうと思いまして。この時期だと雨はあまり降りませんし、一旦家に帰ってしまうとくつろいで出られなくなりそうでしたから」
何とはなしに、紫陽花が思い浮ぶ。
愛結を花に例えた、といわれると違う。
本当に何となく、思い浮かんだ。
彼女が足を軽く振ると、ブランコになった靴が砂とこすれる。無数の雨をくぐり抜けて、こすれる音がこちらに届くのは、悟も何かを感じているからかもしれない。
「水野さんには何かありますか? 嫌な気分になった時の対処法」
声も良く聞こえる。
「そうだな」と、悟は気持ちを整えた。
可能ならばその場しのぎと思われない、表面だけでない返答をしたい。ともすれば、元からある引き出しから意見をとりだすのが望ましい。
嫌なことを紛らわす方法。
例えば、逃げ道を作っておく、というものがある。
『実際に逃げる以前に、逃げられることを知っておく』ということ。
逃げ場がないと思い込むから追い詰められる。『休んでも大丈夫』と用意しておけば楽になれるものだ。学校の特定のイベントが嫌で休みたいなら。予習して勉強の憂いを絶ったあとで、仮病をつかってしまえばいい。
だが、喉元で止める。
理屈を交えたこの内容で納得させることはできるかもしれない。
だがそれで心を動かせるかは微妙だと、自らを参考にした。まして愛結が実際に実行するかも怪しい。ありきたりの要素にまみれていると考えた。
しかし、止めてしまったことで返事は遅れた。
明確な答えを持ち合わせていないと思われたかもしれない。
「林道さんはまたここに来る予定はあるか?」
故に、できることはかなり限られた。
顎を上げれば声も大きくなる。カッパと帽子に助けられるお互いの視線がより交差した。
「機会が重なったらになるが、お互いに愚痴りあって一緒に笑おう。近いうちに再開するにこだわらず、一年後にたまたま偶然会うなんてことがあっても面白い」
「えっと……」
「答えになっていなくてすまない。ただ『嫌な気分への対処法』は、簡単に見つけられない非常に挑戦しがいのあるものだ。だから今、俺が君に何か力になれることがあるとすれば、機会をつないでおくことだった」
「一人で過ごしたくて、ここに来ているんじゃないんですか?」
一方で愛結は構えるように顎を下げる。
悟はそれを鑑みて、前のめりになることを避けた。
「そうだ。一人でいたいから来た。今日君が先に来ていた以上、身を引くことも考えていた。君には多少なり警戒もされただろう」
「……」
「それでも『一人でいたい』と『話したい』は必ずしも反発しない」
想いを丁寧に吐き出すのは、本当にコツがいる。
「多少なり雨に濡れたい出来事があったんだろう。そんな人を目の前にして力になりたいと考えるのは自然で、しまう必要のない気持ちだ。赤の他人であろうと近くにいる人には笑顔になって欲しい。それは肯定されるべき気持ちのはず」
「……でも」
「これは俺の気持ち。俺はこれを肯定する。それに、これは確信に近いが、何か新しい縁でもない限り俺たちが再び会うことはないだろう。惜しむ気持ちはある」
ぶちかまし、だ。
人における真理など悟は学んでいないし知らない。悟はまだ若い。
だから、ハッタリに強い口調をぶちこむ。ただの本心を、しかし全力投球して付け入る隙を与えない。出会ってからずっと、悟はごまかしを捨てている。そんなこれまでの一つ一つが、小さく影響していればいいのだが。
少女はまた、両指で帽子に触れた。
「この帽子、今日のいつまで借りれるんですか?」
「また小雨になってきたな。だが、もともと土砂降りのシャワーを浴びてもよかったんだ」
「……なら、もうすこし借ります」
互いにまた力を抜く。
真ん中のベンチに助けてもらいながら座る端と端は、なかなかに心地よい場所だと知った。
「今更だが、ずぶ濡れの覚悟や対策はしてあるか」
「春なので今のところ寒くありません。風邪を引いたら仕方ないですが、若いので大丈夫だと思います」
「そうか。一時の友人になった以上、体調を気遣う権利はもらう。一方でこちらもまたカッパは脱がない。林道さんは林道さんで気兼ねなく雨を浴びればいい」
この出会いは偶然の奇跡。
環境や近況、心情や体調、天候も含めて、あらゆる要素の集大成だとしたら、かけがえのないものだ。
初めて出会ったにしては深い交流をしたが、やはり愛結とはもう会わない気もする。今日の空気の味は覚えておきたい。
時折、長い間錆びていない三つのベンチを不思議に思うことがある。今の悟や愛結のように、きまぐれなお天道様と気が合ったりするのだろうか。
悟は何となく足を動かす。
背の伸びた悟が、自身の足をブランコのように揺らすのは難しかった。
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