水槽姫②

「やあ、目が覚めましたか?」


 それから少女が目を覚ましたのは、彼女を見つけてから三日後の昼だった。その日は、いやにじめじめとしていた。


 肌に纏わり付くような霧雨が気持ち悪く降っていて、読んでいる本にも身が入らない。


 少しでも気晴らしになればと、昔たしなんでいた西洋音楽の旋律を口ずさんでいたとき、一際大きく気泡のはじける音が聞こえた。


 見ると、少女が丸い形をした水槽の中で不安げにあたりをきょろきょろと見渡しており、目が合うと何かを言いたそうに口をぱくぱくと動かした。しかし、水槽には水を張っていたために、泡がぽこぽこと口からもれるばかりで、声がこちらまで届くことはなかった。


 しばらくじっと見つめていると、やがて少女も諦めたのか、しょんぼりとした表情で俯いてしまう。


 なんだか意地悪をしているように思え、透明な、紅色のガラス玉をぽんと放り込んでやる。少女以外に何も入っていなかった水槽の中に、一つの色が加わった。


 少女は突然の出来事に一瞬驚いたような表情を浮かべたが、水槽の底にゆっくりと落ちてきたガラス玉をひょいと拾い上げ、不思議そうな表情でこちらとガラス玉を交互に見ていた。しばらくして、そろそろとそれを覗き込むと、花が咲いたように、ぱっと笑顔を浮かべた。


 こちらを見る彼女の顔が、ガラス玉越しにゆがんで見えた。それが何だか無性に可笑しくて、小さく吹き出してしまう。


 水槽の中ではしゃぐ彼女を見ていると、まるでそれが小さな世界であるかのように見えた。それは、彼女だけの、世界。


 やがて、ガラス玉で遊ぶことにも飽きたのか、退屈そうな表情を浮かべて底にぺたりと座り込んでしまった。


 少女の無邪気な様子をほほえましく思っていただけに、少々残念に思う。


 ふと、風に乗って、甘い香りが鼻先をくすぐった。それが机の上にぽつねんと活けられた沈丁花じんちょうげの花であることは顔を上げなくても分かった。


 これを、入れてみれば、どうなるのだろうか。ゆっくりとその白い花弁に触れたとき、胸の奥で、おりのような何かが、揺れた。


 無理矢理沈丁花の花から手を離すと、ぎこちない動作で首を左右に振る。


 彼女を苦しめたくはないと思った。水に溶けた沈丁花の香りに苦しみ、もがいている姿を見たくはないと思った。そんなことをすれば奴らと同じだから。


 憎しみが顔に出ていたのだろうか。少女が水槽の中でガラス玉を不安げに抱きながら、こちらを見つめていた。


「気になさらないでください。危害を加えるつもりは、無いんですから」


 そっと呟くように告げた言葉は、水槽に囚われた彼女に、届いたのだろうか。


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