第2話 不思議な趣味の隣人

 誰かが呼び鈴を鳴らしている。

 一週間前は下着泥棒に休日の眠りを妨げられたのに、今度は一体誰だ。宅配を頼んだ記憶はない。

 時計を見ると時刻は十時ちょっと前を示している。

 玄関の覗き穴を見ると、伸びた前髪を無造作むぞうさに垂らしたぼろシャツの幽霊が立っていた。

 ――いや、黒川さんか。

 「どうかしましたか?」

 扉を開ける。

 「お話があります」

 その深刻そうな雰囲気を俺はしっかりと察した。 

 「――もしかして下着泥棒の件ですか?」

 「そうです」

 「わかりました。少し部屋片付けるんで待って――」

 言い切る前に半分まで開けていた扉を黒川さんが強引に開けて玄関まで乗り込んできた。

 「ちょっと! なに! 待って!」

 俺の制止を無視して黒川さんは後ろ手で扉を閉める。

 狭い玄関に強引に押し入ってきたので俺と黒川さんは向かい合うように密着寸前だった。

 実際には黒川さんの胸がわずかに俺の体に触れている気もする。

 こんな無理矢理な訪問だというのに、黒川さんは俺と目を合わない。

 目が合わないのをいいことに、卑怯ひきょうな俺の脳みそが、ぼろシャツのえりのたわみから見える黒川さんの胸の谷間を網膜もうまくに焼き付けろと指示を出してくる。

 そこに、見てはいけないという理性が加わった結果、黒川さんの頭頂部とうちょうぶに目の焦点が合っているのにも関わらず、意識の全てが胸元に向かうという奇妙な状況におちいる。

 はたから見たら、カメレオンのような目になっているのかもしれない。

 黒川さんの頭頂部とうちょうぶがぐわりと動いたかと思うと、長い髪の毛の間から目が現れた。

 黒川さんが見上げるように俺の目を見たのだ。

 ――もしかして、胸元見てたのバレちゃった?

 「……お邪魔します」

 今更かよ。

 「え、えっと――。まあ、汚い部屋ですけど上がってください。好きなところに掛けてくれて大丈夫です。――えっとお茶の見ますか?」

 「大丈夫です」

 黒川さんがテーブルの前に腰を降ろしたので、俺も向かい合って座る。

 「それで、お話って下着泥棒の件でいいんですよね」

 「はい」

 「もしかして! また、あいつが現れたんですか!!」

 「いいえ」

 「それならよかった……」

 「よくありません」

 「へ?」

 「……よくありません!!」

 小声の人が頑張って声を張り上げたときの声だ。怒りを含んでいるようだがあまり怖くない。

 「えっと……何か気にさわること言いましたか? 俺……」

 「ええ」

 「あの……俺が言ったのは、この前現れた下着泥棒が現れなくなったことはいいことじゃないか、という意味合いのものでして……」

 「よくありません! 彼は私の常連客だったんです」

 何を言っているのかさっぱり分からない。

 「あの、どういう意味ですか? 知り合いなんですか?」

 「いいえ」

 もっと分からなくなった。

 「じゃあ、どういう関係なんですか? 分かり易く説明してください」

 「彼は私の下着を毎週一回は盗みに来る常連の下着泥棒なんですけど……今週は一度も現れませんでした」

 がっかりしたようなおもむきで黒川さんが続ける。

 「ここに越してからの常連さんだったので愛着が沸いていて、それなのに――」

 わなわなと黒川さんの肩が震えている。

 「あなたがおどかしたせいであの下着泥棒が来なくなってしまったじゃないですか!!」

 黒川さんはテーブルに手を着いて俺に迫った。その勢いで、髪に隠れた黒川さんの顔があらわになった。髪で隠すには勿体ない美人だ。色白の、一目で表情筋ひょうじょうきんを使うのが不慣れだと分かってしまうようなおこり顔がわずか赤みをびている。

 「えっと……少し落ち着いて。 その言い方だと、下着泥棒を歓迎かんげいしていたように聞こえるんですが」

 「そうです」

 そう言って黒川さんは姿勢を元に戻す。そして続ける。

 「一年近くかけて、あの人の警戒を解いたんです。それからは一週間に一回は現れていたのに、あの一件で台無しになってしまいました。責任を取ってください」 

 「責任!?」

 良かれと思って下着泥棒を捕らえたというのに、とんでもない言いがかりである。

 「俺は黒川さんが被害にあっていると思って行動したんですよ? なのに何でそんなことを言うんですか!?」

 「沢村さんが助けようとしてくれたのは理解してます。でも、ここで引いてしまったら私の努力が水の泡です。責任取れと言っても手伝いをしてもらうだけですから」

 「手伝いって何ですか!?」

 「去ってしまった下着泥棒が帰ってくるまで、男性目線で助言が欲しいのです。効率よく下着泥棒を観察したいので。損はさせません。村沢さん豆大まめだいの生徒ですよね? 何学部ですか?」

 「社会学部ですけど、何で豆大まめだいの生徒って知ってるですか?」

 「ただの推測です。この時期にここに越してきたので。――話を戻しますね。私は豆大の社会学部2年生です。もし、私の手伝いをしてくれるのなら、課題やレポートの協力をします」

 「まじですか!! 」

 「まじです」

 サークルに入っていない俺は知り合いに先輩がいないので、同じ学部の先輩の強力が得れられるのは俺にとって都合のいい話だ。

 「それなら、協力します! ――いや? 待ってください。もしも、俺が協力しないと言ったらどうするんですか?」

 「――そのときは、隣にあなたをうらんでいる隣人が住んでいると思いながら大学生活を送ってください……」

 ――怖っ!地味に怖っ!

 「わ、わかりました! 協力します!」

 「それでは、早速夕方に私の部屋にきてください」

 そう言うと黒川さんは俺の返答も待たずに立ち上がり、部屋を出て行った。

 部屋で一人になった俺は、今更ながら判断はんだんを誤ったのではないかと不安になるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る