隣人がパンツを餌に釣りみたいなことをしちゃってるんですが。
濡流美
第1話 下着泥棒との遭遇
何やら音がする。
誰かがベランダで爪を切っている。
寝ぼけていた俺の脳裏にベランダで爪を切る男の姿が浮かぶ。
二度寝しようとすると再びパチリと音が聞こえて、寝ぼけながらに思い浮かべた爪切り男の妄想が急に怖くなった俺はゆっくと
もちろん、そこに爪切り男などいるわけがなかった。
――パチリ。
また、聞こえた。
既に目が覚めている俺の脳みそは、それが何の音かを直ぐに理解した。
洗濯バサミの音だ。
それが分かれば何も怖いことはない。
隣人が洗濯物を
それなのに、
音の響きに違和感を感じる。
ゆっくりと掃き出し窓を開けて外の音に耳をすませる。
微かに服の擦れる音だ聴こえ、人の気配のようなものを感じる。
しかし、不思議なことにその音も気配も薄い仕切りを挟んだお隣さんのベランダからではない。
お隣さんのベランダの外からだ。
ベランダの手すりから身を乗り出すように外を見る。
男がいた。
帽子を被った中年の男が、つま先立ちをしながらお隣さんのベランダの外から、干された洗濯物をあさっている。男が着ているパーカーのポケットはこんもりと膨れ上がっており、下着と思われる布が顔を覗かせていた。
下着泥棒だ。
男は俺に見られていることに気付かず、気に入った下着を見つけては洗濯バサミから引っ張るようにして下着を盗んでいる。
その度に挟んでいた下着を無理やり取られた洗濯バサミがパチリと声をあげる。
俺の部屋の中からでも聞こえたあの音だ。
ずいぶんと不用心な奴だと思う。
「おい、あんた。何してる」
声をかけると驚く男と目が合った。
男が逃げようと背を向ける素振りを見せたときには既に、俺は自然とベランダの柵を乗り越えていた。
男の背中に飛びかかり羽交い締めにすると男は逃れようと必死に抵抗した。
「動くな!おい!暴れるなよ!」
男が暴れるのをやめる様子はない。
男の抵抗は激しく、助けを求めなければ数分も持たない。
助けを求めようと大声を上げようとした瞬間、お隣さんがベランダに出てきた。
「あ! お隣さん! こいつ下着泥棒です!直ぐに警察呼んでください!」
ベランダに目を向けると目元まで隠れた長髪の女性が立っていた。
「お隣さん! 早く警察呼んでください! ついでに誰か助けを呼んで下さい!」
「あの……少し声を下げてください……」
そんな場合か、と言いかけたが下着泥棒の被害者である彼女の気持ちを考えれば人目を避けたいのは当然のことなのかもしれない。
「その男の人を放してあげてください」
隣人さんがとんでもないことを言った。
「はい!? そんなことしたらこいつ逃げますよ?」
「分かってます」
「じゃあ何で!?」
俺が問いかけると隣人さんは
「今回、警察は呼びません……でも、次は分かりますよね?」
抑揚のない隣人さんの言葉を聞いて下着泥棒が激しく頷いた。
男は俺の腕を振りほどくと、走ってどこかに消えていった。
「本当に逃がして良かったんですか? 下着泥棒は
「おおごとにしたくないので……ありがとうございました」
だぼだぼのシャツにショートパンツ姿の隣人さんはそう言うと部屋へ消えていった。
ベランダの手すりをよじ登って部屋に戻った俺は、ふと部屋の隅に放置していた紙袋を見つける。
「そういえば、まだ、お隣さんに挨拶できてなかったっけ?」
紙袋の中身は母から
「何度か訪ねて不在だったけど、今なら部屋にいるだろうし調度いいか……」
紙袋を持って隣人さんの玄関まで行くと、俺は呼び鈴を押した。
しばらくすると、扉が少しだけ開いて隣人さんが顔を覗かせた。
「――何でしょうか?」
隣人さんの長く伸びた黒髪は目元を隠すように垂れており、まるで和風ホラーを思わせる姿だったから一瞬ぞっとしてしまった。
「お、おはようございます。隣に越して来た沢村です。ご挨拶遅くなってすみません。これ、もしよければ。地元のお菓子なんですけど」
「いただけるんですか?」
「もちろんです。お口に合えばいいんですが……」
「ありがとうございます」
隣人さんは扉を大きく開くと、裸足の足で扉を押さえて俺から紙袋を受け取った。
俯き気味の隣人さんの表情は長い髪と俺との慎重さも相まって確認できない。
「――黒川です。今日はありがとうございました……」
――黒川さんと言うのか。
黒川さんは目を合わせようとしてくれないので自然と他のところに目が言ってしまう。
――そして、胸がなかなかに大きい。
「あの……どうかしましたか?」
「!? あ、いや、何でも。あ! 今朝みたいなことがあったら、遠慮なく相談してくださいね!」
「――そのことですが……これからは自分で解決するので気にかけていただかなくて大丈夫です」
「そ、そうですか」
「お土産、ありがとうございました。それでは……」
そう言って黒川さんは扉を閉めた。
冷や水をかけられたような気分の俺は一人、玄関の前に取り残されていた。
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