(E-002)


 生きているのかは知らないけれど、少なくとも意識はあるらしい。ただ安心したくはなかった。伸びた髪、それと胸元のこそばゆさと筋繊維が引っ張られているような重量が現実であると僕に教えてくるからだ。

 寝かせられていた布団から起き上がり伸びをした時の声ですら清々しいほど澄んだ声になっていて、辺りを見回しても住宅街から日本家屋と予想される一室にいるという程度のもので逃走を図るには要素があまりにも少なすぎた。家具だとかをひっくり返しでもすれば何かしらの情報は手に入るのだろうが、監視されていたらどんな取り繕いをしても発覚してしまうのに加えてそんなことをしている間に誰かが来たりしたら何をされるかわからない。そもそも起床している時点で伝達はされているだろう。手首や足首に拘束具を着けられていないにしても今のご時世、投薬やまりょく識別で管理は幾らでも出来てしまう。かと言って何の対策もせずに左側にある襖を開けるのは流石に憚られる。遠隔で脳にだけ苦痛を与えるタイプのまほうがあるらしいと聞いたこともある。変質しているとはいってもまだ一週間も経っていない、知識も不十分な自分では探知どころか事態の悪化を辿るだろう。

 考えるくせして目算が甘いのは余裕ぶっているからだ。どうせ何時かは終わってしまうのだから痛みや苦しみを伴わなければ如何なってもいいという思想が少し前から染み付いている。それでも身体だけは拒否しているのが辛かった。

 物音がして、次第に足音であるとわかっていく。悪寒が全身を襲って肌を伝う汗がシャツに広がり、結局対処法を選択せずに眠る振りをした。非協力的だと思われてしまうだろうけれど正直事実上連れ去られてしまっている身としては恐怖はしても共感は難しく、ましてや極端に会話に難のある性質をしている僕が建設的交渉とは程遠い音声の応酬をするのは明白だったからだ。

 襖が開く。

 震えを止めるので精一杯、聴覚が鋭敏になる。布の擦れる音、吐息。相手の指が左頬に重なる。

 それから飛び起きて逃走を図ってしまったのは、昔から自己を除いた対象からの肯定的態度を許容しきれなかった事に起因するものだと思いだした。両親からの優しさが、友人からの感謝が、娯楽媒体への共感から生ずる安心でさえも僕にとっては数多くある罪悪感と恐怖対象の一要素で、代償から保身する以外の生活を奪う病床にも似た幸福でしかなかった。だがこれを詳細に説明するには現在の思考形態では少なからず時間を要す。だから恐らくはまたの機会というという事になってしまうのだろうけれど、とにかくそれを理由に廊下へと転がるようにして慣れない他人の住居を右往左往した。

 バランスが取れずに何度も転んでしまい這いずるような姿勢で動く。後方からする床の軋む音と柔らかな声で体裁を気にする暇は無かった。開けた場所は見つかり捕まるので、退室して直ぐにあった庭への脱出を諦めて倉庫のような一室に這入る。不安でいっぱいだから軽く泣きそうになっている。

 息を殺す。目を瞑る。自分はこの荷物と同じだと暗示する。子どもの頃を思い出すとどこかで冷静に考えているのもただただ不明点を恐れているからだろう。

「誼木さん」

 状況の進展には全くなっていないが、その声への安堵は膠着を開放し恐怖に純粋さを与えてくれた。あとは過程に怯えるだけ。誰も見なくていいし顧みる事もない。不純になればそれだけでいい。

 大丈夫。

 だいじょうぶ。

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