薄靄の中を生きる人
雪野千夏
第1話
思い出せないことがある。
「これはなんていうのだろう」
僕はいつも絶望している。朝起きて、天井に小さなシミがあることが悲しくて、階段の隅に小石がずっとあるのが悲しくて、空が青いのが苦しくなる。
本棚に並ぶ本の背表紙を見るとわけもなく涙が出る。
僕は文字を知っている。だけど頭の中で靄がかかったように、文字と意味が繋がらない。じっと見つめて、ぼうっと眺めて、目を閉じる。
「そのうち元に戻るよ」
戻らない可能性もあると僕は知っている。文字は理解できないけれど、ゆっくりならば思っていることを言葉にすることができるようになった。言いたいことを一つずつ拾い集めて並べる。それは今の僕にとっては、ずっとずっと苦しいことだ。
笑っているけど悲しいんだよ、とか皮肉とか遠回りに注意するなんてことは今の僕にはできない。自分のおもうことを間違わずに言葉にしたらくたくただ。
僕は食べたいものがある。ずっとずっと考えている。あの日目が覚めてからずっとずっと考えている。
「作るよ、教えて」妻は言う。
だけど僕は自分が何が食べたいかを伝えられない。頭の中に浮かんでいるのに、僕の脳みそは言葉を僕の口に伝えてくれない。僕の壊れた脳みそは言葉を掴んでくれない。
「これは何だった?」
テーブルの上にある青い紙に書いてある文字を読む。
「ごはんよ、今日は炊き立てなのだからね」
「ごはんが食べたい」
「そこにあるじゃない」
「これじゃないごはん」
「いつものお茶碗はこの間割っちゃったじゃない」
「ちがう」
「色かしら。ほら前と同じ白にストライプ。これでいい?」
「ちがう」
僕は箸を手に取る。前と同じようには箸が動かせないから、刺すように、すくい上げる。ぼとりとごはんが落ちた。
妻は笑顔でぱくりと落ちたごはんを自分の口に入れ、にこりと笑った。
机に置いた箸をもう一度掴もうとしたら箸が転がって床に落ちた。妻が素早く椅子から立ち上がり拾った。
「はいどうぞ」
「あ、りがとう」
涙が出た。
「どうしたの、そんなにそのごはんが食べたかったの?何かしら、チャーハンかしらそれともカレー?覚えている?あなた初めてデートしたときチャーハンなら任せとけって言ったの?」
妻は僕の涙を拭いて笑う。
僕はカレーもチャーハンも知らない。
「そうね、今度作ってみるわ。一つずつ覚えていけばいいわよ」
妻は僕が知っていたということを知っている。
僕は自分が知っていたことを知らない。
妻は笑う。
僕も笑った。
(もう少し時間をかければ僕だって食べられたのに。あなたに落ちたご飯を食べさせることなんてなかったのに)
僕は今も靄の中にいる。
薄靄の中を生きる人 雪野千夏 @hirakazu
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