第19話 アンヌの覆面デビュー
父から身を隠すため、ロッシュ家を出ようと思っていたアンヌはなぜかロッシュ家の本邸にいた。
アンジェリーヌの父ペルシエ侯爵がロッシュ家を訪れた時には、実はこの屋敷のナリスの部屋に身を潜めていた。
この事態に一番戸惑っているのはアンヌ自身だった。
アンヌが別邸を完全に出て行ってしまう事にフェリクスは反対した。
身を隠すために一時的に宿に滞在すればいいというフェリクスに、アンヌはこの機会にこの屋敷から出ようと思っていたのだ。
ペルシエ侯爵にばれて迷惑をかける心配もあったが、やはり婚約者でも親族でも何でもない自分が世話になっているのが申し訳ないと思っていたのだ。
これまで毎日が楽し過ぎて目を背けていたが、音楽神のまさし様の歌と言えども、歌を教えているだけで、衣食住全て面倒を見てもらうのはいくらなんでも甘えすぎだったと今更ながら反省している。
また仕事を見つけて家を借り、別邸に通うというアンヌに対して、仮にも令嬢だから危険だと止められ、大勢の使用人の中に紛れたらわからないとロッシュ家本邸で働くことを勧められた。しかもナリスの専属メイド。
公爵邸のメイドなど、きちんと教育され優秀な成績を修めたものしかなれるはずがない。
今のアンジェリーヌは平民オブ平民。無理に決まっている。
「わかっているよ、専属メイドと言っても何も私の世話をしてもらうわけじゃない。アンヌには出かけるときのパートナーや、ここでアッサンの活動を継続してくれればいいから」
「え?」
「まあ、おいおい決めていこうよ。とりあえず気にせず別邸からこちらに移っておいで。本邸なら確実に見つからないから」
という、ひどく軽い感じで決められてしまったのだ。
公爵邸に来ても、正直アンヌに出来る仕事はなく、メイドだというのに使用人たちからは丁寧に扱われる始末。
恐縮してアンヌはせっせと歌を思い出しては書きだしている。最近はまさし様の歌だけではなく、自分が好きだった歌をたくさん書き始めた。
それを読んだナリスが好みの歌詞を選び、せがまれて恥ずかしい思いをしながら聞かせるのが唯一の仕事。
それでも毎日、ナリスが目を輝かせて上手だといって聞き惚れてくれると、お世辞だと分かっていてもうれしくなってくる今日この頃。
ミレーヌが歌い方や姿勢など教えてくれたおかげだ。
「ずるい、兄上! アンヌは僕のアンヌなんだから先に歌を聞くのはずるいよ!」
「そうだな、しかし彼女は私の侍女だからね」
「そんなの身を隠すためのただの口実じゃないか」
フェリクスはこれまでと違って、自分が一番にアンヌの歌を聞けない事や歌詞を見せてもらえなくなったことが不服だった。
それに忙しいミレーヌがなかなか来られない事と高位貴族の本邸にくることを気兼ねすることもあってミレーヌが歌を身につけるまで以前より時間がかかっていた。
別邸を出るときにはそこまで思い至らなかったのだ。
「お前も本邸に戻ってくればいいだろう?」
「……僕は別邸でいい」
フェリクスは父にまだわだかまりがある。ナリスも無くなったわけではないが、嫡男である以上仕方がないと割り切っている。
「お前がアンヌを本邸で匿って欲しいと言ったんじゃないか」
「だって他に家を借りるっていうから。兄上がそんなにアンヌの歌に興味を持つなんて思わなかったし! アンヌは僕の同志なんだよ、僕が一番アンヌの理解者なんだから」
「フェリクス様、ありがとうございます。まだ何の仕事もできないのですが、こちらではメイドの仕事教えていただけますし、出来ればこちらで恩を返せたらと思っています」
まだ何もできていないが、ここでメイドとしてのノウハウを身につければ安心して自立が出来るというものだ。
「何言ってるの? アンヌはもう立派に仕事しているじゃない。M.アッサンという芸術家なんだから他の事考えずに布教活動にいそしまなきゃ。とにかく、兄上。歌詞と歌の管理は僕がします」
「あ~、わかった、わかった。でも一曲どうしてもお願いがあるのだけど?」
ここの所、ナリスが気に入って何度もリクエストされるのが『マドンナたちのラ〇バイ』。
ナリスには「聖女の子守歌」と伝えているが、この曲がいたくお気に入り。
それを公爵家騎士団の前で披露してほしいと言われた。
「む~。僕知らない」
ふくれるフェリクスの為にサロンに移動してアンヌは歌って聞かせる。
「うわあ、すごい。これ騎士たちが聞いたら泣いちゃうよ……」
「そうだろ? 命を懸けてくれる騎士たちのためにあるような歌だ」
「早速ミレーヌに……」
と、フェリクスが言うとすかさずナリスがそれを止める。
「いや、この歌はうちの騎士の為に、彼らだけの為の特別な騎士団歌にしてはいけないだろうか。彼らを慰めるための。だからアンヌに歌って欲しい」
「え?私など……よほどミレーヌさんの歌の方が癒されますって!」
「私はアンヌの歌が聞きたいんだ。頼む。いいか? フェリクス」
フェリクスは、最初は少し難しい顔をしていたが、急にパッと笑顔になると
「もう、仕方がないなあ。いいよ、兄上。アンヌがいいなら僕もいい」
フェリクスがにやにやしながらアンヌを見る。
「いえいえ、無理ですよ? そんな大勢の前で歌うのなんか絶対に無理! それにそこからまた私の正体や居場所がばれたらどうするのですか」
「あ、僕いい事思いついた!」
そういって、フェリクスはろくでもない事を提案するのだった。
そして私はフェリクスが思いついた「いい事」のせいで仮装用マスクを顔の上半分につけ、かつらをかぶり性別不明の竿頭衣のような衣装を着て騎士団の前に立っている。
そして表に出るのは、この騎士団の前だけだという触れ込みでM.アッサンとナリスに紹介された。
そのとたん騎士団からうおぉぉっと叫び声が上がり、歓迎されてしまった。
巷で超有名な、正体不明のM.アッサンが目の前にいるのだ。
その雄たけびに、アンヌはびっくりしたが、顔を隠している気楽さでぺこりと頭を下げると歌い始めた。
まさし様の盟友、岩崎〇美様の『マドンナたちのララ〇イ』。
深く尊い愛の歌。本当の戦士に向かって歌った歌ではないけれど、相手を想う気持ちは同じ。
心を込めて、ロッシュ家の騎士だけでなく、日頃街を守ってくれている騎士たち、戦争があれば命がけで、駆けつけてくれる騎士たちの事を想って歌い始めた。
騎士たちは、この歌に涙した。
強くあれと、身体だけではなく精神面でも強さを求められている騎士達。それに誇りを持ち、誰もそのことを不服には思ってはいない。
いないけれど……守っている妻が、恋人が、母がこんなふうに思っていてくれるのなら。命をかけるのも惜しくない。
アッサンの心のこもった歌に幼いころの母のぬくもり、優しい妻や恋人を思い出し、せつないほどの愛情と安らぎを聞く者達に与えてくれた。
騎士の幾人かは涙を流していた。
歌い終わるとアンヌが驚いてしまうほど、盛大な拍手と歓声を浴びた。
その一曲だけのつもりだったが、あまりにも拍手が鳴りやまずナリスが特別だと言って、M.アッサンの真骨頂の『舞姫』をアンヌにお願いをした。
歓声をあげながら、騎士たちが感涙している様子を見て、アンヌも涙を浮かべながら快くナリスの願いを聞いた。
思わず舞いたくなるようなリズムに、せつない歌詞とメロディ。
ミレーヌの歌としてすでに誰もが知っている有名な歌になっていたが、アンヌの切ない心のこもった歌は騎士たちの更なる涙を誘い、再び大喝さいを浴びたのだった。
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