第112話 ロンデンベイルという祖国

「ユキちゃん、声を出してはダメよ」


「ク、、、、ェ~」


 本当にユキちゃんは頭が良いのか、どうもこの状況を理解出来ているように感じることがある。

 小さく返事をするユキちゃんの上には、防寒対策を施したマリトが乗っていた。

 ラジワットは、来た時よりも大分大きなリュックを背負い、今まさにロンデンベイルを出ようとしていた。


 本来であれば、ベルバロ夫妻にご挨拶もしたいところだが、ロンデンベイルはタタリアに対して徹底抗戦を考えていた。

 医師や科学者、術者の集団であるロンデンベイルの首脳部に、直ちに避難を呼びかけたが、ラジワットの進言ですら聞き入れる気はないようだった。

 ほとんどの者が、ここで生まれ、ここで育っていた。

 ロンデンベイルを出ても、行く宛もなく、彼らの多くは傍観者になり果てていた。


 そう、自分たちに降りかかるであろう、運命を、まるで他人事のように傍観するしかない、これが現ロンデンベイルの実情である。

 この状況から、逃避行と言う方法で解決を図ろうとするのは、ラジワットの家族のみである。

 共に、逃げる人間がいれば、とも思い、ラジワットはそんな人物を探していたが、結局それは発見することが出来なかった。

 隣のベルバロ夫人が泣き出したのも、自分ではどうすることも出来ない運命に悲観してのことである。


 世界で最も治癒魔術に特化したこの地域は、逆に強大な暴力に抗う術を知らないのである。


 暗闇の旅路は、ラジワット達の足を鈍化させた。

 もう3時間も歩いていると言うのに、ロンデンベイルの街の灯は幸達に見える場所にある。

 ロンデンベイルは、天然の要塞となり得るよう、高台に作られているから、最初の山脈を越えるまで、この灯は見えるだろう。

 そして、ラジワットはこの深夜の逃避行でありながら、夜明けを待たず延々と歩き続けた。

 それは、幸達には少し不自然にすら感じられた。

 効率の悪い深夜の移動より、明るくなってからの逃避行の方が早いのでは、と感じられた。


 しかし、その理由は夜明けとともに幸とマリトにも理解出来るようになる。


 白々と夜が明け始めると、いよいよ小さくなって行くロンデンベイルの街に、砂埃が立ち始める。

 その砂埃は、やがて黒煙と交じりながら、遂には火の手が確認出来るほどに、街が盛大に燃え始めるのである。


「ラジワットさん!」


「、、、ああ、これがタタリア騎兵軍団だ、、、、それも、恐らくは主力ではない、先遣部隊だ」


 先遣部隊、、、、それでも、これだけ盛大に街を焼く、、、主力が到達したならば、ロンデンベイルは、一体どうなってしまうのだろう。

 幸は、ラジワットが言っていた、自分がこれまでに経験した事の無い破壊、という意味を、少し理解出来たことに身震いした。

 大陸の、地続きの地政学。

それは、自分の身は自分で守るだけの「力」が無ければ、このように蹂躙を受け入れるしか無いという事実。

 ラジワットが、翌朝ではなく、深夜にロンデンベイルを脱出した理由。


 もし、あそこに自分たちがいたならば、多分真っ先に殺害されていたに違いない。

 いや、、、本当の蹂躙の意味を、幸はまだ知らない。

 そこには慈悲も労りも存在しない、純粋な破壊と殺戮しか存在しないという事を、日本生まれの幸には、全く理解が出来ていないのである。


「私達のお家が、、、、、」


「ミユキ、今は考えるのはやめよう、とにかく一度、ゼノンの村まで全力で逃げるんだ」


 そうだ、悲しんでいる場合ではない、ここにはマリトもいる、守らなければならない存在がいるのだ。

 そうして、マリトの方を見ると、もはや泣き顔を通り越して、絶望の表情が顔面を蒼白に変えて行く。

 そうだ、マリトにとってロンデンベイルは、彼が生まれ育った祖国のようなものだろう。

 きっと戻って来れると信じて、昨日の夜に戸締りをした、あの愛おしい我が家にも、もはや火の手は上がっている。

 だから、幸は前を向いて行かなければならないと思った。


 ベルバロ夫妻は、、、、、、


 幸は、そっと、マリトの手を握った。

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