ジュ・テーム

増瀬司

ジュ・テーム

 沖縄の海岸で首吊り自殺を図ろうとしたら、救急車で精神病院に搬送され、そこに強制入院することになった。

 僕は東京に住んでいるのだが、死ぬなら暖かい場所で死にたいと考え、飛行機でここまでやってきたのだ。11月のことだった。

 温暖な場所ならグアムでもフィリピンでも良かったのだけど、僕にはお金の持ち合わせがほとんどなかったし、そもそもパスポートを持っていなかった。

 人気のない海岸の近くにあった樹木の丈夫そうな枝にロープをかけて、そこに首を括ろうとした。しかしなかなか踏み切れず、ロープの前で逡巡していた。

 少しして背後から声をかけられた。

 アロハシャツに短パンという姿の男が立っていた。50代くらいで、白髪混じり。恰幅が良かった。海岸を散歩していたらしい。

「とりあえず俺に話を聞かせてみろよ」とその男は言った。

 僕らが浜辺に座って話をしていると、サイレンの音が遠くから聞こえてきて、救急車が近くの駐車場に停まり、そして救急隊員二人が僕らの前に現れた。

 僕は本能的に危険を察知し、その場から逃げ出そうとしたが、すぐにアロハシャツの男と救急隊員によって背後から捕まった。キャスター付きの担架に、ベルトでグルグル巻きにされ、救急車に収容された。

 救急車が再びサイレンを鳴らして走り出した。

「どこに連れて行くんだ⁈」僕はどなった。

「精神病院」アロハシャツが、僕の隣で言った。その男は僕に付き添っていた。「自殺の恐れがあったからな」

「降ろしてくれ!」僕は担架の上でわめいた。「人権侵害だ!」

「お前、あのままだと通報されていたぞ!」アロハシャツの男がどなった。「警察病院に連れて行かれなかっただけでも、ありがたいと思え!」

 気がつくと窓の外はすでに真っ暗になっていて、車体が上方に傾くようになっていた。山道を走っているみたいだった。


 *


 そのとき僕は、山中の精神病院の診察室に立っていた。

 目の前には白衣に紺の制服を着たスキンヘッドの医師が、診察デスクの椅子に座っていた。50代くらいだった。

 僕の背後には、紺の制服を着た看護師たち五、六人が、出口を遮るように立っていた。僕が逃げ出さないためにだ。

 アロハシャツの男は、近くの簡易ベッドの上に座っていた (あとで聞いた話によると、彼は近くの総合病院の医師だった。非番であの海辺を散歩していたらしい) 。

 ここから出してくれ!と僕は繰り返していた。

「もう遅いし、この辺りにはハブが出るぞ」スキンヘッドの医師は言った。

「人権侵害だ!」と僕は主張した。

 しかしその医師は「こちらには君を保護する義務がある!」と答えた。

 そのあと口論のようになったが、結局僕はその病院に強制入院することになった。「精神保健福祉法」に僕は適応されるらしかった。ようするに今の僕には、人権のうち自由権がなかった。


 看護師たちに連れられ診察室を出ると、彼らと共にエレベーターに乗った。

 これから閉鎖病棟へと向かうのだ。

 沈黙の中、エレベーターが徐々に上昇していった。


 *


 目が覚めると、布団の上にいた。

 起き上がって辺りを見回すと、そこは独房のような部屋だった。

 四畳半ほどの長方形のスペース。片隅に洋式のトイレ (水洗式だ) 。奥に頑強な扉があり (固く閉ざされている) 、手前には厚いアクリル板が張られ、それを挟んで看護師用の廊下が伸びている。

 その廊下の窓から、陽の光が射し込んでいた。

 廊下の奥からゴム底の足音が聞こえてきて、アクリル板の向こうに紺の制服を着た看護師が現れた。

「昨晩はよく眠れましたか?」看護師が僕に尋ねた。

「いえ……」と僕は曖昧に答えた。


 アクリル板の下の隙間から、朝食が差し出された。

 パンにスープ、オムレツにサラダ、牛乳等だ。トレイの上に載っている。

 腹が減っていることに気がついた。そういえば昨日から何も口にしていなかった。


 *


 朝食を食べたあとで、看護師二人に連れられ、保護室 (僕が寝ていた独房だ) から出た。

 廊下を歩いていくと、広いホールへと出た。

 正直に述べるなら、そこには衝撃的な光景が広がっていた。

 ホールには、頭や心に疾患を抱えた人々が集まっていた。15人ほどいただろうか。

 具体的に描写するとどうしても差別的な表現になるので、あえて伏せる (あるいはこういう記述自体がすでに差別的なのかもしれないが) 。

 東南アジア系の女性が笑顔で辺りを歩き回っていた。白人男性が独り言を呟きながら握手を求めてきた。そのあとでテロリストみたいな髭面の男が話しかけてきた。

 ホールの奥には大きなTVが設置され、ほとんどの人たちはそれを眺めていた。

 テーブルを挟んで将棋を差してる人たちや、新聞を読みながらポータブルラジオを聴いている人もいた。

 僕は不安を覚えていた。ここから俺は出られるのか?


 *


 彼らに混じって、テーブルの椅子に座り、とりあえずTVを見た。他にすることがなかった。

 TVは朝のニュース番組をやっていた。

 患者たちが矢継ぎ早に質問をしてきた。彼らが何を話しているのかうまく聞き取れなかったり、質問の意味をうまく取れなかったりしたけど、とりあえず友好的ではあった。

 ホールの窓はかすかに開かれ、遠くに海が見えた。海岸沿いには白い建物が点在していた。

 東南アジア系の女性が、やはり笑いながら辺りを行ったり来たりし、白人男性がまた僕に握手を求めてきた。

 外界への出口 (固く閉ざされている) のわきで、老人が大きな声で何か独り言を口にしていた。それは子どもの泣き声や獣の鳴き声のように聞こえなくもなかった。


 昼の12時にホールで皆と昼食をとった。

 メニューは白いご飯にみそ汁、アジフライにサラダ、煮物、ぶどうジュース等だった (ちなみに白いご飯は、パンと交換ができる) 。

 病院食はマズいと聞くけれど、そこの食事は美味しかった。精神病院なので、一般病院の食事ほど塩分を控えめにしていないのかもしれない (身体の疾患で入院しているわけではないので) 。

 食事を終えると眠くなったので、保護室に戻り、畳んだ布団をまた敷いて眠った。


 *


 午後二時ごろ、医師と看護師たち二人が、僕のいる保護室にやってきた。

 その医師は昨日のスキンヘッドの人だった。やはり白衣を羽織り、その下に紺の制服を着ていた。

「調子はどうだ?」スキンヘッドの医師は微笑んで尋ねた。

「とりあえず落ち着きました」と僕は答えた。

「君には二週間、ここに入院してもらうことになる」とその医師は言った。

「君のお姉さんには昨夜、連絡がとれた」と医師は続けた。「明後日こちらに見えるそうだ」

 そのあとしばらく話を交わして、その医師と看護師たちは保護室を出ていった。

 姉と会うのは数年ぶりだった。姉も東京で独り暮らしをしていて、小さな出版社に勤めていた。

 たまに彼女から連絡が来ることもあったが、それは何か実際的なことに限られていた。きょうだいの絆みたいなものは子どもの頃から希薄だった。それが現代的なんだ、と僕はむかしから割り切っていた。


 *


 夕食は夕方の五時だった。

 僕は皆といっしょにホールで食事をとった。

 食事を終えると、僕はテーブルの椅子に座ってTVをぼんやりと眺めた。野球中継やローカルのバラエティ番組をやっていた。

 窓の外は真っ暗だったが、海岸沿いの建物の周囲にイルミネーションが見え、それが真珠のように美しかった。

 

 ホールの片隅に、一人の女性がいた。

 若い女性で、20代半ばくらいだった。

 肩までの真っ直ぐな髪に、グレーのトレーナーとブルージーンズという姿だった。

 小綺麗な格好で、彼女はテーブルに向かって本をぼんやりと読んでいた。

 彼女の存在は、ここには似つかわしくないように僕には思えた。その辺りの空気だけ明らかに異質だった。

 よそから持ってきた空間の一部を、そこに継ぎ足したかのように。


 *


 二日後、姉が僕のいる病院にやってきた。

 面会室で僕たちきょうだいは、机を挟んで向かい合っていた。

 いつものように彼女は実際的だったが、表情と口調からは、怒りと困惑が明らかに見て取れた。

 僕のせいで仕事を休み、東京から沖縄まで飛行機で飛んできて、その挙げ句、ここの入院費まで支払わされるのだ (僕には文字通りカネがなかったし、入院保険にも加入していなかった) 。そして僕がここに入院するまでの過程も医師から聞いているのだろう。

 僕が姉の立場だったら、彼女と同じ反応をしていただろうし、取り繕おうとしても取り繕い切れなかっただろう。世の中聖人ばかりじゃないのだ (もちろん僕も含めて) 。

 姉は僕に大きなボストンバッグを渡した。その中には衣類、歯ブラシ、髭剃り (電動) など、入院生活に必要なものが入っていた。売店 (病院の敷地内にある) で菓子や飲み物を買うための小遣いまでくれた。

 姉は、何か欲しいものはあるか?と僕にきいた。また明日も来るとのことだった。僕は、文庫本一冊と答えた。これ以上、世話をかけるのも気が引けたが、どうしても暇潰しの手段が必要だったのだ (TVだけでは飽きるし、患者たちとはハッキリ言って会話が成り立つとは思えなかった。それにこの病院内に図書室があり、そこを利用できることを、僕はそのとき知らなかった) 。


 *


 翌日の昼過ぎ、姉がまた僕のいる病院にやってきて、僕らは面会室で顔を合わせた。

 姉は僕に、書店で購入したらしい本を差し出した。それは流行りの小説らしかった。

 僕のアパートは引き払うことになるらしく、僕は当分のあいだ、姉のマンションに身を置くことになるとのことだった。

 その費用も姉が出し、その手続きも彼女が取るのだろう (僕は当分ここから出られないので) 。そのことについて考えるとまた死にたくなってきたので、僕は一旦考えることをやめた。


 姉が帰ったあと、僕は、彼女からもらった本をホールで読んだ。その本は自分にはイマイチ合わなかったのだけど、他にすることがないのでそれを読んでいた。

 東南アジア系の女性が上半身はだかでその辺を歩きまわっていたり、テロリストのような男がテーブルに乗っかって奇声を上げたりしていて、看護師に注意されていた。

 出口わきにいつもいる老人が僕に絡んできて、トラブルになりかけたのだけど、その老人が割り箸をナイフのように差し向けてきたので、僕は両手を上げて降参した。目でも刺されたらたまったものじゃない。


 *


 数日後、レクリエーションが催され、僕もそれに参加した。

 看護師たちに引率され、僕たちは隣の病棟に移動した。

 その日はカラオケ大会で、参加しない人たちは、隣の図書室で音楽をプレイヤーで聴いたり、映画をTVで観たりしていた。

 僕らは薄暗い部屋で順番にカラオケをした。僕は昔の歌謡曲を歌った。サビの部分で何度も声が裏返った。キーをもっと下げておけばよかった。

 あの女性もカラオケに参加していて、彼女は『ノーウェジアン・ウッド』を歌っていた。ビートルズだ。なんとなく落ち着く歌声だった。練習して歌手になればいいのにと思った。

 一番得点の高かった人には優勝商品としてパフェが送られ、キリスト教徒の中年女性がそれを受け取っていた。


 *


 翌日もレクリエーションがあり、僕もまた参加した。カラオケでリベンジ (昨日の自分に) したかったのだ。

 しかしその日は、編み物教室が催されていて、僕は特に興味が持てなかったので、隣の図書室で本を読んでいた。

 あの女性も図書室にいて、僕のはす向かいの席に机を挟んで座っていた。

「ビートルズが好きなの?」僕は彼女に尋ねた。

 彼女はおもむろに本から顔を上げた。

「昨日歌っていたからさ」僕は続けた。

「この本を読んでいたから」彼女はその表紙をこちらに見せた。それは『ノルウェイの森』だった。

「僕もむかし、それを読んだよ」と言った。村上春樹の長編小説だ。『ノーウェジアン・ウッド』を始め、ビートルズの曲が大量に出てくる。『ミシェル』や『イエスタデイ』など。

「わたしは『蛍』のほうが好きなんだけどね」と彼女は言った。「『ノルウェイの森』よりも」

「僕もだ」と答えた。『蛍』は、村上春樹の短編小説で、『ノルウェイの森』の冒頭部までの話だ。「主人公が寮のロビーで、彼女からの電話を待ってる場面が特に好きだった」

 スマートフォンやSNSのあるいまの時代では、あの場面はもう、成り立たないのかもしれないな、と僕は思った。


 *


 その翌日のレクリエーションの日、僕と彼女はまた図書室で顔を合わせた。

 やはり彼女は、僕のはす向かいの席に机を挟んで座っていた。

「君はどうしてここにいるの?」僕はそう彼女に尋ねた。

「それなりの理由があるからね」彼女は本に目を落としながら答えた。

「それなりの理由?」僕は好奇心からそうきいてしまう。

「病名は伏せておきたいな」彼女は言った。「ただ当分のあいだ、ここから出られないだろうね」

 そう彼女は言うと、口をつぐんでしまう。

 僕たちのあいだに、沈黙が降りてきた。

 僕も手元の本に目を落とし、その世界へと入っていった。


 *


 しばらくすると僕は、保護室から病室へと移された。四人分のベッドがあり、一般病院の病室と見た目はさほど変わりなかった。

 ベッドに寝そべりながら本を読み、それに飽きるとホールに移りテーブルで本を読んだ。

 ときどき、仲良くなった患者と少しだけ言葉を交わした。患者によってはコミュニケーションを取ることができた。

 彼らは僕にお菓子を分けてくれたり、カップラーメンの残り半分を差し出してくれた (ラーメンのほうは、気持ちだけ受け取っておいた) 。


 *


「結婚していたの」と例の女性が言った。

 そのとき僕らはホールで、テーブルを挟んで向かい合っていた。

 そのとき夜の八時ごろで、患者たちの姿はまばらだった。ほとんどの人らは、病室や保護室に戻っていた。

 TVは野球中継を流していて、窓から見える建物のイルミネーションは、相変わらず綺麗だった。

「もう、別れちゃったんだけどね」と彼女は答えた。

「僕も独り身だ」と言った。「僕の場合はずっとなんだけどね」彼女もいなければ、友だちの一人もいない。

「一人が好きなの?」と彼女は尋ねた。

「そんなんじゃないよ」と僕は答えた。「僕には性格的に問題があるんだ」

「問題?」と彼女は言った。「どんな?」

「人恋しいのに人が怖いんだ」と僕は答えた。「淋しいのに人に近づけない野良猫みたいなものだよ」

 そんな野良猫を見かけるたび、僕はその猫のなかに自分の姿を見出した。

 むかしはそうじゃなかった気がする。いつからこうなってしまったんだろう? そしてこうなってしまった原因は、一体なんだったんだろう……。

「それならわたしと同じだ」そう彼女は微笑んだ。

 仲間だね、とでも言うかのように。

「結婚していたのに?」僕は尋ねた。

 彼女はまた微笑んだ。


 *


 子どものころからあるものを探していた。

 だけど、それが何かはわからなかった。 

 きっとそれは、遠い昔に失った何かだ。とても大切な何か。

 夜、鉄橋を走り抜けていく電車の灯りが、幹線道路で信号待ちする沢山のクルマの灯りが、そしてマンションや雑居ビル、家々の灯りが、僕の胸に懐かしさと切なさを呼び起こさせた。

 まるでその中の一つに、探していたものが隠されているかのように。

 あるいは遠くから聞こえる風の音が。遥か彼方に見える景色が……。

 

 いつからかそれを探すことは忘れてしまい、心に懐かしさと切なさが喚起されることもなくなってしまった。

 きっと日々の疲労に心が呑み込まれていたのだろう。


 *


 退院の日。空はどこまでも高く、そして透き通っていた。

 引き伸ばされた白い雲が、空にいくつか浮いていた。

 午前中のうちに姉が僕を迎えに、僕のいる病棟にやってきた。

 僕は自分の荷物をまとめ、看護師たちや親しくなった患者たちに挨拶をして回った。

 彼女とはうまく話すことができなかった。タイミングが悪かったというのもあるし、彼女はその日どこかよそよそしかった。僕を避けているようにも見えた。

 僕らは連絡先を交換し合うこともなかった。僕が弱かったからだ。

 僕らはやはりお互いにあの猫だった。


 姉と僕は、正面玄関から病院を出た。

 駐車場には、タクシーが一台停まっていた。姉が手配したものらしかった。

 僕らはそのタクシーに乗り、タクシーは病院のある丘を降りていった。

 しばらくしてそのタクシーは、海岸沿いの通りを走っていた。

 姉は隣でスマートフォンを操作し、僕は窓から海を眺めていた。少し開いた窓から入ってくる風が、心地よかった。


 僕らは那覇市内でタクシーを降り、ステーキ屋で食事をとり、そして空港へと向かった。

 飛行機のチケットを買ったあと、姉はスマートフォンの充電をしに、どこかへ行ってしまった。

 僕は空港の大きな窓から、飛行機の離着陸をぼんやりと眺めていた。

 あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて何かの冗談みたいだ。

 あるいは、と僕は思った。彼女は僕自身だったのかもしれない。彼女は、僕の半身だったのかもしれない。

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ジュ・テーム 増瀬司 @tsukasamasuse2

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