殺し屋のカルマ

増瀬司

前編

 黒田はジャケットを羽織ると、アパートの自室から出た。

 階段を下り、住宅街を道なりに歩いていった。

 少しして、児童公園が見えてくる。黒田はそこに入った。

 ベンチに座ってしばらくすると、中年男がやってきた。

 岡崎だ。緑のジャケットを着ていた。

 岡崎は、黒田の隣に腰を下ろした。

 「仕事だ」と彼は言った。そしてポケットから、写真を取り出し、黒田に手渡した。

 黒田は写真を見た。そこには初老の男が写っていた。白髪混じりの頭で、眼鏡をかけていた。

 「今回のターゲットだ」と岡崎は言った。「明日の最終電車ごろ、K駅の出口b1からそいつが出てくる」

 「了解」と黒田は答えた。「依頼者は?」

 「そいつの妻だ」と岡崎は言った。「お前いつも、それをきくよな」

 「気になるじゃないですか」と黒田は言って、立ち上がった。



 深夜、地下鉄の出口から、50代ほどの痩せた男が現れた。

 白髪混じりの頭で、眼鏡をかけていた。トレンチコートを着ていた。

 男は大通り沿いを、北へ向かって歩いていった。

 男は酔っていた。知人と酒を飲んだ帰りだった。

 少しして、路地裏に入っていった。この先の公園を突っ切るのが、自宅までの近道だった。

 路地を歩いていると、不意に背中に気配を感じ、後ろを振り返った。

 15メートルほど先に人影があった。

 その人影は、こちらに近づいてくる。

 20代ほどの若者だった。黒いコートを着ていた。

 若者は、コートの内側に手を入れ、何かを取り出した。

 その瞬間、男の胸に衝撃があった。続けてもう一度。

 男は、前のめりに倒れた。

 胸が焼け付くように熱かった。胸板が液体で、グショグショに濡れていた。

 《人が死ぬ瞬間とは、こういうものか……》男の意識は、徐々に遠のいていった。



 黒田は、男の死亡を確認すると、サイレンサー付きの自動拳銃をコートにしまい、路地裏から出た。

 大通り沿いを、北へ向かって歩いていった。

 少しして背後から、黒いミニワゴンがやってきて、路肩に停まった。

 黒田は、ミニワゴンの後部座席に乗り込んだ。

 「どうだ?」岡崎が、車を発進させたあとで言った。

 「やりましたよ」黒田はシートに沈み込んだ。

 黒田は、窓の外に目を向けた。

 マンションや街路灯の灯りが、次々に後方へ走り去っていった。

 黒田は小さく欠伸をした。やけに眠たかった。


 

 黒田は、中空に浮かんでいた。

 眼下には、海岸があった。

 波打ち際には二人、人がいた。

 一方は浅瀬に、他方は浜辺に立っていた。

 不意にパァンッと、乾いた音がした。銃声だった。

 浅瀬にいたほうが倒れ、浜辺にいたほうが、そちらへ駆け寄っていった。


 そこで目が覚めた。

 黒田は、ベッドから起き上がった。

 辺りを見渡した。自分の部屋だった。

 カーテンの隙間から、光が射し込んでいた。

 《夢か……》黒田は吐息をついた。

 最近よく見る夢だった。

 枕元のスマートフォンを手に取った。朝の八時前だ。

 約束の時間まで、まだ余裕があった。

 黒田は、またベッドに潜り込んだ。



 昼過ぎ。黒田と岡崎は児童公園で、隣り合って座っていた。

 「今回の分だ」岡崎は茶封筒を、黒田に手渡した。

 「どうも」黒田は封筒の中身を見ずに、それをジャケットのポケットにしまった。

 「お前、ウチに来てどれくらいになる?」岡崎が不意に尋ねた。

 「五年ですかね……」と黒田は答えた。

 「ふぅん」と岡崎は言った。

 「お前、死にたくなることはないのか?」岡崎は、続けて尋ねた。

 「死にたくなること?」黒田は、岡崎のほうを見た。「どうして……」

 「いや別に」岡崎は素気なく答えた。「なんとなくだ」

 「じゃあな。仕事が入ったら、また連絡する」岡崎はそう言って、立ち上がった。

 黒田は岡崎の背中が消えるのを見届けてから、ベンチから立ち上がった。



 黒田は、近所の区営プールにいた。 

 25メートルプールを、クロールでひたすら往復していた。

 黒田は度々ここに来てプールで泳いだ。身体を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済んだからだ。

 小一時間ほど泳いだあとプールから上がり、シャワーを浴びに行こうとした。

 そのとき、背後から声をかけられた。「黒田くんだよね?」

 黒田は後ろを振り向いた。

 若い女性が立っていた。紺の競泳水着に水泳キャップという姿だ。

 「どちら様?」と黒田は尋ねた。本当に見覚えがなかった。

 「わたし、わたし」彼女はキャップを取った。

 濡れた髪が、彼女の肩にかかった。

 少しの間のあと、「日比野」と黒田は目を大きくした。



 黒田と日比野は、小学生のころ同じクラスだった。

 席が隣同士になってから、互いに話をするようになった。

 放課後、二人が遊ぶようになるまで、それほど時間はかからなかった。

 日比野の家で遊ぶことが多かった。彼女の両親は共働きで、帰宅するのが遅かったからだ。

 彼女の家で、二人が言葉を交わすことはあまりなかった。一緒にテレビを観たり、マンガを読んだりした。

 それでも黒田には、彼女と心での繋がりを感じ取ることができた。

 外が暗くなり、黒田が帰ろうとすると、日比野はいつも悲しげな顔をした。「もう帰るの?」


 中学校に上がると、二人は違う学校に進学することになった。

 住んでいた地区が違ったからだ。

 そのときから二人は、疎遠になった。



 「久しぶりだね」と日比野は微笑んだ。

 「本当に」と黒田も微笑み返した。

 市営プールの近くにあるファミレスに、二人はいた。

 テーブルを挟んで、向かいあっていた。

 窓の外はすでに暗くなっていて、車が通りを行き来していた。

 「ねぇ黒田くん、今までどこにいたの?」と彼女が尋ねた。

 「どこにも行かなかったよ」と黒田は答えた。「ずっとこの町にいたよ」

 「わたしは京都にいたんだ」と彼女は言った。

 「京都?」

 「親戚が京都で、旅館を経営しているの」と彼女は答えた。「それで、人手が足りないって言うから。わたしも就職先がなかなか見つからなかったし」

 「もう辞めちゃったんだけどね」と彼女は微笑んだ。「今はこっちに戻ってきて、実家暮らししてる」

 ウェイトレスが食事を持ってきて、そこで話は一旦、中断された。

 そのあとも二人は互いの近況や、これまであったことなどを話した。二人のあいだにある空白を、埋めるかのように。

 黒田は、自分がフリーターだと嘘をついた。本当の仕事について話すわけにもいかなかった。


 二人はファミレスを出たあと、夜道を並んで歩いていた。

 黒田が日比野を駅まで送るためだった。

 彼らの行く手を、街路灯の灯りが、点々と照らしていた。

 「また会えるかな?」と彼女は言った。

 「もちろん」と黒田は答えた。

 「良かった」と彼女は綺麗に笑った。

 黒田は、彼女の顔をジッと見つめた。

 「どうしたの?」と彼女が言った。

 「いや……」と黒田は答えた。「なんでもない」



 黒田と日比野は、それからも度々会うようになった。

 黒田のアパートの最寄り駅で会うこともあれば、彼女の家の最寄り駅で会うこともあった。

 二人は駅前のカフェで、コーヒーやお茶を飲んだあと、街や公園、河原を当てもなく歩いた。

 黒田はそれだけで充分だったし、彼女もそのように見えた。


 その日黒田は、日比野の家の最寄り駅へ、電車で向かった。

 改札口を抜け、駅前のカフェに入った。

 奥のほうの席に、彼女の姿があった。

 その向かいの席には、男の背中があった。

 その男は立ち上がり、店を出て行こうとした。

 そのとき黒田は、男とすれ違った。

 眼鏡をかけた、短髪の男だった。黒い服を着ていて、中肉中背だった。

 どこか憤慨した様子だった。

 「今のは?」黒田は、日比野の向かいの席に腰を下ろした。あの男が座っていた席に。

 「むかしの知り合い」と彼女は吐息をついた。彼女の表情にも、不快感が滲んでいた。

 「元カレ?」と黒田は尋ねてみた。

 「そんなんじゃないよ」と彼女は答えた。「大学の同級生」

 「前から付きまとわれててね」と彼女は言った。「わたしが京都に行ってたのも、半分それが理由」

 「だいじょうぶなのか?」

 「とりあえずはね」と彼女は答えた。「今のところ実害はないし」

 「それより何か美味しいものを食べに行こうよ」と日比野は微笑んで、立ち上がった。

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