殺し屋のカルマ
増瀬司
前編
黒田はジャケットを羽織ると、アパートの自室から出た。
階段を下り、住宅街を道なりに歩いていった。
少しして、児童公園が見えてくる。黒田はそこに入った。
ベンチに座ってしばらくすると、中年男がやってきた。
岡崎だ。緑のジャケットを着ていた。
岡崎は、黒田の隣に腰を下ろした。
「仕事だ」と彼は言った。そしてポケットから、写真を取り出し、黒田に手渡した。
黒田は写真を見た。そこには初老の男が写っていた。白髪混じりの頭で、眼鏡をかけていた。
「今回のターゲットだ」と岡崎は言った。「明日の最終電車ごろ、K駅の出口b1からそいつが出てくる」
「了解」と黒田は答えた。「依頼者は?」
「そいつの妻だ」と岡崎は言った。「お前いつも、それをきくよな」
「気になるじゃないですか」と黒田は言って、立ち上がった。
*
深夜、地下鉄の出口から、50代ほどの痩せた男が現れた。
白髪混じりの頭で、眼鏡をかけていた。トレンチコートを着ていた。
男は大通り沿いを、北へ向かって歩いていった。
男は酔っていた。知人と酒を飲んだ帰りだった。
少しして、路地裏に入っていった。この先の公園を突っ切るのが、自宅までの近道だった。
路地を歩いていると、不意に背中に気配を感じ、後ろを振り返った。
15メートルほど先に人影があった。
その人影は、こちらに近づいてくる。
20代ほどの若者だった。黒いコートを着ていた。
若者は、コートの内側に手を入れ、何かを取り出した。
その瞬間、男の胸に衝撃があった。続けてもう一度。
男は、前のめりに倒れた。
胸が焼け付くように熱かった。胸板が液体で、グショグショに濡れていた。
《人が死ぬ瞬間とは、こういうものか……》男の意識は、徐々に遠のいていった。
*
黒田は、男の死亡を確認すると、サイレンサー付きの自動拳銃をコートにしまい、路地裏から出た。
大通り沿いを、北へ向かって歩いていった。
少しして背後から、黒いミニワゴンがやってきて、路肩に停まった。
黒田は、ミニワゴンの後部座席に乗り込んだ。
「どうだ?」岡崎が、車を発進させたあとで言った。
「やりましたよ」黒田はシートに沈み込んだ。
黒田は、窓の外に目を向けた。
マンションや街路灯の灯りが、次々に後方へ走り去っていった。
黒田は小さく欠伸をした。やけに眠たかった。
*
黒田は、中空に浮かんでいた。
眼下には、海岸があった。
波打ち際には二人、人がいた。
一方は浅瀬に、他方は浜辺に立っていた。
不意にパァンッと、乾いた音がした。銃声だった。
浅瀬にいたほうが倒れ、浜辺にいたほうが、そちらへ駆け寄っていった。
そこで目が覚めた。
黒田は、ベッドから起き上がった。
辺りを見渡した。自分の部屋だった。
カーテンの隙間から、光が射し込んでいた。
《夢か……》黒田は吐息をついた。
最近よく見る夢だった。
枕元のスマートフォンを手に取った。朝の八時前だ。
約束の時間まで、まだ余裕があった。
黒田は、またベッドに潜り込んだ。
*
昼過ぎ。黒田と岡崎は児童公園で、隣り合って座っていた。
「今回の分だ」岡崎は茶封筒を、黒田に手渡した。
「どうも」黒田は封筒の中身を見ずに、それをジャケットのポケットにしまった。
「お前、ウチに来てどれくらいになる?」岡崎が不意に尋ねた。
「五年ですかね……」と黒田は答えた。
「ふぅん」と岡崎は言った。
「お前、死にたくなることはないのか?」岡崎は、続けて尋ねた。
「死にたくなること?」黒田は、岡崎のほうを見た。「どうして……」
「いや別に」岡崎は素気なく答えた。「なんとなくだ」
「じゃあな。仕事が入ったら、また連絡する」岡崎はそう言って、立ち上がった。
黒田は岡崎の背中が消えるのを見届けてから、ベンチから立ち上がった。
*
黒田は、近所の区営プールにいた。
25メートルプールを、クロールでひたすら往復していた。
黒田は度々ここに来てプールで泳いだ。身体を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済んだからだ。
小一時間ほど泳いだあとプールから上がり、シャワーを浴びに行こうとした。
そのとき、背後から声をかけられた。「黒田くんだよね?」
黒田は後ろを振り向いた。
若い女性が立っていた。紺の競泳水着に水泳キャップという姿だ。
「どちら様?」と黒田は尋ねた。本当に見覚えがなかった。
「わたし、わたし」彼女はキャップを取った。
濡れた髪が、彼女の肩にかかった。
少しの間のあと、「日比野」と黒田は目を大きくした。
*
黒田と日比野は、小学生のころ同じクラスだった。
席が隣同士になってから、互いに話をするようになった。
放課後、二人が遊ぶようになるまで、それほど時間はかからなかった。
日比野の家で遊ぶことが多かった。彼女の両親は共働きで、帰宅するのが遅かったからだ。
彼女の家で、二人が言葉を交わすことはあまりなかった。一緒にテレビを観たり、マンガを読んだりした。
それでも黒田には、彼女と心での繋がりを感じ取ることができた。
外が暗くなり、黒田が帰ろうとすると、日比野はいつも悲しげな顔をした。「もう帰るの?」
中学校に上がると、二人は違う学校に進学することになった。
住んでいた地区が違ったからだ。
そのときから二人は、疎遠になった。
*
「久しぶりだね」と日比野は微笑んだ。
「本当に」と黒田も微笑み返した。
市営プールの近くにあるファミレスに、二人はいた。
テーブルを挟んで、向かいあっていた。
窓の外はすでに暗くなっていて、車が通りを行き来していた。
「ねぇ黒田くん、今までどこにいたの?」と彼女が尋ねた。
「どこにも行かなかったよ」と黒田は答えた。「ずっとこの町にいたよ」
「わたしは京都にいたんだ」と彼女は言った。
「京都?」
「親戚が京都で、旅館を経営しているの」と彼女は答えた。「それで、人手が足りないって言うから。わたしも就職先がなかなか見つからなかったし」
「もう辞めちゃったんだけどね」と彼女は微笑んだ。「今はこっちに戻ってきて、実家暮らししてる」
ウェイトレスが食事を持ってきて、そこで話は一旦、中断された。
そのあとも二人は互いの近況や、これまであったことなどを話した。二人のあいだにある空白を、埋めるかのように。
黒田は、自分がフリーターだと嘘をついた。本当の仕事について話すわけにもいかなかった。
二人はファミレスを出たあと、夜道を並んで歩いていた。
黒田が日比野を駅まで送るためだった。
彼らの行く手を、街路灯の灯りが、点々と照らしていた。
「また会えるかな?」と彼女は言った。
「もちろん」と黒田は答えた。
「良かった」と彼女は綺麗に笑った。
黒田は、彼女の顔をジッと見つめた。
「どうしたの?」と彼女が言った。
「いや……」と黒田は答えた。「なんでもない」
*
黒田と日比野は、それからも度々会うようになった。
黒田のアパートの最寄り駅で会うこともあれば、彼女の家の最寄り駅で会うこともあった。
二人は駅前のカフェで、コーヒーやお茶を飲んだあと、街や公園、河原を当てもなく歩いた。
黒田はそれだけで充分だったし、彼女もそのように見えた。
その日黒田は、日比野の家の最寄り駅へ、電車で向かった。
改札口を抜け、駅前のカフェに入った。
奥のほうの席に、彼女の姿があった。
その向かいの席には、男の背中があった。
その男は立ち上がり、店を出て行こうとした。
そのとき黒田は、男とすれ違った。
眼鏡をかけた、短髪の男だった。黒い服を着ていて、中肉中背だった。
どこか憤慨した様子だった。
「今のは?」黒田は、日比野の向かいの席に腰を下ろした。あの男が座っていた席に。
「むかしの知り合い」と彼女は吐息をついた。彼女の表情にも、不快感が滲んでいた。
「元カレ?」と黒田は尋ねてみた。
「そんなんじゃないよ」と彼女は答えた。「大学の同級生」
「前から付きまとわれててね」と彼女は言った。「わたしが京都に行ってたのも、半分それが理由」
「だいじょうぶなのか?」
「とりあえずはね」と彼女は答えた。「今のところ実害はないし」
「それより何か美味しいものを食べに行こうよ」と日比野は微笑んで、立ち上がった。
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