第2話 別れ

「ひなた、やる?」


「はい、私、頑張ります」


 やる気満々で力んでいるひなたの肩と腕を押さえる。


「力抜いて」


「やっぱり難しいです。いっぱい出ちゃうと大変ですし。もっと立派にしたいです」


 ひなたはそう言って優しい手つきでいじらしく頑張っている。


 俺のプランター農業の水やりを。


「そんなに気にしなくても平気だから。俺だっていつも適当にやってるんだし」


「駄目です。お野菜さん達だってせっかくなら美味しく食べて欲しいでしょうし」


「ほんとにいい子だな。何、ひなたは聖女の生まれ変わりとかなの? それとも聖女そのものなの?」


 俺の発言にひなたはポカンとした顔をする。


 まだひなたとの好感度が低かったようだ。


 ひなたとは週に二回、俺のバイトが休みの日に毎日会っている。


 それと言うのも、ひなたの個人的趣味が野菜のスケッチらしい。


 だから夏休みに入ってたまたま見つけた俺の野菜をスケッチする為に眺めていたと。


 さすがにベランダを覗きながらスケッチするのは気が引けたようで、しっかり観察して少し離れた日陰で描いていたそうだ。


「俺が居ない時も入れるように合鍵ほんとにいらないの?」


「それは駄目です。私はまだお兄さんから信頼を得てませんから」


「真面目だよな。朝来て俺が休憩で帰って来る時に帰るとかでもいいんだよ?」


「お兄さんが居ない間にお野菜さんを盗んだりしちゃうかもですよ?」


 別にそれぐらいならいいと言っているのだけど、ひなたは絶対に譲らない。


「まぁひなたがそれでいいならいいんだけど。今日はきゅうり?」


「はい」


 俺の育ててる野菜はそんなに種類が多くない。


 だから順番に描くようにしている。


「どれにする?」


「この子にします。太くて大きくてすごいです」


 この発言で卑猥な妄想をする奴にはこの純粋無垢なひなたの顔を見せたい。


 自分の愚かさを理解するから。


 初めてのときはトマトに「ハリがあってスベスベで形がいいです」と言っていて、一瞬頭に不埒な想像が生まれたけど、ひなたの慈愛に満ちた表情を見て自分の愚かさを知った。


「お兄さん?」


「なんでもない。俺が愚かで最低な人間から少しは成長出来たことに感激してるだけ」


「お兄さんはずっといい人です!」


 ひなたが「むぅ」と頬を膨らませる。


 その可愛い仕草に思わずひなたの頭を撫でてしまう。


「えへへ、お兄さんがなでなでしてくれました」


「なるほど、聖女じゃなくて天使だった」


 ひなたと居ると俺が本当に女性不信なのか疑ってしまう。


 ひなたと初めて会った日は二度と会うことはないと思っていたのに、帰る時「また来てもいいですか?」と寂しそうに言われて断れなかった。


「お兄さんってたまに変なことを言いますよね」


「気にしないでやってくれ。俺はどうやらロリコンだったみたいだから」


 女性不信はあくまで女性が対象で、少女は含まれないようだ。


 つまり俺はロリコンらしい。


「ろりこんさん?」


「そうそう、ろりこんさん。その意味を理解する歳にひなたがなったら俺もひなたも二度と会うことはないだろう」


 ひなたは俺を軽蔑して、俺は女性となったひなたを恐れる。


 お互い離れる理由が出来て後腐れない。


「お兄さんはやっぱり私が来るのは嫌ですよね……」


「ひなたに毎回言ってることをまた話してあげよう。俺は嫌いな奴を家には入れない。そしてここに入るのはひなたが最初で最後だ」


 ここに来る度にひなたが聞くので俺もこのセリフを毎回言っている。


 俺は基本的に人をパーソナルスペースに入れない。


 バイト中に近づくのは仕方ないとして、家に人を入れたりは絶対にしない。


「お兄さんと私はですもんね」


 俺は友達がいない。


 それは当然で、俺は高校を辞めている。


 バイト先ではパートの人と一緒に仕事をすることが多いので友達と呼べる相手はいない。


 どうやらひなたもそうらしい。


「同類は言葉のあやだよ。仲間にしよう」


「仲間、わかりました」


 ひなたがニッコリと笑顔を向けてくる。


 その両手にきゅうりがあるのがシュールだが。


「とりあえずスケッチしたら? この後は買い物もあるし」


「そうでした」


 ひなたのスケッチが終わった後は俺の買い物がある。


 日用品や食料の買い出し、後はひなたの描きたい野菜の種や苗を探したり。


 それとひなたを家の近くまで送る意味もある。


「じゃあ描きますね」


「あぁ、今日も見てていいか?」


「もちろんです」


 俺の最近増えた趣味。


 ひなたの描いてる絵を眺めることだ。


 白紙の紙に俺の育てた野菜が描かれるのを見てるのが楽しい。


 そして何より。


「終わりです」


「ほんとにすごいな」


 ほんの十分ぐらいで描き終え、鉛筆一本で描いたとは思えない程のクオリティだ。


「感動だよな、この上手さ」


「私はお兄さんの育てたお野菜さんの美味しさに感動してますよ」


 絵を描いたら食す。


 それがルールだ。


「味噌とかいる?」


「そのままで大丈夫です。美味しいので」


 きゅうりを水洗いして、へただけ落としてウキウキしているひなたに渡す。


「今日もはしたなく食べていいですか?」


「いいよ。ひなたの好きなように食べれば」


「じゃあいただきます」


 ひなたはそう言ってひなたの口には少し大きいきゅうりにかぶりつく。


 どうやら当たりかはずれか水分がすごい。


 ひなたの口の端から水が垂れる。


 それをひなたは指で取って舐める。


「おいひぃ」


(エロいんだよなぁ……)


 結局俺は愚かな人間だ。


 ひなたが野菜を食べる姿を見て毎回そう思ってしまう。


 正直ずっと見ていたい。


「……おにいひゃんもたれまひゅは?」


 ひなたがきゅうりを咀嚼しながらこちらに食べかけのきゅうりを差し出す。


(……毎回のことだけど俺は何かを試されてるのかな)


 俺は物欲しそうに見ているのではない。


 単純にひなたが野菜を食べる姿がエ……、可愛くて見ているだけだ。


「いい、ひなたが食べてあげて」


「いいんれふか?」


「うん、理性が飛ぶ可能性があるから」


「りへい?」


「気にしないであげて、ひなたは可愛いってことだから」


 ひなたの顔が一気に赤くなる。


 こう言えばひなたがいっぱいいっぱいになって食べ方が小動物のようになり、ただの可愛いひなたになる。


(ひなたが恥じらいながら太いきゅうりを……、俺は死んだ方がいいのか?)


 純新無垢なひなたの隣に俺が居てはひなたに悪影響なのではないだろうか。


 いや、悪影響だ。


「ご、ごちそうさまでした」


「お粗末さまでした。俺はひなたと一緒に居てもいいと思う?」


「私が食べ終わると毎回聞いてきますけど、やっぱり私が居るの嫌なんですよね?」


 ひなたがまた寂しそうな顔をする。


「天使の隣にド畜生はいらないんじゃないかと」


「よくわかりませんけど、お兄さんが嫌なら言ってください。私はもう……来ませんから」


 ひなたが今にも泣き出しそうな顔になる。


「ひなたが嫌なんじゃない。ひなたで変なことを考える自分が嫌なんだよ」


「どんなことですか?」


「墓穴を掘った。それを聞かないでくれたら二度と言わない」


「わかりました。お兄さんの邪魔でないならこれからも来ていいですか?」


「むしろ来てくれないと癒しが足りない」


 週に二回しか会えないけど、ひなたが居ると次の日調子がいい。


 いくら連勤でもひなたに会えれば回復出来る。


「俺のメンタルの為にも来てください」


「じゃあ二度と変な質問しないでください」


「しない、ひなた欠乏症で死ぬ」


「死なせませんよ」


 ひなたはそう言って俺の手を握る。


 正直俺ならこんなことを言う奴とは二度と関わりたくない。


 優しいひなたに甘えられるのはいつまでなのだろうか。


「じゃあ行きましょ。お野菜さん探し!!」


「今日一のテンション」




「わぁ」


 ひなたが近くのホームセンターの種売り場に着いた途端に目をキラキラさせた。


「ほんとに野菜好きだよな」


「お野菜さんは偉いんです。最初は小さい種さんなのに、大きくなると美味しいお野菜さんになって」


 ひなたはとにかく野菜が好きだ。


 野菜が育つ過程から食べるところまで全て。


「秋のお野菜だと何がいいでしょうか。小松菜さんやほうれん草さんにいちごさんもあります」


 興奮気味に言っているが、先週も来ていて同じ反応をしていた。


「そろそろ決めないと育つまでに期間空くぞ」


「それは困ります。早く選ばないと」


 そう言ってひなたが食い入るように種や苗を眺める。


 そんなひなたを眺めていると。


「あおくん?」


 まだ八月も半ばで暑いはずなのに背筋が凍った感覚がした。


「あおくんと……陽咲ひなた?」


「あ、お姉ちゃん」


 ひなたが振り返り俺の背後にいるであろう『あいつ』に駆け寄る。


「ひなた、悪い帰る」


 俺は後ろを振り向かないようにその場を立ち去ろうとする。


「お兄さん?」


「本当にごめん。それとうちにはもう来るな」


 俺はそう言ってその場を立ち去る。


 ひなたが何か言っていたけど、何も聞こえない。


 何も聞きたくなかった。

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