第2話 姫の処方箋

 すると、半透明の群衆の中から、すっと立ち上がった者がいた。白髪の背中を丸めた老人であった。しかし色も、輪郭も薄く、今にも消えかかっているようです。


「ちょうどよい。百聞は一見にかずと言う。娘よ、あの哀れな老人についていってみなさい。そうすればきっと分かるだろう。」


 赤猪子は言いました。


「いいのでしょうか。勝手に動けば、ここの建物の方々に迷惑をかけてしまう。」

「なに大丈夫だ。この赤猪子が責任をもって、ここの神々に事情を説明しておく。ゆえに、いちど行ってみなさい。元の世界に帰るきっかけも掴めるかもしれない。」

「ついて行けば、元の世界に戻れるのですか?」

「分からぬ。きっかけは掴めるかもしれないというだけだ。しかしおまえが自らの力を信じ、正しい努力を行えば、きっと何か分かるだろう。」


 赤猪子は柔らかい笑みを浮かべます。


「おまえが自分の色と輪郭を失わなければ、きっと道は拓けよう。ほら早くしないと、あの哀れな老人が先にいってしまうぞ。」

「はい、分かりました。では言われた通り、行って参ります。」

「うむ。健闘を祈っている。」

「はい、ありがとうございます!」


 そうしてわたしは赤猪子の言う通り、猫背の老人に続いて四番のお部屋に付いていくのでした。大広間から狭い通路に入ると、そこには個室への入り口がずらりと並んでおりました。その白い内装も相まって、まるで病院のようです。老人の後ろをしばらくつけても、彼は一切気づく気配がありません。亡霊そのものの足取りで老人は四番の部屋の扉をがらっと引き、閉めることもせず中に入っていかれます。私もそのまま中に入り、老人の後ろに立っていました。部屋に立ち入った老人の目の前には、なんとも美しい女性がおられました。緑の宝石を耳飾りにつけており、服装は先程の赤猪子と同じく、白いワンピースのような貫頭衣に紫の紐を腰に巻いておられます。黒髪を後ろで束にして、その大きく丸い瞳で、老人をじっと見つめておりました。


「そこに座ってください。」


 女性が言って、老人は椅子に座りました。すると、老人は先程までの気の抜けた態度がまるで嘘のように、女性に向かって口々に言葉を発します。


「神さま、全身が痛いんだ。身体は何にも治りやしないのさ。お願いだから治してくれ。まだ死にたくないんだよ!」

「とりあえず、落ち着いてください。」


 このような相手には慣れているのか、女性はさぞ落ち着いて様子で老人に取り掛かります。


「どこが痛いのですか?」

「肝臓がんなんだ。医者には、もう残された時間も少ないと言われた。でも俺はまだ死にたくない。あんた神さまだろう? 神さまだったら、俺のがんを治すことくらい、たやすいものだろう。お願いだから、治してくれ。ほら俺はこんなにも祈りを捧げているじゃないか。俺の病気を治すことくらい、してくれてもよいではないか。ほら早く治すんだ。お願いだ、頼む!」


 老人の輪郭がいっそうぼやけていきます。その色も、もはや灰色のヘドロのような体色に変わってゆきます。まるで眼だけが白く塗られた粘土細工のように、老人は変わり果てていきます。しかしその口が静まることはありません。老人は口々に、女性に向かって助けてくれと懇願しています。女性はただ、黙って老人をじっと見つめます。そして言い放ちます。


「あなたは、どうしてがんになってしまわれたのでしょうか。」


 老人は答えます。


「分からない。酒は飲みすぎた。しかしがんになってしまうなんて、想いもよらなんだ。きっと不幸だったんだ俺は。そうさ、ただ運が悪かったんだよ。」

「そうですか……」


 はあと、彼女がひとつ溜息をついた。


「いいでしょう。ではひとつ、儀式をしましょう。誓約うけいという、古来の神々の儀式です。どうでしょうか。わたしが今から、この耳飾りの翡翠ひすい石をかみ砕き、あなたの口に接吻してさしあげます。もしあなたの心が綺麗ならば、きっと病気は治りましょう。しかしあなたの心がけがれていれば、あなたの病気は治りません。よろしいでしょうか。」


 老人は臆するように答えます。


「もし失敗しても、俺の身体には何もないんだな?」

「ええ、あなたの病気が治らないだけです。もし心が綺麗なら、きれいさっぱり治るでしょう。」

「そ、それは虫の良い話だな。」

「かもしれませんね。」

「ああそうだな。ぜひそうしよう。早くやってくれ!」


 この女は嘘をついていると、私の直感が言いました。おそらく、儀式が失敗すれば、この老人はきっとどうにかなってしまうでしょう。女は顔色ひとつ変えずに、耳飾りを外すと、その翡翠ひすい石を口に入れてぼりぼりと嚙み砕きます。蛇のように鋭い目で老人を見つめながら、ぼりぼり、ぼりぼりと、音を立てて口を動かしておられます。そして老人の方に近づくと、口移しに灰色の老人に接吻します。そして、その石を老人に飲ませてやりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る