ホノコのまよい家

森野フミヤ

第1話 まよい家

 わたしは白い建物に入りました。巨大な木造建築の扉が、きいいと音を立てて開きます。建物に入ると、半透明の人々がたくさんおられました。白髪の、老年の男女が多いのですが、皆まるで虚空を見つめるように、ぼうっとたたずんでおられます。まるで水の中に絵の具を溶かしたかのような、ぼやけた輪郭と肌の色をしています。その者たちは建物の広間に並べられたベンチに、等間隔に並んでおられました。そして一言の喋らず、動かず、じっと座っておられました。


 わたしはきっと、たいへんな場所に迷い込んでしまいました。


 恐る恐る足を進めると、ひとつの物体が私に話しかけてきました。赤いイノシシの顔をしたニンゲンでした。不気味な生命体だなと思います。白くゆとりのあるワンピースのようなもので全身を覆い、腰には紫の紐を巻いて恰幅かっぷくよく腹を膨らませております。それはまるで神話に出てくる神々のような出で立ちです。この者はほかの人々とは違い、輪郭と色がはっきりとしており、生き生きとしておられます。表情も豊かで、微細な筋肉の動きが、はっきりとわたしの目に映ります。


「やい、おまえやおまえ。」


 赤猪はわたしに勢いよく話しかけてこられます。迫りくる巨体は、私の身体を二倍ほど大きくしたみたいでした。思わず怖くなって、身がすくんでしまいましたが、赤猪は穏やかな表情で、わたしの話しかけます。


「おまえ、見ない顔だな。」


 赤猪は言いました。


「おまえのような若く美しいニンゲンの娘が、どうしてここに迷い込むことがあろうか。」

「さ、さあ。私にもよく分かりません。」

「ははは、まあよいのだ。それよりも美しき若い娘、どうだ、この赤猪子あかいこの妻にでもなる気はないか。」

「いいえ、それは結構です。」

「ニンゲンであるとて無下むげには扱わぬが、嫌か。」

「はい。」


 きっぱりと言いました。


「ははは、それは残念。」


 赤猪子あかいこは言うと、早く立ち去った方がよいぞと一言添えました。しかし、ここから立ち去る方法など、わたしには分かりません。このイノシシニンゲンを頼るしか、もはや方法は残されていないようにも思えます。周囲には沢山の、半透明のニンゲンたちがいます。しかしこのイノシシニンゲンのほうが、どうしてか信用できます。


「あの、イノシシさま。」

「おう?」


 わたしは勇気をもって赤猪子に話しかけました。


「わたしはどのようにここに来たのか分かりません。ゆえに、ここからどのように帰ればよいのかも分かりません。いったい、どうすればよいのでしょうか。」

「困ったことだな。」


 赤猪子は首をかしげ、じっと何かを考えます。そして、このように言葉を発せられました。


「ここは神々の住まうやしろであり、わたしはその門番をしている。周囲を見渡してみれば分かるだろうが、ここに集うのは、おまえと同じニンゲンどもだ。見てみなさい、色も輪郭も失って、生きることも死ぬこともやめてしまった哀れでみにくいニンゲンどもが、ここには数多くいるのだ。」

「哀れで醜いニンゲン……ですか。」

「そうだ。神々におんぶにだっこで、自らの手で世界を動かすことのできない、哀れな者どもである。そういう自分のことしか考えないニンゲンたちだ。」

「しかし、彼らだって生きております。」

「ははは、やつらは生きることをやめた。しかし死ぬことも怖いのだ。だから神に、仏に助けを求めるのだ。どうか自分たちを救ってくれと。なんと自分勝手は言い分か。」

「ニンゲンなんて、そんなものでしょう?」

「ははは、確かにそうかもしれないな。所詮人間なんて言うのは、自分で運命を動かすことのできない、ただ流されるままに生きるだけの、哀れな生き物なのかもしれないな。」

「ひどい、見損ないますよ!」


 私が語気を強めた時でした。美しい女性の声と共に、まるで館内アナウンスのように響き渡る声がありました。


「ピンポンパンポーン。三十五番の方、四番のお部屋へどうぞ!」

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