雪解けの魔法
青居月祈
『葉桜と魔笛』
1
「あー……」
「あ」
今、自分がいるのは、中学の図書室だ。
そしてその図書室の一番奥のテーブルで、大口を開けて桜餅を頬張ろうとしている人物に、思わず声が出た。
「あらやだ、
「魔女先生こそ、なにやってんすか」
なにやってるって聞いたが、桜餅を食べようとしているのは見てわかった。大口を開けているところを見られたせいか、魔女先生は頬を少し赤くしてむっと唇を尖らせる。けれどすぐに桜餅を、あむっ、と頬張った。
この中学の文芸部は少し変わっている。
まず、顧問の先生がこのお菓子大好きな
魔女先生の特等席は、窓辺に置かれたロッキングチェア。初代文芸部部長が持ち込んできたという。先月卒業していった三代目部長の指定席でもあった。
「春は桜餅と緑茶が合うわ~ この緑茶もね、桜の葉っぱがブレンドされた桜ヴェールっていうのよ。それを桜を見ながら食べる……なんて風流なのかしら」
「食べる場所も自重してください。ここ図書室なんですから、本来は飲食禁止のはずなんです。しかもここ学校、アンタは先生」
「あ、春澤くんも食べる?
「あるのならいただきます」
カップの隣に置かれた文庫本が、開かれた状態になっているのが目についた。
「先生、今日なに読んでるんすか?」
一応文芸部の顧問で、図書室管理も任されている魔女先生だが、本の扱いは以外と雑だ。あんな置き方をして変な開き癖がつかないのだろうかと、毎度ひやひやさせられる。
「『葉桜と魔笛』よ。知ってる?」
「誰の作品?」
「太宰治よ」
タイトルと作者だけは聞いたことがある。現代国語の授業で、有名な文豪として教わったくらいだ。
「春澤くんは、太宰は読んだことある?」
「いえ。『人間失格』くらいしか読んだことないです」
「読むの辛くなかった? こう、鬱な気分になったとか、人間不信になったとか」
「いや、そこまでは……なんか、アレを読んでると飲まれそうになるんですよね。自分自身を見ているような、自分の内面を覗かれているような、変な気分になるんです」
『人間失格』は読んだことはある。けれども半分で挫折した。陰鬱な題名に興味を惹かれただけだったけれど、読んでいくうちにだんだんと、修司本人を見ているように感じてきたのだ。
ぐるぐると巡る文章を追いかけて、危うく本に飲み込まれそうな感覚になって、読むのをやめた。
「あら春澤くん、珍しいのね」
「珍しい?」
「太宰の作品は好き嫌いがはっきり分かれるの。太宰が好きって言っている人たちは、さっき春澤くんも言ってたみたいに、内面に共感してしまうの」
カップに注いだ緑茶を神妙な顔で啜る。たまに見せる少し憂いを感じる表情は、異国の魔女みたいに見えた。
「でもね、」
急にくるんと修司を振り返ると、頬を真っ赤に染めて、まるで恋する乙女みたいに両手で頬を押さえた。
「『葉桜と魔笛』は是非読んでみて! これに出てくる姉妹がめちゃくちゃ可愛いんだから、きゅんきゅんするんだから!」
あ、そうだった。この人、少女漫画も大好きな脳内お花畑だった。
古文と現代文の両方を受け持っている魔女先生の授業は、結構わかりやすい。現代人でも理解できるようにストーリーに置き換えてくれるからだ。
けれど難点は、古文やら近現代やらの作品を、少女漫画風の展開に解釈してしまうところと、魔女先生がそれを熱く語ってしまうところだ。
確かに、それらの時代は私小説や恋愛沙汰のものが多い。その一つ一つにクローズアップするものだから、話を聞くにはおもしろいが、授業の進みが遅いことで有名だった。
魔女先生の語りが佳境を迎えようとしたところで、遅れてきた部員たちがぞろぞろとやってきた。
「あ、魔女先生いいもの食べてる!」
「あ~ いいな~ わたしもわたしも~」
「みんなの分もあるから、どうぞ~」
文芸部は、三年が二人、二年が三人、一年は残念ながらゼロ人の、いわゆる弱小部。現状は五人だけの静かな部活だ。以前はもう少し部員がいたらしいけれど、二年生になる修司はその辺りの話を聞いたことがなかった。
「修司くん、桜餅食べないの?」
部長の
「食べます」
大きくて真っ赤な苺がまるっと入った桜餅は、餅米で餡子を包んだ関西風。餅米のほんのりした甘みと、餡子のむにっとした甘みと、苺のみずみずしい甘みが交互に重なって、思わず頬が緩むくらいに美味しかった。
「修司くんいい顔で食べるね」
もう一人の先輩、
「美味いものは、美味い顔で食べないと、食べ物にも作った人にも失礼ですから」
手についた餅米の粒を舐め取る。
「叶夜さん、ほんと作るの上手ですね。ほぼプロじゃないですか」
「今日は『葉桜と魔笛』の気分なの、って言ったら作ってくれたの~ さすが私の弟、最高の魔法使いよ」
「……よくそれで作ってくれましたね」
さすが、魔女の弟。
話に聞くところ、弟の
「『葉桜と魔笛』って、あれですよね。自作自演の手紙のヤツ」
「そうなの。年老いた女性が、昔を思い返す語り口でね、短編だし、あなたたちでも結構読みやすいと思うわ。この作品を読むとね、手紙を書きたくなってくるの。主人公の女性が、ある日箪笥の引き出しから、リボンで束ねたたっぷりの手紙を見つけるの。それは妹が男性と秘密裏にやりとりしていた手紙なんだけど……リボンで束ねた手紙なんて、すっごく可愛らしいじゃない? 誰にも知られることのない秘密のお手紙なんて、すっごく憧れちゃうわ!」
SNSが普及したこの時代に手紙だなんて、と修司は思う。連絡先もスマートフォンに入れてしまえば簡単にメールを送れる。なんならすぐに電話もできる。最近では連絡アプリで、いつメッセージを読んだかもわかるらしい。手紙を書く、という行為自体がめんどくさくなってきている。
「みんなは手紙を書いたことある?」
「小さい頃になら、ですけど」
書いたというより、貰ったの方が正しい。
幼稚園の時、三年間同じ組になった女の子から、好きです、と小さく書かれた折り紙。小学校が離れたせいで付き合うもなにも、会うことすら減って、なかったことにしたのを思い出した。
「便箋を揃えて、ペンを取って、相手のことを考えて、その人のことだけ想って、文字を連ねていくの。それだけでもうどきどきしちゃわない? メールやSNSが主流の今、みんなもぜひ手紙を書いてみて。めんどくさいかもしれないけれど、それだけの時間を費やせる相手がいるって、素敵だと思わない?」
ロッキングチェアの肘掛けに肘をついて、ゆらゆらと揺れながら魔女先生はうっとりとした表情で語る。
「手紙はね、言葉を唯一形にして相手に届けることができる特別なものなの」
魔女先生の言葉を聞いていると、『葉桜と魔笛』も読んでみたくなってくる。これが、文芸部で魔女先生が魔女と呼ばれる所以だ。紹介された作品を読みたくなってくるし、同時に創作意欲も湧いてくる。
「先生、その『葉桜と魔笛』、あとで借りてもいいっすか?」
「あ、春澤くん読んでみる気になった?」
「最初から読んでみる気でした」
つん、とそっぽを向く。
桜と苺の匂いが、鼻を抜けていった。
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