交渉

 非常階段を1階まで下りて、扉を開ける。

 1階に出ると、そこはエントランスだった。


 横を見れば、エレベーターが並んでいて、斜め向かいには憩いのスペースがある。椅子の置かれているスペースの隣には、仕切りのガラス窓。

 その奥には、食堂があった。


 慎重に角を曲がって、フロントが見える位置にまでくると、自動ドアの前に見覚えのある後ろ姿が見えた。


「あ、母さん」


 カナエさんがしゃがみ込んでいた。

 カナエさんの前には、小さな男の子がいて、何やら話しているようだ。


 声を掛けようとしたが、サオリさんに腕を引かれる。

 振り向くと、黙って首を横に振った。


「ぼくも遊びたい」

「だ~め」

「なんでっ!」

「怖い人達がいっぱいいるもの。ぼくはお母さんの所に帰らなきゃ。きっと心配してるよ?」


 保母さんみたいに優しい口調で説得していた。

 両手を握って、小さく上下し、カナエさんは子供の目線で話し続ける。


「お願い。言う事聞いて? ね?」

「むぅ!」

「あ、怒っちゃや~だ」


 頬をぷにぷにと指で捏ねられると、男の子は後ろを向いてカナエさんから離れる。


「ばかっ!」

「は~い。危ないから、来ないでね」

「むぅ!」


 自動ドアに向かって走っていく。

 そのままドアガラスに全身をぶつけ、男の子はスルリと向こう側にすり抜けていった。

 男の子は何度も振り返るが、カナエさんは手を振っているだけ。


 やがて、男の子の姿は外の暗闇に消えてしまい、見えなくなった。


「ふぅ~……。男の子って、やんちゃねぇ」

「説得ご苦労様」

「あら。無事だったのね」


 肩を揉み、疲れたようにため息を吐く。

 カナエさんが立ちあがると、肩に掛けている黒い板が付属の鈴を鳴らす。


「あの、今の子って……」

「うん。面白半分で中に入って来ちゃったみたい。廊下でウロウロしてたんだもの。やっぱり、子供がいる身としては、放っておけないわよぉ」

「幽霊、ですか?」

「ええ」


 サオリさん、話していたっけ。

 カナエさんが交渉をする。他にも大人たちが出張って、死者や怪異と話をするんだろうけど。今のが、まさしく説得していた光景だったのだろう。


 相手に暴言を吐かれても、ニコニコとしたまま話を続けていた。

 そういう姿を見ると、どことなく粘り強さみたいなものを感じてしまう。


 サオリさんには悪いけど、短気な人に交渉や説得は向かない。

 相手が言う通りにしてくれないのは、話しかける前から分かっていることだ。百も承知で交渉するのだから、祓除とはまた違う苦労が垣間見えた。


「ココアは?」

「さあ。どこに行っちゃったのかしら」


 心配する素振りは見せなかった。


「きっと大丈夫よ。私と違って、声を掛けたりしないでしょ。サオリもココアも」

「……声掛ける必要なんてない、って思ってるけどね。ま、交渉で済んでくれるなら、全部母さんに任せてもいいけど」


 ぶっきらぼうに言うサオリさん。

 何だか、六条家の姉妹と母が何を得意とするのか。祓除の際の役割が、以前よりも目に浮かんできてしまった。


 カナエさんの話を聞いてくれなかったら、姉妹が出てくるのだ。

 本家大元の場所にいた頃は、もっと怖い大人たちが控えていただろう。


 てことは、カナエさんのやっている交渉って、無闇に祓除をさせないためにも、言葉の分かる死者にとっては、本当に重要な事だ。


「母さんはここから動かないで」

「あら。仲間外れ?」

「違う。今、非常階段からきたけど。話の通用しない相手がいた」


 カナエさんが不安げに眉を八の字にした。


「……平気?」

「ココアがいればね。あとさ。お酒ってない? そこ食堂でしょ。どうせ、誰も正気じゃないんだし、一つ貰っても……」

「サオリ。万引きなんてやめて頂戴。あなたが中学生の頃、どんなに周りから――」

「わたしが悪くないってば! 周りの馬鹿が勘違いしてるだけでしょ!」


 サオリさんって、もしかして祓除にかな。

 そう考えると、昔――たぶん中学時代は無茶をしたんだろう。

 その結果、いられなくなって、こっちに越してきたとか。


 ボクは六条家の人たちを知れば知るほど、どういう人間が自分の傍にいるのか把握できて、心に張り詰めていたものが緩んでいく。


「ココアを連れてきて。ここを出ましょう」

「……絶対、易々と出してくれないけどね」


 ぶつくさと言って、サオリさんがボクの手を引く。


「あら。サオリったら」

「なに?」

「ううん。……これは、もっと酷いことが起きちゃうな、って」

「は? なに? 何なの?」


 カナエさんは口元に手を当て、微笑ましそうに笑った。


「嫉妬って怖いわよぉ」

「はいはい。ていうか、厨房覗いてくる」


 親の制止を無視して、サオリさんは食堂に続くドアを開ける。

 ドアの施錠はしておらず、すんなりと中に入れた。


「サオリ」


 声に振り向くと、カナエさんが黒い板をポンポンと叩いている。


「そこにね。ね。お酒借りるなら、持ち運べるようにした方がいいわよ」


 その瞬間、エントランスの明かりが消えて、カナエさんの姿が見えなくなった。

 いや、違う。


「ガラスが……」


 ドアが独りでに閉まり、透き通っていたガラスが真っ黒に変色したのだ。異変を感じたサオリさんが手を引っ張り、厨房のある場所へ歩いていく。


 厨房に近づけば近づくほど、周囲の椅子やテーブルは、ガタガタと大きく揺れ出す。天井に下げられた照明は横に揺れ、悲鳴のようなものが四方八方から聞こえる。


「サオリさん!」

「囲まれたぁ……」


 苦い顔で呟くのだった。

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