怪物
来た道を戻り、非常階段に向かったボク達。
恐る恐る扉を開けると、そこには上と下に続く折り返し階段。
「ふぅ……。なんか、寒くないですか?」
ボクが声を出した途端、指が口元に当てられた。
「覚えておいた方がいいよ。寒いってのは……」
扉を足で閉めて、サオリさんがボクに抱き着いてくる。
後ろから抱き着いてきたかと思いきや、そのまま踊り場の壁に寄り、ジッとする。
「磁場が狂ってる証拠」
「マズいんですか?」
「というより、怪異の数が多いか。とびっきり厄介なのがいるか」
サオリさんの手が、ボクの口と鼻を塞ぐ。
白い吐息と共に、耳元で囁かれた。
「……静かに。細く。息をして」
黙って頷く。
サオリさんはボクの頭に口元をつけて、小さく息をする。
何か、ヤバいのが来るのかな。と、怖くなった。
ボク達がジッとして、数秒が経過。
息を細くすると、何かが聞こえた。
「ンー、ンー」
何だ?
声だろうか。
状況に似つかわしくない声が聞こえてくる。
まるで、誰かが悪ふざけでもして、口を閉じたまま声を発しているような、変な声だ。
どこから聞こえるんだろう。
「ンー。ンー。……フゥ。フゥ。ンー。ンー」
目だけを動かし、辺りを見渡す。
非常階段は踊り場の非常灯が点いているだけ。
他は闇が支配している。
でも、非常灯の明かりは思いのほか明るいので、周囲の輪郭は見えるのだ。
「ンー。ンー」
声を辿ると、ボクの目はすぐ隣に留まった。
階段の踊り場。――隅っこの薄い暗闇。
「ンー。フフ。ンー。ンー」
ペタ。ペタ。と、何かが壁から現れた。
スキンヘッドで、ガリガリの人間だ。
上半身裸なので、体型からすぐに男だと分かった。
そいつは、目元を腕で隠し、片手には何かを持っていた。
「ンー、ぶぁ。フゥ。フゥ。ンー。ンー」
開いた口からは、何かが飛び出ている。
目を凝らすと、それは千切れた舌である事が分かった。
半端に千切れた舌が、プラプラと揺れている。
片手には老人が突くような杖を持ち、目を隠しながら、辺りをキョロキョロしていた。
サオリさんがボクを抱きしめている理由が分かった。
口を塞いだ理由が分かった。
こんなもの見たら、発狂するに決まっている。
ガン。ガン。と、非常用のドアを杖で叩き、息を止めている。
――音を探してるんだ。
何となく、行動から察しがついた。
「ンー。ぶぁ、ハァ。フゥ」
ボクの目の前で、そいつはずっと周りをキョロキョロしていた。
こっちを振り向いた際、鼻が削り取られ、潰れているのが見える。
でも、薄暗いから断面はハッキリと見えない。
「っ」
声を殺した。
杖がこっちに向けられ、振り子のように振られる。
コン。コン。
杖はボクの股間と腹を突いた。
ボクの前には、サオリさんの持っている脇差がある。
音が鳴らないように、サオリさんは鍔に指を掛け、ぐっと握りしめていた。
「ンぁ?」
早く、どっか行け……。
心の奥底で、ボクは念じた。
今までの怪異は、確かに人間的だ。
言葉が通じる。感情がある。
でも、こいつはどうだ。
完全に異形じゃないか。
杖はボクの真横に伸び、また振り子のように突いてくる。
「ッッ」
コッ――。
コン。
ボクの前から、水平に脇差を伸ばし、サオリさんが杖に当てる。
一瞬、理解が遅れた。が、首を傾げる異形を見て、ある事が頭に浮かぶ。
――距離を測ってるんだ。
――壁が、近い事に勘づいてる。
閉じた口の中で奥歯が震えるほどに寒い。
なのに、額や首筋にはダラダラと冷や汗が流れていく。
ボクは初めて、死というものを見た。
怪異を自分の目で見て、肌で危険を感じている。
唾を飲んだら、音でバレるんじゃないか。
口の中に唾液を溜めっぱなしで、肩には力が入った。
「……ンー。ン」
ペタ。ペタ。と、そいつは向きを変えて、階段を下りていく。
距離は離れたが、ボクは油断をしない。
サオリさんが、まだ手を離してくれないからだ。
「ンー。ンー。ンー」
壁の向こうには、見えない通路があるかのように。
異形の姿がコンクリートの壁に埋まっていく。
姿が消えてから、少し経つと、夏特有のむわっとした空気が戻ってきた。
「んぶぁはぁ……」
「ふぅぅ……。間一髪」
サオリさんに寄りかかり、声のトーンを落として話しかける。
「何ですか。あいつ」
「説明がムズいけど。分かりやすく言うなら、怪物。もう、人間の情緒も。思考も残ってない。怪物なのよ。呪いの塊だからさ。わたしは、まあ、なんとか逃げれるけど……」
ボクは絶対に殺される。
そう言いたいのだ。
「やり合うなら、絶対にココアと合流しないと……。あいつの式神が欲しい。呪いの力も」
対抗するには、足りないってわけだ。
御堂の呪術で引き寄せられたのだろうか。
まさか、あんな見るからに厄介な相手までいるなんて、思いも寄らなかった。
「慎重に下りよう」
「はい……」
ボクらは自然と手を繋ぎ、足音を殺して階下に向かった。
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