5.
「じゃ、行きますよ。
せーのっ」
中世ヨーロッパの大きな宗教画がショーケースから丁寧に取り外され、梱包材のしきつめられた木枠にそっと納められた。
渋谷区にあるアートギャラリーの企画展示として、資産家 兼持杉男 のコレクションが期間限定で公開されていた。《豊穣の九月》はその中の1点である。
最終日となる本日 10月31日は 16時半に閉館。そして全ての展示物を搬出する作業が行われている。
《豊穣の九月》はまだガラスのショーケースの中だ。
セキュリティーを解除し、搬出用のアタッシュケースに収めるまでが最も危険な瞬間であり、それを狙う怪盗にとっては最大のチャンスなのである。
そのチャンスは搬出作業のどのタイミングで訪れるかはわからない。
高校生活を送るアミが放課後イケメン男子の告白を受けるためには、その最大のチャンスを見送らざるを得ないのだ。
搬出作業中のギャラリーは多くの関係者がそれぞれの仕事を行っている。美術品の運搬業者、ギャラリーのスタッフ、 兼持杉男コレクションの管理者、
そして警備会社の人間と警察である。
多くの人間がいるほど 違う目的をもった者が紛れ込みやすい。怪盗からの予告状が届いたとなれば警備と警察の人間が増える。そういう狙いがあるのだ。
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「作業中すいません!
今から《豊穣の九月》の搬出作業を行います!」
大声で注目を集めたのは 怪盗マウスボーイ対策本部の長 木屋戸警部だ。
「本日「想定外の事象」が発生する恐れがありますので、
みなさんその場を動かないでください」
余計な人間はお宝に近づくなということだ。
このとき警備会社のスタッフAと搬送業者のスタッフBがチラリと目線で合図を送った。
警備会社のAは兄のヒトシが変装した本来いないはずの人間である。
同じく搬送業者Bは長女のルミが男性に変装している。
A、Bを含めた館内の全員が作業の手を止め《豊穣の九月》の行方を見守っている。
「ガチャ…」
セキュリティが解除され、《豊穣の九月》を収めたガラスのショーケースの扉が開かれた。
そして白い手袋をはめた 兼持杉男スタッフがおごそかにブローチを取り出して搬送用のアタッシュケースに置いた。その瞬間、
「フッ」
館内の全ての灯りが消えた。ギャラリーに窓はなく、非常灯も避難誘導の灯りも何もない真の暗闇である。
当然こんな事態は警察にとっても想定内だ。
木屋戸警部と部下の加藤を含む4人の警察関係者はあらかじめ懐中電灯の用意をしていた。一斉にアタッシュケースに光が集まる。
そのときコロコロと何かが地面を転がってアタッシュケースが置かれた台車にコツンと当たった。
「ピカッ!!」
まばゆいフラッシュが全員の網膜を貫く。
やがて緑一色の視界がうすらいだ頃には、空っぽのアタッシュケースが懐中電灯の光に照らされていた。
「くそっ!!!」
木屋戸が歯ぎしりをしながら懐中電灯でそこら中を照らしたところで、怪しいものは何も映らない。
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「みなさん、その場を動かないで!
《豊穣の九月》が奪われました!!
おそらく この中のどなたかがお持ちだと思われますが、、、」
もちろん、はい私ですという者があるハズもなく、
懐中電灯がまぶしそうな顔をただ照らすだけである。
「おい、加藤、」
「はい」
木屋戸がアゴで合図をすると、部下の加藤は懐中電灯の明かりを頼りにギャラリーの出入口の扉を開けて暗闇の廊下へと出ていった。
「申し訳ありませんが、今から持ち物の検査をさせていただきます。
係員がひとりずつ確認に行きますので、まだその場を動かないでください」
マウスボーイの二人にとっては予想通りの展開であった。
《豊穣の九月》は小さなブローチなのだ。身体検査のあいだ別のところに隠し、後でこっそり回収するのがセオリーである。
「ガチャっ」
先ほど加藤が出ていった扉が開き、入って来たのは見慣れない機械とそれを押す加藤であった。
コンビニのATMくらいの不細工なハコが足元を懐中電灯で照らされながら数メートル進んだところで、少しだけ向きを変えた。
正面には液晶画面とその下に手を置く出っ張り。そしてハコの上部には旭日章がキラリと光っていた。
「こちらのロボットですが、」
木屋戸が近づいて、そのハコの頭のあたりをバチンと叩いた。
「『検査クン』と言いまして、
身体検査のために開発された機械です。
そして、」
木屋戸が『検査クン』の液晶画面をコツンと叩いて説明を続けた。
「個人の確認も行います。
カメラで顔を撮って、あと指紋も、、
まあ空港のセキュリティでこういうの見たことある方もおられると思いますが、ああいうものですな」
さらに加藤に何やら耳打ちをされて、木屋戸は説明を付け足した。
「あ、カメラは過去の犯罪歴とかを確認するものでして、
まあここにおられる方は問題ないと思いますが、、、
もちろん個人情報は記録に残さないようになっています」
「はっ!」
警備員Aつまり怪盗ヒトシは目を丸くした。
『検査クン』は以前ネットのニュース記事で見たことがある。
顔写真や指紋だけでなく、高性能なカメラで網膜パターンまで記録できるというのだ。変装で顔を変えたところで意味がない。
木屋戸は個人情報は記録に残さないと言ったが、賢い市民はそれを鵜呑みにしない。
つまり怪盗マウスボーイの正体を完全につかまれてしまう絶体絶命のピンチなのだ。
ブローチを隠して身体検査を切り抜けて、、、
という計画はもはや崩れてしまった。あとは緊急脱出しかない。
しかしギャラリーの出入口付近にはあの『検査クン』と木屋戸警部、そして部下の加藤がいるのだ。そこを突破するのは難しい。
身体検査で『検査クン』のところに呼ばれたときがチャンスだろうか?
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ヒトシとルミが脱出のタイミングをうかがっていると、出入口の扉がバタンと勢いよく開いた。
「どこだぁっ!? 怪盗マウスボーイ~!!」
大声を張り上げて入って来た男は警察の制服の上からロープをぐるぐる巻きにされていて、右手だけが自由になっていた。
その右手で口元を塞いでいた布をぐいっとはずすと、現れたのは木屋戸警部の顔だ。
「はあっ!?」
『検査クン』をはさんでにらみ合う木屋戸と木屋戸。
次の瞬間ぐるぐる巻きの木屋戸が先にいた木屋戸のふところにもぐりこみ、右手と左肩を使って彼をギャラリーの真ん中へと放り投げた。
「ドサっ!」
懐中電灯の光が一斉に横たわる木屋戸に集まる。
「取り押さえろっ!!」
ロープの木屋戸が叫ぶが、他の警察官はまだ状況が飲み込めずピクリとも動かない。
「ばっ!」
最初に床の木屋戸に覆いかぶさったのは警備員A、つまりヒトシだ。
それを見た他の警備員と警察官が躊躇しながらも駆け寄る。
「もうひとりは外だ!
加藤!!」
そう叫ぶとロープの木屋戸は加藤の懐中電灯を奪って廊下を駆け出していった。
茫然とする加藤の肩を叩いたのは警備員のひとりだ。
「行きましょう!!」
警備員の装備にも懐中電灯はある。その灯りを頼りに加藤と警備員は真っ暗な階段を駆け下りて行った。
もちろんその警備員はヒトシである。
「バカ野郎っ!!
アイツが犯人に決まってるだろっ!」
残された木屋戸の絶叫の中、運搬作業員Bはそっと暗闇の中へと消えていった。
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