第2話 無かったことには……なりませんでした


 家に帰り着くなり、着替えを片手に雪乃はシャワーを浴びた。

 例えイケメンだとしても、赤の他人に触られた可能性があるのだから泣きそうな気分だった。

 一夜限りなんて考えは、これまで一度も想像したことがない。

 言ってしまえば、きちんとしたお付き合いと言える付き合いすらした事がないから、その先なんてものには縁が無かった。

 そうしてずるずる年齢を重ねていき、雪乃の年齢は現在二十八歳だ。

 周りも結婚しだし、結婚していない友人達も結婚を意識しはじめた。だが、雪乃は結婚したいと思ったことも無いし、この先結婚出来るとも思っていない。

 そもそも、結婚するには相手が必要だ。

 これまで交際した相手はいない。現在も好きな相手はおろか、男性と接する機会もない。

 雪乃は大人の女性向けの作家であり、自宅で作業をしていて基本は担当とパソコンでやり取りをしており、たまに会ったとしても担当は女性である。可愛らしい彼女──東金朱音とうがねあかねの上司は男性だが、そう頻繁に顔を合わせる訳ではない。

 それが人と関わることが嫌いな雪乃が、どうにか対応できる人数のぎりぎりだ。

 その中に、幼稚園からの腐れ縁であり、隣に住んでいた同い年の卓馬は他人には含まれておらず、彼は異性ではなく家族というカテゴリーに位置する。

 短い黒髪と明るい茶色の瞳をした卓馬は、背が高い上に体を鍛えており野性的な印象で、近寄りがたいのに怖いもの見たさで近寄りたくなるような魅力がある。

 なにより、彼は一度自分の懐に入れた相手を男女問わず大切に守る包容力を兼ね備えているのだ。

 そのため、別れた女性たちが卓馬を悪く言う事はなく、男女の関係から友達に戻った後でもバーに足を運ぶ元カノも少なくない。

 ただし、親しくしている雪乃の悪口なり、邪魔者扱いした女性たちはもれなく卓馬に絶縁宣言され、友達にすら戻れなくなった。

 卓馬の中でも、雪乃は男女の枠を越えた特別な位置を占めているのだろう。

 中にはおかしいだとか、付き合えばいいのにと冷やかされる時も学生時代には多かった。けれど、卓馬と恋愛感情を持って付き合うと考えた時、雪乃は首を傾げた。

 想像がつかなかったのだ。

 卓馬と手をつなぎ、キスをして愛を囁き合う。そして、セックスをすると考えた時に、違うと思った。

 気持ちが悪いとか嫌だからという訳ではない。彼とセックスするという想像が何一つ出来なかった。

 雪乃にとって卓馬は家族であり、友人であり、まるで兄妹のような永遠に変わることのない絆を感じている。

 それだけに、今回の事件はショックだったのかもしれない。

 酔って思考回路がぐちゃぐちゃの自分が、誰かに連れていかれるのを黙認したのかと思うと……。

 全身を洗い流した雪乃は、手早く体を拭いて服を身につけると、スマートフォンを手に取った。

 画面をタップして、電話をかけた相手はもちろん──。

 

「もしもし、雪?」


 二コール目で出た相手の声は、どこか掠れていて眠そうだ。

 明らかに寝起きという相手の様子に、雪乃は苛立った。


「もしもし、雪? じゃないわよ、卓馬!」


「なんだよ……こんな朝早くから」


 電話口で怒鳴ると、声が遠くなって電話を耳から離したのが分かった。


「他に何か言うことはないの?」


「はぁ? 言う事ってなんだよ」


 ぶつぶつ言いながらも体を起こしたのか、衣擦れの音が電話越しでもよく聞こえる。


「昨日はよくも見ず知らずの男に売ってくれたわね」


 スリッパが床を擦る音が電話口でも聞こえるようになった頃、雪乃は唸るように言った。

 だが、呑気な卓馬は何か機械をいじっているような音を立てている。

 朝に弱くてコーヒーを飲まないと使い物にならない彼のことだから、立派なコーヒーメーカーで豆から極上の一杯をいれているのだろう。


「何の話だ? 話がよく見えないんだが」


「昨日、あんたの店に行って愚痴ったでしょ? そのあと、どうなった?」


「確かに愚痴りに来たけどよ……お前、いつの間にか帰ってただろ。泊めてやろうとしたのに」


「私、自分で帰ったの?」


 まったく記憶にない。泥酔の末のお持ち帰りじゃないってこと?

 想像もしなかった事実に、衝撃を受けていると卓馬の声が低くなった。


「まさか……何かトラブルにでも巻き込まれたのか? 男関係か?」


「ち、違う。そんな訳無いでしょ」


「本当か? 嘘はつくなよ」


「分かってる。ほんと、何でもないから」


 何かあっても誰にも相談しない雪乃の性格を知っている卓馬は、いつだってエスパーかと思うほど読み取る。

 そのせいで、交際中の女性より雪乃を優先することがあり、交際のトラブルに巻き込まれる時もあった。女というのは、自分だけを見てほしいと思う生き物だから。

 

「まあいい。そういや、今日の同窓会行くだろ?」


「え? あ……うん、行くよ。今日は香穂も来るみたいだし」


「じゃあ、十五時に迎えに行ってやるから、その時にな」


 短く返事を返すと、通話は切れた。

 自分の失態の大きさに目眩が起こりそうになりながらソファーに座ると、足を引き寄せた。

 こうして安全な場所に帰ってくると、腹部と腰に潜む違和感に気がついた。なんとなく怠くて、体が休めと勧めているように感じる。

 大きめなソファーに横になり、クッションを枕に目を瞑ると、すぐに睡魔は襲ってきた。





        ★     ★     ★     ★     ★     ★             




 ベッドで寝なかったせいで、抗議の声を上げる体の痛みに目を覚ますと、窓の外からは子供の声が聞こえて来るようになった。

 体を起こして、壁掛けの時計を見れば、針は十四時四十三分を指し示している。


「やばっ!」


 洗面所に急ぎ顔を洗い、うっすらとファンデーションを塗りアイラインを引いて、マスカラをつける。

 最後に、本来の唇の色よりほんの少し明るめの口紅を塗れば、化粧は終わりだ。

 誰かに見せようだとか、綺麗に見られたいという思いがなければ、この程度で用意は終わる。

 自分の部屋に足早に戻り、黒いロングTシャツに青系のネルシャツを羽織ると濃いめの色合いのジーンズに履き替えた。

 同窓会といっても、卓馬のバーを貸しきってオードブル、スイーツを持ち寄ってするラフなもので、服も畏まったものでないものという、注意書きつきだった。

 雪乃はオードブルを用意する役目を幹事から仰せつかっているのだが──。

 残念なことに流行に疎い雪乃には、どの店のものが喜ばれるのか分からない。基本的に、有名店や日本初上陸といったような店にも行かないし、口コミで人気の店にも行かないのだ。

 そもそも、何時間も並んで食事するということが理解できない。

 人の目が気になる雪乃にとっては、外食をするだけでもかなり高いハードルだ。

 そんな訳で、何を持って行ったらいいのか卓馬に相談をしたら、彼が自分の役目と一緒に頼んでくれることになっている。

 リビングに戻って、からし色のモッズコートに袖を通してるところで、玄関チャイムが鳴らされた。

 スマートフォンと財布、鍵をコートのポケットに突っ込み、雪乃は玄関で急いでエンジニアブーツに足を滑り込ませると扉を開けた。

 

「もう出られるか?」


「うん、大丈夫。迎えに来てくれて、ありがとう」


 扉を施錠して、卓馬についていくと駐車場に彼の愛車が停まっていた。


「迎えに来る前に、オードブルとチーズの盛り合わせは店で受け取っておいた。準備組が来て、オレが店を出る頃にはほとんど集まっていたな」


「へー、じゃあ急がないとね」


 先を歩く卓馬は、助手席のドアを開けて待っている。

 このことに関して雪乃は必要ないと言いつづけているが、卓馬は『女性と一緒の時のマナーだろ』と言って譲らない。

 十回は同じやり取りを繰り返し、仕方がなく雪乃は受け入れるようになった。

 座席に座ってドアが閉められると、美味しそうな匂いに包み込まれる。

 チキンとポテトの嗅ぎ慣れた香りに思わず、うっとりとしてしまう。


「いつもの店でも買ったの?」


 卓馬が運転席に座って、シートベルトをつけるのを待ってから口にすると、彼は差も当然のように言った。


「お前は、あそこの店のが好きだろ? 大丈夫だよ。その分はオレが出した」


 彼が言う〈あそこの店〉というのは、チェーン店のチキン専門店である。

 毎年のようにクリスマスには、色々な店がチキンを全面に押しだし、さながらチキン戦争状態になるが、雪乃はぶれることなく同じ店で予約をする。

 子供の頃から親しみのある味や匂いは、どこかほっとするものがあるからかもしれない。

 

「別に、今日は必要なかったんじゃない?」


「いいや、必要だね。どうせ、有名店のオードブルが口に合わなくて、お前の食うもんがなくなるだろうからな」


「卓馬ってば、優しーい」


 少し茶化して言うものの、この優しさが時に他の女性を傷つけてきた。


『あんたって、ほんと邪魔者。優先されるべきは彼女であるわたしなのに……いつだってあんたが優先される。少しは気を利かせなさいよ! いい歳なんだから彼から離れるべきだわ』


 雪乃は、卓馬の最後の彼女を思い出していた。二年前の話だ。

 二十六歳の頃で、その彼女は卓馬との結婚を望んでいた。

 それまでも、歴代彼女たちに嫌味を言われることはあっても、特に気にしたことがなかったのに、泣きながら言われた言葉に落ち込んだ。

 居づらくなって、もともと計画していたスケジュールを速めることにした。

 都会の人間が住みづらいと思うような土地に、雪乃は小さな平屋のコテージを建てた。

 コテージの裏には森が広がり、春夏は青々とした緑が眩しく、秋には紅葉した葉が落ちて地面を彩る。冬には雪が降り、しんと静まり返って気分を落ち着けてくれる貴重な場所だ。

 一ヶ月の半分を最初は過ごし、次第に一年の半分をそこで過ごすようになった。

 卓馬には家の周りが騒がしくて、仕事に集中できないから建てたと話していたが、本当はただ逃げ出しただけ。

 けれど、雪乃の努力も虚しく卓馬は彼女との恋人関係を解消した。

 あれから二年、卓馬はフリーである。

 雪乃との関係を疑われたり、口出しされるのに疲れてしまったのだと言って。

 

「おい。またくだらない事を考えてるだろ」


 不意にかけられた言葉に、雪乃は目を向けていた窓の外を流れる景色から卓馬へと視線を移した。

 運転中である彼は顔を前に向けたまま、視線だけで雪乃を時折見ている。

 そのちょっとした仕草も、車の運転も絵になる男だとつくづく思う。

 同窓会が終わったら、今まで以上に距離を置いた方がいいのかもしれない。

 雪乃に向けていた注意力を別のところに向けられるようになれば、卓馬自身が好きだと思っている女性と一歩を踏み出せるはずだ。


「別に……考えてませんけど」


「そうか? オレには、同窓会が終わったら逃げようと思っているように見えるけどな。また、連絡すら断つ気か? その顔には見覚えがあるぞ」


 なにか言い返してやらなければと思っていたら、車は滑らかに店の裏にあるガレージに入っていく。

 車がバックしはじめると、卓馬の自慢の工具たちが壁にぶら下げられているのが見えてくる。雪乃が贈った工具も混ざっているなと見ていると、タイヤが車止めに当たる感覚に、これから人の溢れる場所で数時間を過ごさなければいけないのかと意識してウンザリしてくる。

 大きなため息を吐いていると、外から助手席のドアが開けられた。


「どうした?」


「あー、今更ながらどうして出席に丸つけちゃったかなぁと思ってさ。卓馬の店だからって、安易に考えたせいだわ」


「なんだよ、そんなことか。どうせ、飲みはじめたらどんちゃん騒ぎになんだろうから、バーカウンターの隅にでも座ってチキンでもつまんでろよ」


「はあー、頼もしいお言葉ですこと」


 車から降りると、卓馬はドアを閉めて後ろのドアを開けて荷物を出しはじめた。両手が空いているから手伝おうと差し出すが、卓馬は「荷物はいいから扉を開けてくれ」と言った。

 先に歩いてガレージの扉を開くと、そこは店とガレージの間にある庭になっている。時には仲のいい数人で集まってバーベキューをするプライベート空間だ。雪乃も何度か参加したことがある。

 そして、元カノに泣いて責められた嫌な思い出の場所でもある。

 胃の辺りに感じる苦い痛みを無視して突っ切ると、今度は店の裏口を開けた。


「サンキュ」


 引くタイプの扉を手で押さえて、雪乃は先に卓馬を行かせた。

 後ろに続いた彼女だったが、突然立ち止まられてその大きな背中に顔をぶつけるはめになった。


「ちょっと……」


 文句を言ってやろうと鼻を押さえながら顔を上げると、肩越しに振り返る卓馬と目が合う。

 全てを見透かしているような視線に、雪乃はたじろいだ。


「勝手に抜け出すなよ? オレの車で帰るのは決定事項だからな」


 もう終わったと思っていた車中での会話の続きに、雪乃はたじろいだ。


「か、香穂と帰るからいいよ」


「女二人で帰ったら危ないだろ。綾瀬も送ってやるよ」


 そう言いながら、すでに盛り上がり始めている中へ歩き出した卓馬の背中を追った。


「もしかしたら、香穂がコーヒー飲みながら近況報告会の話をしたいって言うかもしれないじゃん」


「そしたら寄ってやる」 


「そうじゃなくて……女子トークをしたかったら」


「会話が聞こえないくらい離れた席に座ってやるよ」


 こうなった卓馬は、絶対に譲りはしないのは経験済みの雪乃は、ぐったりとうなだれながら会場に足を踏み入れた。

 いつもより明るめに思える店内を見回せば、すでに他の人が持ってきたアルコールと食べ物で盛り上がっている。壁にあるデジタル時計は、開始時間を五分過ぎていることを知らせていた。


「おーい、卓馬! 何やってたんだよ。遅かったな」


「鞍山くん! こっちこっち」


 あちらこちらから上がる卓馬を呼ぶ声に、学生時代を雪乃は思い出した。顔もよく、背も高く、落ち着いた性格でトラブルを解決する頼もしさのあった彼は、男女問わずクラスの人気者だった。

 こっそりと卓馬の後ろから離れた雪乃は、ドリンク置場でリンゴジュースを紙コップにそそぎ入れた。今日は、アルコールを口にする気はない。もしかしたら、二度と外でアルコールは口にしないかもしれない。

 あんな経験は一度だけで十分だ。

 

「ゆーきの!」


 かけられた言葉と同時に背中に衝撃を感じて、持っていた紙コップの中身が波打った。

 こんなことをするのは一人しかおらず、苛立ちや怒りよりも、雪乃の口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「香穂。久しぶり」


 紙コップをテーブルに置いて、ぎゅっと回されている腕を数回ぽんぽんと軽く叩くと少しだけ体を動かしやすくなった。生まれた空間を利用して、体を反転させると思っていたとおりの人物が満面の笑みを浮かべていた。


「久しぶり、雪乃。会いたかった! 飛行機代がもっと安ければ、もう少し帰って来れるのに」


「大変なのは、飛行機代だけじゃないでしょ。飛行機に乗ってる時間が大変じゃない?」


 雪乃にとって綾瀬香穂あやせかほは唯一の親友である。

 大学時代に留学したアメリカで出会い、六年前にそのカナダ人──エイデンと結婚してカナダに移住したため、雪乃が会うのは結婚式以来だ。

 あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。建物の中ではなく大自然の中、少人数だけを招いた手作りの結婚式はリラックス出来る温かさがあった。結婚式に憧れのない雪乃でさえ感動したほどに。

 その後、一年がたった頃に妊娠して、元気な女の子を出産して子育てに追われていた。


「うーん、たしかに長いよね。あと時差がきつい」


「あーあ、そうだろね。そういえば、ソフィアちゃんは元気?」


「うん。元気、元気。パワフルって感じかな」


「寂しがってんじゃないの?」


「うーん、そうでもないんじゃないかな。あたしがいない間は、エイデンの両親が泊まってくれることになってるから、甘やかしてもらえて喜んでんじゃないかな?」


 くすくすと笑う香穂は、雪乃の目から見てかなり幸せそうに見えた。実感として、結婚も子供もイメージが出来ないが、会場内を見渡すと、中には子供を連れて来ている人もいる。

 その顔には、やはり香穂と同じような表情が浮かんでいて、周りに集まる人たちも楽しそうにしていた。

 子供が苦手な雪乃は、どうしても顔が引き攣ってしまう。


「雪乃は、最近どうなの?」


「ん? どうって何が?」


「誰か気になる人とか、彼氏はいないのかな~って思ってさ。あ、お酒の方に行ってもいい?」


 バーの方を指差した香穂に頷き、そちらに歩いていくと彼女はテーブルに並べられた飲み切りサイズのボトルのラベルを熱心に吟味すると、一本を選びだしワイングラスに注いだ。

 その様子を見守っていると、雪乃も飲むかと聞かれたが首を横に振った。


「今日は実家に泊まってくの?」


「ううん、ホテル。せっかく旦那と子供のことを考えなくていいから、羽伸ばそうと思ってさ。昨日からゆっくり買い物もできたし、明後日の夕方の便で帰るわ」


 なんだかんだ言いながら、香穂は早く会いたいといった感じだ。


「そうなると、また暫く会えないね」


「会えるのは、雪乃の結婚式かな」


 予想もしなかった爆弾をぶっこまれて、雪乃は反応に困った。


「あの~、香穂さん? 結婚は、本人の意思と相手がいないと出来ませんけど?」


「え? だって、彼ってさ」


「作家の先生」


 香穂が何かを言おうとしていたのに、割り込んできた声に掻き消されてしまい消えていった。

 彼女が口を閉じて向けた視線を追えば、周りにきゃあきゃあ騒ぐ女性たちを纏わり付かせている男が歩いてくる。


「雪乃……あたしは席外すね」


「ちょっと、香穂!」


 ワイングラスを手に、香穂はそそくさと離れていってしまった。代わりに、隣の席に男が座った。


「悪いけど、朝日奈さんと二人きりにしてくれるかな」


「ええ~、また戻ってきてね」


「すぐに終わるから、向こうで食事を楽しんでおいでよ。オレが持ってきたのがあるから」


 その言葉に、納得のいっていなかった子たちが離れていく。すると、急激に静けさを感じた。

 隣の席に目を向けると、男はグラスに一つ氷を入れるとウイスキーを注いで口をつける。

 その仕草は、まるでドラマのワンシーンを見ているような錯覚さえ起こさせる雰囲気がある。

 雪乃は、自分のオレンジジュースを一口飲んでから口を開いた。


「まさか、人気俳優の向島宏介むこうじまこうすけが来てるなんてね」


「もう俳優になって十年ですよ。同窓会に出たくらいで騒ぐ記者もいないでしょ。最近は週刊誌の記者たちは若手の子たちに張り付いていて大忙しだからね」


 向島宏介はドラマや映画に引っ張りだこの人気俳優。学生時代は生徒会長をするほど品行方正で、統率力と説得力、人を引き寄せる魅力を兼ね備えた男だった。それだけではなく、高身長で整った顔立ちという彼は悪い意味ではなく、何かと校内を騒がせていた。


「ま、人気を得ることが出来たのは、朝日奈さんのおかげだけどね。鳴かず飛ばずだった僕が、注目されたのは君の小説の実写化がきっかけだし」


「いえいえ、こっちはこっちで売上を伸ばして頂いて感謝してますよ」


 雪乃が以前ティーン向けに書いた吸血鬼小説は十代の人気を得て、実写映画化された。通るか分からないが、登場人物のキャスティングは誰がいいかと聞かれ、芸能人名鑑を眺めている時に向島の写真を見つけた。

 かつて文化祭の劇で演じている姿が浮かび、主人公が恋をする吸血鬼にぴったりだと思い候補に上げた。

 そして、オーディションの末に、彼が選ばれたのだ。

 たしかにきっかけを与えたのは雪乃かもしれないが、チャンスをモノにしたのは向島の実力である。


「そういや、今のシリーズものは映画化の話しとかないんですか?」


「うーん、ないわね。どうして?」


「そろそろ、もうワンステップ上がりたいなと思いまして。あのシリーズには官能的なシーンもあるから、新たな自分を見せられそうだなと思うんですよ」


「あははは、最近は演技派俳優って言われてる男が何言ってんだか。CMにだって引っ張りだこのくせに。昨日から放送の始まった炭酸のCMだって、すごい反響だってネットニュースに書かれてたし」


「そうは言いますけど、次々と新人が出てくる世界ですよ? いつ飽きられるかと思ったら」


 自虐的に笑う向島を慰めるべく肩を叩いていると、バーの中が騒がしくなった。

 ざわめきは、徐々に雪乃たちの方へと近づいて来る。

 女性陣の感嘆のため息と男性陣のどよめき。

 対照的な反応に、雪乃も気になりスツールを回転させて後ろを振り返り、真っ直ぐこちらにやって来る男の姿に目を見開いた。


「な、なんでアンタが」


 わななきながら口にした言葉に、当の本人はニッコリと微笑んだ。

 朝、なかったことにしたのに、人生とはそううまくいかないらしい。男のにこやかな姿とは反対に、雪乃はひたすら青ざめることしか出来なかった。










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