記憶の中の羊はオオカミだったようです
大神ルナ
第1話 悪酔いは後悔の味
「うそっ……」
一体、何度こんな感じの展開の小説を読んできただろうか。
自分には起こりっこないと思っていたから、読めていた恋愛小説の一部分。自分も経験すると、読者の何人くらいが想像するだろうか。
これまで寝たことのないくらい柔らかな感触のベッドに、一糸纏わぬ姿で横たわる
無表情にも近い顔でいるが、頭の中ではいくつもの疑問や想像がぐるぐると回っている。
自分は裸で寝るような性格でもなければ、スタイルに自信がある訳でもないから、自分で脱いだ訳ではないのは確かだ。
という事は、確実に記憶にない誰かがやったという事。
なのに、何も覚えていない。
昨夜の最後の記憶といえば、騙されて伯母に見合いをさせられ腹を立てていて、その足で向かった幼なじみが経営するバー〈バッコス〉で幼なじみ──
そのあと──からの記憶があやふやだ。
いつも通りだったとするなら、卓馬が酔った雪乃をおぶって店の上にある住居に泊めてくれるはずなのだが。
この白で統一された部屋と周りにある調度品、ふかふかなベッドや顔を左に向けるとある窓から見える景色に見覚えはない。
隣に壁も建物も見えないということは、ここがとにかく高い建物で、それも最上階ということだ。
卓馬の自宅もタワーマンションだが、周りにも同じようなタワーマンションが建ち並んでいるせいで、これほど景色がよくない。
「初めてだったのに……」
ぽつりと呟いた言葉は、広い部屋の中へと虚しく消えていった。
人生最大の事件だというのに、雪乃がこれだけ落ち着いていられるのはベッドの隣がすでに空だからだ。
そうでなかったら、今頃大慌てで着替えを済ませて、足を忍ばせて部屋を出て行っている。
初体験の相手がどこの誰だか知らない以上、心配がない訳じゃない。
避妊はしてくれただろうか?
病気は持っていないだろうか?
セックスが初めてだろうが、知識だけはある。
だが、そんな事よりも自分がなるはずのない者になっていた衝撃のほうが大きい。
雪乃はナンパされるタイプでもなければ、男性に声をかけるタイプでもない。
むしろ、重度の人間嫌い。
何がどうなって、自分は──。
そう考えながら、ベッドでごろごろしていると、物音がして思わず体が強張る。
じっと音御立てずにいると、シャワーの音が耳に届いた。
いないと思っていた相手は、どうやらまだいたという事実に雪乃は勢いよく体を起こすと、ベッドの下に散らばっている下着を身につけて、ジーンズを引き上げた。
「ちょっと……Tシャツはどこ?」
探していると、代わりにライダースジャケットと鞄が窓辺のテーブルに置いてあるのを見つけた。
速く逃げたくてしょうがないが、鞄の中を漁って財布からあるだけのお札をテーブルに置いて備付けのメモにペンを走らせる。
『少ないでしょうが、ホテル代の足しにしてください』
これでよし!
そう思って振り返ると、反対側のベッドの足元にTシャツを見つけてほっと胸を撫で下ろした。
これで帰れる。
素早くTシャツを頭から被って身につけ、忘れ物はないか確認して、この部屋から去るべくブーツに足を突っ込むと、まだ水音のする浴室の扉の前を通りすぎてドアノブを掴んだところで──。
背中をもわっとする温かな湿度を含んだ空気が覆い、最悪のタイミングで相手が出て来たことを告げた。
「どこに行くの?」
低く耳元で囁かれると、背中の中心を甘い痺れが駆け登った。
咄嗟に答えられずにいると、手首を掴まれて部屋の奥に連れ戻される。目の前を歩く背中は広く、雪乃が見上げないといけないほど頭が上の方にあって背が高いことが分かった。
そこで、はっとする。
先を歩く男は、ジーンズだけを穿いており上半身裸だ。
歩く度に、背中の筋肉が、まるで別の生き物のように動くのが見える。
雪乃の頬に、一気に熱が集まった。
ようやく離された手に、足を止めて顔を見ると、相手の眉間にシワが刻まれていた。端正な顔を損なうものではないが、整っているだけに少し迫力がある。
「なんだよ、これ。俺は、男娼か?」
一瞬、何を言われているのか分からなかったが、彼の視線の先にお金を置いたテーブルがあるのに気がついて、雪乃は慌てて口を開いた。
「ち、違います! ここの部屋代の足しにしてもらおうと思って置いただけで……」
決して、彼に金額をつけた訳じゃない。しどろもどろになりながらも説明すると、彼は表情を和らげて手にしたお札を雪乃の手に握らせた。
「そう……ならいいけど、ここに長期滞在中だからお金はいらない。それより……俺のこと分からない?」
ずいっと顔を近づけられて、雪乃は一歩後ろに下がった。
少し長めの黒髪に、珍しい灰色の瞳と見ていくと、スッと通った鼻筋が目に入り女性と比べたら薄めの唇に行き着く。
直後、髪から垂れた水の滴が肩に落ちて、綺麗な鎖骨へと流れて美しい厚い胸板を転がり落ちていく。割れた腹筋を辿る動きを視線だけで追いかけていくと、ジーンズのウエスト部分で止まってシミを作った。
「前に会ったことありました?」
本気の質問だった。
彼のような芸能人レベルのイケメンと会っていれば、嫌でも記憶に残るはずだ。
「あの……ご、ごめんなさい。私たちは初対面だと思いますっ!」
「ちょっ!」
余りにも堪えられなくなって、雪乃は出口へと走った。
そんな行動に出るとは思っていなかったからだろう、一歩遅く伸びてきた手をかわして逃げる事が出来た。
廊下は絨毯が敷かれていて、よほど酷い歩き方をしないかぎりは足音がしなさそうだ。廊下の先にエレベーターがあったが、待つ時間も惜しい。
下手に待っていたら、あの男が出てくるかもしれないという不安感しかない。
ここが何階か想像も出来なかったが、雪乃はエレベーター横の階段を使って下に下りはじめたのはいいが、壁に書かれた数字に目を疑った。
「……三十七階?」
下りだけだと思っても、少し気が遠くなりそうだ。
落ち気味な気分を叱咤しながら、雪乃は軽やかなリズムで下りはじめる。こんな時だが、ヒールの高い靴の愛用者じゃなくてよかったと思う。
甲高の足には可愛らしさ靴は似合わないうえに、足も大きめでサイズがない。
そして、何よりも雪乃は運動靴や登山風の靴、ブーツをこよなく愛している。
現実逃避のように、別のことを考えながらスピードを落とすことなく下りきり、ロビーに出ると歩みを緩めた。
お互いの名前も連絡先も知らない。
このまま逃げ切れば、間違いなく二度と会うことはないだろう。
ホテルを出て立ち止まった雪乃は、高級ホテルで有名な建物を見上げた。
三十七階は最上階で、扉も少なかった。あんな場所で長期滞在するような人間とは、何の接点もない。
なんとなく心の奥で、ほっと息を吐き出すと、気のせいだろうが不安が少しだけ軽くなっていく気がする。
痛い授業料を払ったと思って、今回の事は綺麗さっぱり忘れようと心に決めた雪乃は、太陽が昇りはじめた街へと歩き出した。
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