春のコーヒーは苦い味

@rintarok

第1話

「ああー、私の淡い恋心も桜と一緒に散ってしまわぁ」


 赤毛を後ろで一つに結び、化粧っけの無い顔に申し訳程度にリップを引いている長谷川 円(はせがわ まどか)はカフェのカウンターで頬杖をついていた。

 カフェ・エスピアツォーネは個人経営の小さな喫茶店だ。家具はアンティークものばかりを選び、窓はステンドグラス、照明は小ぶりのシャンデリアがぶら下がっている。店内にはコーヒーの香ばしい匂いが充満していて、BGMにはジャズが小さめの音量で流れていた。コーヒーの最低価格は千円からというやや高めな店だが、コーヒー豆の購入もできる上、夕方以降はちょっとしたアルコールメニューもあるというので根強いファンが多い。とはいえカウンターとテーブル数台程度のこじんまりとした店なので、ほとんどマスターが一人で切り盛りしていた。


「暇なら掃除でもしてくれよ、円ちゃん」


 そう言ったのは、マスターの柳 昭彦(やなぎ あきひこ)だ。真っ黒な髪を後ろに撫で付けている。身長は高く、百八十は越しているだろう。年齢は三十代後半。シワのない白シャツに黒のスラックス、その上から黒いエプロンをつけている。このエプロンがまた似合っているんだよなぁと円は思った。


「私の恋心についてはノータッチですか?」

「ううん……強いていえば男を見る目が無くて心配してるかな」

「とっても見る目があると自負してるんですがねぇ」

「それは至極光栄、さぁ掃除をしようか」

「へぇ」


 やる気の無い返事をして、円はキッチンからアルコールスプレーと布巾を取った。店の一番端のテーブルから、アルコールをふきかける。それからもう一方の手で持った布巾でテーブルをごしごし拭いた。窓から外を見ると、ぱらぱらと雨が降っている。ついこの間満開になっていた桜は、雨のせいで散りはじめ、落ちた桜の花びらは道路にへばりついていた。円は次のテーブルに移ると、同じようにアルコールを拭きつけた。といっても雨の日は客足が遠のく。テーブルの掃除をするのはこれで本日二周目だった。どうせなら掃除ではなく柳と会話がしたいなぁと思いながら、窓に反射した柳を見た。彼はキッチン周りを綺麗に掃除した後、食器をクロスでピカピカに磨いている。穏やかで、楽しそうな表情だ。そう言うところが円の周囲の男達とは異なり、どうしても柳が魅力的に見えた。彼はきっと、胸や身長や足の細さだけで女を判断したりしないだろう。


「でもあの人美人だったなぁ〜。やっぱり顔か?」


 円は昨日見た光景を思い出した。カフェが休みだった昨日、円は一人で街をぶらぶら歩いていた。商業ビルのMONMONに立ち寄った時、フードコートにでもいこうとエスカレーターに乗った円はたまたま柳を見かけたのだ。その時柳は女性と一緒だった。女性は黒髪にパーマを当てた美人で、柳と同じくらいか、もしくはやや歳下くらいに見えた。二人は仲睦まじそうに一つ下の階の広場を歩いており、円に気がつくことなく物陰に消えた。

 随分前、円が柳に恋人の有無を聞いたことがあった。その時柳は恋人はいないと言っていた。あれは嘘だったのだろうか。もやもやと悩んでいる円の様子を見かねて、柳が言った。


「客も来ないし、コーヒーでも飲みながら休憩しようか。円ちゃんはいつものでいい?」


 いつもの、というのはキャラメルマキアートだ。カフェラテにキャラメルソースをかけた、とても甘い飲み物。円は少し考えてから答えた。


「いえ、ブラックで」

「……え? ブラック苦すぎて飲めないって言ってなかったか?」

「私もういい大人なんで、ブラックで」

「? よく分からないけど、まぁブラックで良いなら……」


 柳はコーヒー豆が入ったガラス瓶とサーバー、ドリッパーなどを棚から一つずつ取ってカウンターに置いた。電気ケトルのスイッチを入れて、お湯を沸かしている間に金属製のミルで豆を挽く。ゴリゴリという音とともに、香ばしい匂いが強く漂ってくる。ドリッパーにペーパーフィルターをセットしてから挽いた豆をそこに入れると、沸いたお湯を少しずつ落とした。お湯と空気を含んだ豆がふんわりと盛り上がるのが、円の方からも見えた。良い匂いだな、と思うのだ。だが、苦いものが苦手な円はブラックで飲んで美味しいと感じたことが無い。


「ほら、入ったぞ」


 コーヒーカップに注がれたブラックコーヒー。客のいない席にカップを置くと、柳は円を呼んだ。円はカウンターの席に座るとカップを手に取った。ふうっと息を吐いて決心してからコーヒーに口をつける。


「にっっ!! ……美味しいです」

「いや、苦いって言おうとしたろ。どうしたの、突然ブラックコーヒーなんて飲みだして」

「苦く無いですよ。美味しいです」

「……」

「あー、私もブラックの美味しさがわかるようになってきたなぁ。苦いものって美味しいなぁー」

「なら早く飲んだ方がいいな。コーヒーはどんどん酸化して味が変わっていく」

「あ、味わってゆっくり飲みます」

「だからそれだとコーヒーが不味くなる」

「……」

「……」


 円は目の前のコーヒーと睨めっこした。正直な話をすると、苦い。何が美味しいのかよく分からない。今すぐにミルクと砂糖を入れたい。だが自分が大人の女だと証明したい。円は目を閉じてぐいとカップを煽った。口の中に苦味が広がっていく。


「うぇ……美味しいっすぅ……」

「はぁ……。ほら、これ」


 柳はキッチンに置かれた冷蔵庫を開けると、中からチョコレートを三つ取り出して皿に乗せ、円に渡した。それはオレンジピールが入ったチョコレートだった。円は礼も言わずにチョコレートをひょいとつまみ上げるとすぐさま口に放り込んだ。


「甘ぁい」


 彼女の顔に笑顔が浮かぶ。


「そりゃあ良かった」


 苦笑しながら、柳は自分のカップを傾けた。彼にとってこのコーヒーは美味しいものらしく、一口飲み込むと満足そうに顔をほころばせた。その感覚を共有できないのが、円には悔しかった。


「それにしても」コーヒーを飲みながら柳が言った。「口紅をつけてるの、珍しいな」

「気づいてたんですか」

「そりゃあ、まぁ。雰囲気違うし、カップにもついてるし」

「あ、すみません」

「別に洗えばいいから気にしないけど、珍しいなと」

「まぁ大人なんでね、リップくらいつけますよ」

「ふうん。彼氏でもできたか?」

「今時そういうのセクハラっていうんですよ」

「はぁ……じゃあ黙っておくか」

「ちなみに彼氏はできてませんけどね」

「答えるのかよ」

「あらぬ誤解をされても困りますからね。大体私からの告白を断っておいてそういうこと聞くの無神経すぎません?」

「いや、あれ本気だったのか?」


 あれ、というのは円がこのカフェのアルバイトに応募してきた時のことだ。アルバイト募集の張り紙を見て、当時ニートだった円は話だけでも聞いてみようかとふらりとこのカフェに寄った。その時コーヒーを入れていた柳に一目惚れして、すぐにアルバイトの面接を申し込んだ。


「アルバイトの面接で女性から告白されると思わなかった」柳は苦笑した。

「一目惚れだったんですよ」

「見る目がねぇなぁ」

「人を見る目には自信があるんですがねぇ」

「あったらブラック企業になんて就職してないだろうが。全く、見る目がないという自覚を持て、自覚を」

「いやいやいや、今度こそは間違いないという気がしてます」

「……若さだねぇ」


 柳がハァーっと深いため息をついた時、ドアベルが鳴って客が店に入ってきた。「いらっしゃいませ」と柳が声をかけるのとほぼ同時に、円は椅子からさっと降りて自分が使っていたカップを流し台に置いた。

 その後、客はまばらに来たものの暇な一日だった。客が来ない日はずっと来ないものだから、さっさと閉めてしまおうと言って柳は少し早めに店じまいを始めた。円もそれを手伝い、レジの閉め作業と洗い物、店の掃除などを終えるとシャッターを下ろして裏口から店を出た。


「円ちゃん」


 帰ろうとしていた円を、柳が引き留めた。


「もう帰りだろ? 途中まで送ってこうか。つっても歩きだけどな」

「ーーぜひ! なんなら私がおぶっていきますよ」

「どういう状況だよ、それ」


 ゴミが置かれた裏道から通りに出る。ふと上を見ると、空はすっかり暗くなり月が煌々と輝いている。まだ少し寒い夜風がひゅうと吹いて円は身震いをした。通りの向かいには公園があり、公園の縁に植えられた桜の木から花びらがひらひらと落ちている。


「円ちゃんはこっちだっけ?」


 ポケットに両手を突っ込みながら、柳が顎を少し右に曲げた。


「あ、はい。そっちです」

「じゃあ帰ろうか」


 二人は右手に曲がって歩き出す。都心から少し離れたこの場所は夜になるとすっかり静かになる。今もすれ違う人といえば帰宅途中のサラリーマンや塾帰りの学生くらいで、ほとんどは人気が無いしんとした帰り道だ。街灯も少なめの道で、星を見るにはちょうど良いが女性が一人で歩くのはやや心細かった。


「円ちゃんは」柳が言った。「アルバイトとして入ってきてそろそろ一年か」

「そうですねぇ。一年があっという間でした」

「コーヒーの淹れ方もだいぶ上手くなってきたし、今度注文が入ってきたら円ちゃんが淹れてみる?」

「え! あんまりやりたくない!」

「なんでだよ……。美味しいって言ってもらえると結構嬉しいもんだぞ」

「いやぁ、そうかもしれないけど柳さんのコーヒーと比べられたらなぁ。マズイって言われたらバイトやめちゃうかも」

「お、そしたら再就職かな」

「ええええ。もうちょっとフリーターでいたあい」

「もうちょっとってお前、もう一年なんだからそろそろ就職考えないとやばくないか?」

「ううん……」


 円は自分が社会人として働く姿をイメージした。人に好かれそうな化粧をして、スーツを着て、ヒールを履いて、にこにこ笑って……。そして上司の理不尽な罵倒に耐え、毎日終電間際まで働くのだろうか。想像しただけで嘔吐しそうになった。

 彼女の顔色が悪くなったのに気がついて、柳は歩を止めた。


「ま、のんびりやれば良いか。まともに働いてない俺が言うことでも無いし。ーーなんか飲むか?」


 柳の前には赤い自動販売機がある。一番上の列だけ冷たい飲み物が並び、二番目からの列には暖かい飲み物がある。コーヒー、お茶、おしるこ、コーンポタージュなどがあるようだ。


「柳さんはカフェのオーナーなんだから十分すごいと思いますけど。あ、私おしるこで」

「そんなことなーーおしるこ!? これ買って飲んでるやつ初めて見るな」

「いやいや、意外と飲んでる人いるし美味しいですよ。甘くて」

「ふうん……。まあいいか」


 おしるこのボタンを押すと、柳はスマートフォンを取り出して決済した。がらがら、と音をたてておしるこの缶が落ちてくる。柳はしゃがんで取り出し口の蓋を開けると、中からおしるこ缶を取り出して円に渡した。円は受け取った缶を右手に左手にと持ち替えて少し冷ましてから、蓋を爪で開けた。かしゅ、と音を立てて蓋が開くと中からは甘ったるいおしるこの香りがした。一方柳の方はホットコーヒーを買ったようで、小さな缶の蓋を開けて飲んでいた。二人は缶を傾けながら再び歩き出す。


「缶コーヒー、飲むんですね」

「ああ、普通に飲むな」

「不味いから飲まないって言うかと」

「たしかに美味くはないけど、他に飲むものも無いからなぁ」

「まあ、確かに」


 円が缶を思い切り傾けると、缶の底に溜まっていた小豆が口の中に落ちてきた。それを咀嚼して飲み込む。


「あ、私こっちなので」


 T字路に差し掛かると、円は右手に寄りながら言った。


「そうか。じゃあ気をつけて。お疲れ様」

「お疲れ様です。また明日」


 右に曲がりながら数歩あるくと、円は立ち止まって振り返った。


「ーーあの、柳さん」


 T字路を通り過ぎようとしていた柳は歩みを止めた。


「柳さん、最近恋人とかできました?」

「どうした、藪から棒に。俺は相変わらず寂しい独り身だよ」

「気になる人とかは?」

「とくに無いかなあ。毎日同じ場所を行き来するばかりだし、出会いも無いしね」

「ーーそうですか。なら良いんです。じゃ、お休みなさい!」


 円は前に向き直ると、帰り道を走り去っていった。

 翌日、円はいつも通り昼から出勤した。以前務めていた会社のトラウマもあって朝が苦手になってしまった円には、昼からゆっくり出勤できることは大きなメリットだった。

 朝は会社勤めをしていない客がまばらに来るぐらいで客足は少ない。だが昼になると若者から中年、老人まで多様な客が来店するようになる。店にとっても忙しくなる時間に勤務してくれる円の存在は助かるものだった。円は裏口から店に入ると、スタッフルームで髪を一つにまとめて、エプロンを着け、手を洗ってからキッチンに入った。


「おはようございます」

「おう、おはよう。今日も元気そうだな……って、髪に花びらついてる」


 柳はコーヒーを淹れていた手をちょっと止めて、円の髪についていた桜の花びらを指で取った。


「あ、す、すみません! えええーっと注文は……」


 はやる鼓動を必死で抑えようとしながら、カウンターの内側、調理場の壁にマグネットでとめられたオーダーシートを眺める。


「サンドイッチ二つ、カウンターに置いてある。それ運んでくれるかな。卓はD卓で」

「了解ですー」


 ふうっと息を吐いてから、円はサンドイッチののった皿を二つ両手に持ってキッチンを出た。カウンターに三人、テーブルには四グループほど客が座っていて、観葉植物の影にあるテーブルにも一人、客が座っているようだった。円は窓際のD卓にサンドイッチを運び、二人向かい合って座っている客の手前に皿を置いた。


「おまたせいたしました〜。エッグサンドです」


 話に夢中になっている中年の女性二人は円に軽く会釈をすると、またさっきまでの会話に戻った。どうも週刊誌に載っている芸能人の熱愛報道について話しているらしい。いちファンとして許せないだのなんだのと言っているのを横目に、円はその卓を後にした。それから柳が淹れたコーヒーを運び、追加で入った注文のケーキを運び、新規で入ったカフェラテを運んだ。それを繰り返しているうちに、昼の三時になった。客足が一瞬落ち着いて、店内の客はまばらになった。


「ふぃ〜。今日はぼちぼち繁盛ですなあ」


 客のいなくなったカウンターにもたれかかって、円が呟いた。


「円ちゃんて時々、いや結構な頻度でおっさん臭いよな」

「え? そうですか? これでも結構女子力とか気にしてるつもりなんですけどね」

「……」

「突っ込んでいいとこですよ、ここ」

「あ、そうか。冗談か。いや失礼」

「謝られるとそれはそれで……」


 二人が軽口を叩いていると、店のドアベルが鳴った。二人は店の入り口を見る。そこには、老齢の女が立っていた。髪はボサボサ、服も穴が開いていている。前髪から覗く目はうつろで、どこを見ているのか分からなかった。女はよろよろ店に入ってくるなり、柳のことを見つけると肉の削げ落ちた腕をあげて彼のことを指差した。


「このクソ男が」


 老人の口から出てきたとは思えない言葉に、円は目を丸くした。柳の方を見ると、彼はクロスでコーヒーカップを拭いている。


「何がカフェだ、クソ野郎。のうのうと生きていて、恥ずかしくないのかい。嫌になるね、まったく。お前みたいな男がカフェ? マスター? 馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。こんな店にくる客も、頭がおかしいんじゃ無いのかい」

「お客さん、ちょっとーー」


 止めに入ろうとする円の肩を柳が掴んだ。


「いいから」と柳。

「さっさとこんな店やめちまいな! マスターなんてガラじゃないんだから。ああ、やだやだ。また来るよ、あんたがこの店をやめない限りね」


 そう言って老婆は店から出ていった。店の中は静まり返り、嫌な空気が漂っていた。客が一人、また一人気まずそうにレジに並んで会計をするなり逃げるように去っていく。レジに立って会計を済ませながら、円は考えていた。あの老女は誰だろう? 柳の母親にしては似ていなかった。祖母だとしても、あんな言い方するだろうか。中にはそんな人間もいるだろうが、わざわざ孫の店に嫌がらせをしに来るか? ただのクレーマーだとしても柳の人柄に文句を言っていたのが気に掛かる。昔から付き合いがあるような物言いだ。そういえば、このカフェに若いアイドルが来たことがあったが柳は全く興味が無さそうだった。


「ーーまさか、熟女好き?」

「ぷっ」


 心の中の声が、会計中に思わず漏れた。支払いを済ませようとレジに立っていた客が、円の独り言を聞いて吹き出した。


「あ、ごめんなさい!」

「いいえ、いいのよ。面白いわねぇあなた。柳が熟女好きだって……ぷぷぷ」

「おい、麗華!」キッチンから柳の怒声が飛んできた。

「あらごめんなさい。だってこの子が面白かったから。あなたが円ちゃんね。お話は時々聞いてるわ」


 麗華と呼ばれた女性は、被っていた帽子をとった。そこには先日ショッピングモールで見た、黒髪の美人が立っていた。


「私は渡辺 麗華。柳とは古い付き合いでね、ああ、付き合いって変な意味じゃないのよ。ただの同級生というかーー恩人ではあるんだけど」

「は、はぁ」

「まぁあなたの思っているような間柄では無いから安心してね。それにしても柳、あの人のことどうするつもり? 良い加減に警察に相談したら?」

「警察って言ってもなぁ。俺が行けってか? 警察に?」

「今はあんなふうにイチャモン付けるだけで済んでいるけど、エスカレートしたらどうするの? 円ちゃんだって危ないのよ。若い子の安全を守ることも、あなたの責務でしょう」

「それはそうだけどなぁ……」

「変なところで煮え切らないところは相変わらずね。あと、ここまで来たら本当の事を話したら?」

「いや、それは流石に無理だ」

「無理じゃないわよ。中途半端なことして。情があるから嫌われたく無いからってそうやって半端なことしてるんでしょう。良い加減はっきりしなさいな。モジモジしちゃって鬱陶しいったら無いわ」


 言い合う柳と麗華の間で、円は二人の様子を交互に見た。とても仲が良さそうに見える。年も近いし、ただの知り合いとは思えない。少しだけ脈ありかもしれないとか考えていた自分が急に恥ずかしくなって、円は俯いた。


「ほら、もういいだろ麗華。会計終わったなら帰れ」

「まぁ冷たい。いいけどね。円ちゃん、またね」


 麗華はにこりと笑って帽子を被り直すと、店から出ていった。彼女が歩いていくのを、店の窓から見送った。客がいなくなり、店の中はしんと静まり返る。柳は少し不機嫌そうにキッチンの掃除を始めた。円は黙ったまま布巾とアルコールスプレーを手に取り、テーブルを掃除しに行った。一番端のテーブルにアルコールスプレーを吹きかけて、布巾でこする。客がケチャップか何かをこぼしたのか、テーブルに粘着質の汚れがこびりついていた。そこを力強くこするが、中々取れない。鼻からため息を吐いて、もう一度アルコールスプレーを吹きつけた。


「ーー円ちゃん」


 キッチンから、柳の声がした。それはいつもより落ち着いた、真剣な声だった。


「はい?」


 テーブルから顔を上げて円は柳の方を見た。彼もこっちを見ていた。


「今日の帰り、少しだけ時間ある? 新しい豆淹れたから試し飲みしてほしくて」

「私コーヒーの味わかんないっすよ」

「……」


 柳は少し困った顔をした。それで、何か話したいことがあるのだと円は気がついた。


「ああ、じゃあ折角なんでいただきます。コーヒーの味わかんないけど」

「わかったわかった、味わかんなくていいから」


 そう言って柳は笑った。

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