8.錯綜する想い

 喧騒に包まれるカフェの入口に見覚えのある人影が現れた。

 彼女は俺を視界に捉え、すぐ近くの席に1人で座る。ちょうど俺と向かい合う位置だ。

 キャップを目深に被り、監視するような視線だけがこちらに向けられる。


(どうして彼女がここに?)


 彼女にはカフェで神条先輩と会うとは伝えていない。

 少し不審には思ったものの、ドリンク片手に本を読むだけで動く気配はない。

 どこで今日のことを嗅ぎつけたのかは知らないが、彼女自身が言っていた通り邪魔をするつもりはないらしい。


 訝しく彼女に視線を送っていると、また1人来客があった。今度こそ神条先輩だ。

 軽く腰を上げて俺たちの席を伝える。

 不安げに店内を見回していた神条先輩は俺に気付いたようで、ドリンクを購入した後、足早にこちらへ近付いた。


「遅くなってごめんね。友達に捕まってしまって」

「いえ、気にしないでください。俺たちもさっき来たところです」


 軽く会釈して俺の向かい──喜一の隣に座るよう促す。

 すると喜一は即座に席を立ち、逃げるように俺の隣へ。そう露骨に避けてしまうと、嫌な思いをさせてしまうのではないだろうか。

 まあ、会話をすると考えるとこの構図の方が何かと好都合か。急に知らない人物と隣同士というのも神条先輩にしてみれば警戒するだろうし。

 神条先輩はここに来るまでの道中で走ってきたようで、額にじわりと汗を滲ませ、少し上がった息を整えるように肩を揺らしている。


「大丈夫ですか? 急がせてしまったようですみません」

「ううん。待たせてしまうのは申し訳ないと思っただけだから気にしなくていいよ」

「とりあえず、自己紹介は先輩が落ち着いてから始めましょうか」

「そうしてくれるとありがたいな」


 神条先輩は軽く微笑んで、透明なグラスの中身をストローでかき混ぜる。

 ほんのりと抹茶の匂いが漂う。落ち着く優しい匂いだ。


「抹茶ラテですか」

「うん、そうだよ。よくわかったね」

「抹茶の匂いは独特ですから。抹茶が好きなんですか?」

「そうだね。ここに来る時はいつも抹茶ラテを飲むんだよ」

「ああ、その気持ちはわかります。新作や期間限定品も気になりますけど、口に合うとわかっている方が安心するんですよね」

「ふふ、そうだね」


 俺はアイスカフェラテ。喜一は新作のチョコチップフラッペ。神条先輩の前には抹茶ラテが置かれている。

 注文ひとつで性格も少しばかり見えてくるのが面白いところだ。

 軽く会話を交わしていても喜一が話に入ってくる様子はない。神条先輩も喜一のことが気になってはいるようだが、無闇に話を振るようなことはしなかった。

 やがて神条先輩が呼吸を整えて落ち着いてきたところで彼女が話を切り出す。


「さて、そっちの子が天沢くんの言ってた親友くんかな?」

「ひゃい!」


 優しい微笑みを向けられ、喜一は素っ頓狂な返事をしてピンと姿勢を正す。想像以上の緊張だな。

 2人は一度顔を合わせてはいるはずだが、神条先輩からその話題を持ち出す様子はない。

 単に忘れているのか、初対面のフリをしなければならない理由があるのか。神条先輩の純粋な優しさということもあるか。

 ともあれ、まずは怯えた小動物のような喜一を何とかしなければならないな。


「喜一、一旦落ち着け」

「お、お前が冷静過ぎるんだよ。神条先輩の前じゃ誰でもこうなるって」

「らしいです。舞い上がってるみたいなのでお手柔らかにお願いします」

「緊張がこっちにも伝わってくるね。先輩だからって緊張しなくていいからね」

「お、押忍!」


 ダメだな、これは。

 神条先輩がわかっていないはずもないが、喜一が緊張しているのは神条先輩が相手だからだ。

 意中の相手でなければ、喜一は先輩だろうと異性だろうと友好的に接し、すぐに仲良くなれるほどの社交性を持っている。

 普段の喜一を引き出せれば多少は俺の負担も減るんだが……。

 俺とはある程度会話もできそうだし、俺から話を振って緊張を解していくしかないな。

 ダメダメな喜一はフラッペを飲むことに必死なようなので、代わりに俺から紹介することにした。


「紹介が遅れましたが、親友の岩下喜一です」

「短っ! もっと紹介することあるだろ!」

「自分でやれ」

「薄情! 人でなし! 無面目!」

「無面目は表情が硬いって意味じゃないからな」


 非常識という意味合いで使っているのなら、それはあながち間違っていないのかもしれない。

 適当に場を濁しつつ、少し考える。

 喜一とは付き合いが長い分、良いところと同じくらい悪いところも知っている。

 どんな話が神条先輩からの心象を下げるかわからない以上、俺から無闇に情報を吐露するわけにもいかない。

 普段通りに喜一をあしらっていると、神条先輩が口元を押さえて笑い出した。


「親友とは聞いていたけど、本当に仲が良いんだね。2人はいつからの付き合いなの?」

「中学からですね。1年生で同じクラスになってからの腐れ縁です」

「同じ中学校出身なんだ。この学校じゃ珍しいね」

「そうなんですか?」

「ここは全国から人が集まるからね。同じ区域の人や顔見知りを探すのも難しいと思うよ」

「2人でこの学校に入学できたのはラッキーだったな、喜一」

「俺は絶賛アンラッキーだと思ってるけどな」

「まだ怒ってるのか。趣味でも特技でも話してみたらどうだ? 部活の話とか」

「岩下くんは部活動に所属してるんだ」


 喜一のご機嫌取りがてら話を誘導してやると神条先輩が食いつく。気を遣って話に乗ってくれただけか。

 どちらにせよ、これはチャンスだな。

 喜一の緊張を取り払うには持ってこいの話題だ。

 この期を逃すまいと俺は即座に会話を繋げる。


「中学の頃から弓道部に入ってるんですよ」

「小学校のクラブ活動からな」

「へえ、弓道かぁ。私も弓道に興味があるんだ」


 会話を取りもたせるためか、神条先輩が上手く話を掘り下げる。

 これで社交性がBと評価されるのだから、やはりこの評価基準はよくわからない。


「ま、マジっすか!」

「うん。1回1回、1本1本に集中を研ぎ澄ます……洗練された競技性がかっこいいと思ってね」

「そうっす! あの緊張感と中てた時の爽快感がたまらないんすよ!」


 やや興奮気味に喜一が語る。神条先輩にも納得するところがあるのか、喜一の話に耳を傾けて頷きを返す。

 思いの外好感触だな。適当に話を合わせているようにも見えない。

 まさかこんな身近に共通の話題があったとは。話してみないとわからないこともあるんだな。

 弓道の話になると熱くなる喜一は少しずつ調子を取り戻してきたようで、今度は自ら神条先輩に話を振る。


「神条先輩は弓道部に入らないんすか?」

「うーん。陸上も好きだからどうにも踏ん切りがつかなくて」

「そういえば神条先輩は陸上部でしたね。どうして陸上部に?」

「走るのが好きだからというのもあるけど、やっぱり達成感が大きいかな」

「達成感っすか。陸上ってずっと走るだけのイメージしかないっす」

「そのイメージは間違っていないよ」


 そりゃ陸上部で、その中でもスプリンターの神条先輩は走り続ける以外にないだろうに。あとは筋トレくらいか。

 当たり前のことを言う喜一に対する野暮なツッコミは胸の内に仕舞い、「でもね」と話を続ける神条先輩の声に耳を傾ける。


「その日その日で少しずつ感覚が違うんだよ」

「感覚、ですか」

「うん。天沢くんは部活には?」

「入ってないですね」

「そっか。じゃあ、岩下くんならわかると思うけど、その日の体調とか気分とか、果ては天気によってもコンディションって少しずつ違うと思わない?」

「あ、それめっちゃわかるっす。中たる時は弓を引いた時点で、今日の俺すげえキてるって感じがするんすよね」


 部活動に所属している者にしかわからない感覚なのか、神条先輩は肯定するように首を縦に振る。俺にはさっぱりだ。


「陸上も同じで、準備運動の時から今日は早く走れる気がするとか、タイムが伸びる気がするって感覚があるんだよ。良いタイムが出た時は思わず喜んじゃうし、自己ベストが出たら過去の自分を越えられた気がして、ガッツポーズなんかしちゃってね」


 神条先輩がガッツポーズか。想像してみたが上手くその姿が出てこないな。

 ギャップのある神条先輩の仕草に興奮を見せるかと思った喜一は、頻りに頷いて共感を示している。部活バカは単純だな。

 こればかりは経験しなければわからないことなのかもしれない。2人の距離が少し近付いた気がした。


「神条先輩は陸上が好きなんすね」

「うん、大好きだよ。だから、弓道部以外にも気になる部活はあるんだけど、陸上を手放すのはもったいない気がして。それに、2年生から転部っていうのも今更な気がするし……」

「そこは気にしなくていいと思いますよ。挑戦に年齢は関係ないですから」

「そうっすよ! 弓道のことなら手取り足取り教えますよ!」

「それは……」


 せっかくの良い雰囲気を壊しにかかるな。

 その言葉自体に罪はないが、聞きようによっては下心に捉えられる。まさに言葉のあやというものだ。

 現に神条先輩も困ったような笑顔を浮かべている。

 喜一にその気がないのはわかるが、喜一のことを知らない神条先輩は別だ。

 流石に空気の変化に気付いたか、喜一は勢いよく首を横に振る。


「ち、違います! 今のはそういう意味じゃなくて」

「落ち着け。神条先輩が入部したとしても弓道部の練習は男女別だろ。喜一が教えることはない」

「わかんねえだろ。同じ場所で練習してんだから、神条先輩が入ったら野郎が寄って集って教えたがるぜ」

「その時は先輩を守るために喜一が射ってしまえばいい」


 軽く冗談で流したつもりだったが、喜一はどこか癪に触ったようでキュッと眉根を寄せる。


「ふざけんな。弓道は人を射るために存在してんじゃねえんだよ。真善美を信条に毎日真面目に向き合ってんだ。確かに普段の俺は軽く見えるかもしんねえけど、俺は弓道でその心得に背くことはしねえ」

「……意外と良いこと言うな」

「は? 別に普通だろ」


 喜一当然のように言ってのけたが本当に感心した。

 てっきり「俺が守ってやるぜ!」とでも返してくるものだと思っていた。

 それでも神条先輩からの印象は多少良くなるかと吹っかけてみたが、喜一の弓道に対する姿勢は生半可なものではなかったらしい。

 神条先輩も喜一の見た目にそぐわない純粋さに心を打たれたのか、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ感嘆の声を漏らす。


「私は岩下くんのことを少し勘違いしてたみたいだね。すごくかっこいいと思うよ」

「せ、先輩まで……本当に普通っすから! 弓道と真剣に向き合ってるやつなら当たり前のことっすよ」


 誤魔化しや取り繕いができない喜一が言うからこそ、その言葉は嘘偽りない本心であると伝わってくる。

 喜一も恥ずかしがってはいるものの、今朝と同一人物とは思えないほど明るい好青年の様相を呈している。

 光明が見えてきたかもしれないな。

 そう思った矢先、神条先輩が少し苦しげに目を細めた気がした。


「私も弓道と向き合えば心身を鍛えられるのかな」

「神条先輩ならこれ以上鍛える必要ないんじゃないっすか?」

「そんなことないよ。私は──」


 しかしそう感じたのもつかの間、彼女の顔には再び優しい笑顔が貼り付けられる。


「ううん、何でもない」


 神条先輩の不自然な表情の変化に俺は疑問符を浮かべた。

 それは喜一も同じだ。

 一瞬俺に目配せをすると勘違いではないと確信したのか、テーブルに身を乗り出した。


「悩みがあるなら聞きますよ」

「悩みなんて……ないよ」

「ないなら大丈夫っす。でも、何か無理してるように見えて……話せば楽になることもありますし、こう見えて俺たち口は堅いんで誰にも話さないって約束します」


 喜一に詰め寄られたことで神条先輩は眉をひそめて閉口した。

 困っている人を放っておけないのは喜一の良いところだと思うが、初対面の相手に軽々話せない内容なのは彼女の様子を見ていればわかる。

 少しの沈黙の後、喜一もそれを悟ったのか、椅子に深く座り直した。


「話しにくいならこれ以上は聞かないっす。俺は神条先輩のことを信じるんで、先輩ももし悩みができたら俺たちを信じて話してくれれば嬉しいっす」


 そう締めくくった喜一になかなか上手い言い回しだと心の中で拍手を送った。

 喜一自身意識したつもりはないだろうが、『悩みができたら』という一言は確実に彼の言葉を信用できるものとして作用していたからだ。

 これが『悩みがあるなら』と言ってしまうと、既に悩みを抱えていると確信していることになる。

 しかし、喜一の言葉は間違いなく神条先輩の『悩みなんてない』という言葉を信じていると伝わってくるものだった。


 チャラけた話し方に軽佻浮薄な性格。誰もが喜一を『浮ついた軟派者』だと評価する。

 確かにその印象は間違っていない。中学までは好きな人がコロコロと変わっていたし、彼女ができても長く続かなかった。


 だが、俺の岩下喜一に対する評価は違う。

 彼はただ自分に正直で、それと同じくらい他人にも正直なだけだ。

 嘘をつけない。隠し事ができない。その真っ直ぐで不器用な性格が岩下喜一の持つ本質。

 決して誰からも好かれる性格ではない。嫌なことからは逃げるし、余計なことを口にして相手を傷つけることも少なくない。

 それでも、喜一と接した者はその真っ直ぐな人柄を知り、裏表のない彼の優しさに救われる人間も居るはずだ。


 神条先輩はハッと息を飲んで固まっていた。

 暫しの沈黙。グラスの氷がカランと音を立てた頃、彼女は俺たちが心配そうに視線を送っていたことに気付き、慌てて笑顔を繕う。


「ありがとう、岩下くん。その時が来たら、相談するよ」


 神条先輩はそう言って隠しきれない動揺を誤魔化す。

 彼女から悩みを聞き出すまでは至らなかったが、これ以上ない成果だろう。

 このまま時間を重ねていけば、喜一と神条先輩が打ち解ける日も遠くない。俺はそう確信した。



 全員のドリンクが底を尽き、そろそろお開きの時間が迫った頃。

 俺は神条先輩のさらに向こう、彼女がキャップの奥からこちらに視線を送っていることに気付いた。

 その視線は俺を誘導するように店の扉へと向けられる。遅れて、入店してきた人物に目をやる。


 その第一印象はパッとしなかった。

 明日には忘れてしまいそうな平々凡々な顔立ち。長身ながら少し猫背な立ち姿。丸眼鏡にごわっと伸びた髪。

 どのクラスの中にも1人は目立たない人物が居ると思うが、彼はそれに当てはまる。予め情報を仕入れていなければ目にも留めなかった影の薄い男子だ。

 彼女がこの店に足を運んで俺たちを監視していたのも彼が来ることを予見していたからだろう。

 彼女が立ち上がる気配はない。あくまで俺がどう解決するのか観察するつもりらしい。


 丸眼鏡の男子は俺たち──正確には神条先輩を視界に捉えると、迷わずこちらに近付いてきた。

 俺は動かずに彼の行動を黙認した。ここは俺の出る幕ではないと判断したからだ。

 俺が知っているのは表面上の話だけ。彼が神条先輩の悩みに関係している人物だろうという推測のみ。

 もしも全てを知っていたところで動くこともなかっただろうけどな。

 この問題を解決するのは俺ではなく喜一だ。俺はそのサポートでしかない。

 妙な期待を寄せる彼女には悪いが、俺は今から神条先輩が苦しむ姿を想像してなお、見届けることを選んだ。


 丸眼鏡の男子は神条先輩に触れられる距離までひっそりと近付くと、優しい笑顔を作る。


「ここに居たんですね、神条さん」


 神条先輩と同級生だというのに物腰低く接する男子生徒。その声を聞いた瞬間、神条先輩の表情に影が差した。

 せっかく盛り上がっていた空気は一瞬で氷点下を迎えたかのように凍てつき、急に夜が訪れたような錯覚に陥る。

 会話を突然遮られ、喜一も男子を見上げる。

 男子は俺たちには目もくれずに張り付けた笑顔のまま神条先輩を見下ろしていた。


「ま、丸山くん……」

「連絡がないから心配しました。そろそろお時間ですよ」

「あ、ああ……うん。ごめん。す、すぐに行くから」


 取り繕うこともできず、神条先輩は恐怖に搦め取られていく。

 ここまで来ると喜一が気付かないはずもない。状況は理解できずとも、神条先輩の危機を察知して立ち上がる。


「いきなり何なんすか? 神条先輩、怖がってるように見えるんすけど」

「君たちは1年生ですか? 僕は神条さんとお話があるだけですよ」

「そうは見えないって言ってんすよ」


 首に巻かれたネクタイの色から二年生だと理解し、崩した敬語を保ちながらも明らかな敵意を向ける。

 同級生なら怯えてしまう喜一の凄んだ表情も上級生には通用しない。

 むしろ、吠える喜一を嘲るように口元を緩ませた。


「見え方なんて貴方の主観でしょう? 神条さんに確認したんですか? 本当に嫌がっているのか。体調が優れないだけかもしれませんよ。はたまた他の理由があるのかも。憶測だけで人を悪者扱いするのはいただけないですね」

「んなこと……」


 言い返そうとした声が詰まる。

 丸山の言っていることは最もだ。喜一は神条先輩のことを何も知らない。神条先輩が嫌がっていると感じたところで、その理由にはたどり着けない。

 神条先輩と親密な関係を持ち、尚且つ阿吽の呼吸とも呼べるほどに息が合う間柄なら露知らず、喜一はもちろん、俺も神条先輩とは数日前に初めて話した程度の薄っぺらい関係性しか築けていない。

 そんな俺たちに神条先輩の気持ちなど理解できるはずもないんだ。


 現国の試験には『作者の気持ちを答えなさい』という問題が度々出題される。

 しかしあの問題の答えは作者本人にしかわからず、答えとして用意されているものはあくまで『出題者がどう受けとったか』でしかない。

 揚げ足を取るような話だが、現に作者本人が正解できなかったというおかしな事例も存在する。

 作者には作者の伝えたかった想いがある。物語を通して知ってほしかった本音がそこにある。

 読み手や問題の製作者がその想いを間違えて受け取ってしまえばそれは誤答であり、人の気持ちはそう簡単に伝わらないことの証明でもある。


 人の気持ちを考えたところで、その人本人にならなければ気持ちなんてわからないんだ。それは揺るぎない事実であり、今の状況を生み出している原因でもある。

 コミュニケーション能力に長けた喜一だからこそ痛感しているはずだ。

 相手が好意を寄せる人だからこそ、何も知らない歯痒さを実感しているはずだ。

 神条先輩と直接接触することを避け、神条先輩について知ろうともしなかったツケが回ってきた。

 今ここで神条先輩に事実確認をしたところで「気のせいだ」と言われてしまえばそれまで。

 それが本心でなくとも、俺たちに言葉の真偽を見極める術はなく、事実として受け止める他ないのだ。


 そうして出した結論がこの沈黙。喜一は自身の無力さを実感し、何も知らぬまま行動してしまったことを後悔している。

 神条先輩のことを知らない自分に、理解した気になって彼女を守ることなんてできやしない。

 喜一の言う直感とパッションだけでは乗り越えられない現実に直面している。


「神条先輩は、その……」


 わからないのなら行動するしかない。理解するには踏み込むしかない。

 その質問を投げかけることで神条先輩をさらに苦しめるとしても、自分が傷つくことになっても、踏み出さなければ始まらない。

 今こそ殻を破る時だ。自分の口で、態度で、気持ちで相手に伝えなければならない。そうしなければ、人の気持ちを知ることなんて出来やしない。

 喜一は決意を固めるように拳を握り、ゆっくりと口を開く。

 しかし、丸山はそれを許さない。


「もういいですか? 僕たちは忙しいんです。神条さんは君への優しさで時間を作ってくれたのでしょうが、僕には関係のない話ですから」


 今度は表情を消した丸山が喜一を睨む。

 開きかけた口は閉じ、丸山に気圧されて怯む。

 喜一ほどの凄みはないものの、上級生という立場と情報というアドバンテージを持っている丸山に、今の喜一では太刀打ちできない。


 傍観しているつもりだったが、最早ここまでらしい。

 圧倒的な情報不足。本気で手に入れたいと宣いながら相手を理解しようとしない楽観的思考。何があってもその場の機転で乗り越えられるという驕り。

 全てを人任せにしてしまった結果が今の喜一の情けない姿だ。

 喜一自身がそれを理解したであろうタイミングで、俺は彼らに助け舟を出すことにした。


「丸山先輩、でしたよね。貴方と神条先輩の関係は?」


 まさか俺が口を挟むとは思っていなかったのだろう。丸山は虚をつかれた様子で俺に目を向けた。

 動揺は見られないが、無理やり作った笑顔は少し崩れている。


「僕はただのクラスメイトですよ」

「ただのクラスメイトが、友人とのひと時を奪うほどの大事な約束ですか」

「友人? 君は神条さんと仲が良いんですか? そうは見えませんが」

「それは丸山先輩の主観でしかありませんよ。神条先輩に確認したんですか? 本当に友人なのか。もしかすると、"今の"恋人かもしれませんよ」


 目には目を。言葉には言葉で対抗する。

 喜一や俺がそうであるように、丸山も神条先輩の全てを理解しているわけではない。

 起爆スイッチを手にして全てを知った気になっているだけの"元"恋人でしかない。

 さらに言えば、俺のことなど知りもしない丸山に俺の思考を図ることは不可能だ。


 神条先輩に俺の言葉が事実かどうか確認するのは簡単だ。

 しかし、ただの友人であった場合、神条先輩が「友達ではない」と否定することはありえない。友人を1人切り捨てられるほど、丸山は神条先輩を縛り付けられてはいない。

 万が一にも俺が恋人であれば、それこそ丸山の立場は一気に危うくなる。

 だから彼は、俺の問いに歯噛みするしかない。まさに喜一にそうさせたように。


 丸山は明らかに動揺し、バツが悪そうに下唇を噛む。

 俺の言葉に驚いたのは何も丸山だけじゃない。

 神条先輩は目を見開き、喜一は口をパクパクと動かして何か言いたげに俺を見る。喜一だけは全く関係ない部分が気になってしょうがないみたいだな。


 奥の席では彼女が嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 俺は先の言葉の中にひとつだけ意味を含んだ餌を残したつもりだったが、この様子では喜一が気付くことはなさそうだ。

 一方で、神条先輩と丸山は当事者ということもあり、すぐにその違和感に気付く。そして、まんまと餌に食らいつく。


「君は……知っているんですか?」

「何の話でしょうか。何か隠し事でも?」


 当然、丸山に問い詰められようと俺が口を割ることはない。

 むしろその発言を待っていた俺は、好機と見てすぐに切り返す。

 "元"恋人である丸山は、俺が撒いた餌がどうしても気になるらしい。


 そして彼の反応から、神条先輩と丸山の間にある歪な関係性は、恋人契約に起因していると確信した。

 恋人契約に潜むデメリット。爆弾。それが2人の主従関係を生んだ要因だと丸山の表情が物語っている。

 グッと息を飲んだ丸山は俺がとぼけていると察しながらも大きく一呼吸を置いて冷静さを取り戻す。


「いえ、なんでもありません。確かに君の言う通り、友人との時間を邪魔するのは不躾でした。今日のところは大人しく帰ることにします」


 笑顔を取り繕い、丸山は神条先輩の肩に手を置く。

 びくりと体を震わせる神条先輩に「また明日」とだけ告げてその場を後にした。


 残された俺たちは丸山の背中を見送り、喜一と神条先輩はほっと胸を撫で下ろす。

 張り詰めた空気が緩和して呼気が漏れる。

 さて、少し目立ち過ぎたな。余計な会話が始まる前に俺たちも解散するとしよう。

 しかし、人通りが少ない席を選んだとはいえ、あまり目立たずに済んだのは運が良かったな。

 ……いや、だから彼女はわざと隣の席を押さえたのか。

 まあいい。その真偽はこれからわかることだ。空気も悪くなったし、一先ず彼らを帰そう。


「俺たちも帰りましょう」


 そう言って自分のグラスを手に取ると、2人も慌てて俺に倣う。

 神条先輩も喜一も俺に何か言いたげな様子だったが、この行動が話す気がないと言っているようなもの。彼らが踏み込んでくることはない。

 グラスを返却したところで、俺は彼らに言う。


「2人は先に帰ってください。俺は少し用事があるので」

「そ、そうか。じゃあ、また明日な」

「ああ、またな」

「あ、天沢くん……今日はありがとう」

「いえ。俺は特に何も」


 ほんのりと笑顔を作り、2人を見送る。

 寮まで送って帰れと言わなくとも喜一ならそうするだろう。それよりも、喜一が2人きりで神条先輩の悩みを聞き出せるかが勝負だ。

 俺の言葉から察することができなくとも、俺が行動したことで喜一の心境に変化が現れているといいが……そちらは喜一に任せておこう。

 俺は、俺を待っているであろう彼女と話しに行こうか。

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