6.スタートライン
男子と曲がり角でぶつかるという運命的で必然的な出会いを経験した神条先輩は、かれこれ1分近く呆然と座り込んでいた。
遠目では神条先輩の表情までは見えないが、喜一との出会いが神条先輩の記憶に刻まれたことは間違いないだろう。印象の善し悪しは別になるが。
俺が接触するなら喜一の印象が薄まらないように別の機会を設けることが望ましいが、このままでは教室に戻ることも出来ない。
喜一が逃げてしまったことで神条先輩との接点も未だ作れていないままだ。こればかりは放っておいてどうこうなる問題ではない。
俺はあくまで偶然を装って彼女に近付いた。
「あの、大丈夫ですか?」
背後から声をかけると、神条先輩はびくりと体を震わせてこちらを振り返る。
まさか特別棟側から人が来るとは思っていなかったのだろう。その表情は驚きの一色だった。
「え、あ、うん。大丈夫だよ」
「手、貸しましょうか?」
「ありがとう」
細くしっとりとした手を掴む。神条先輩はそのスタイルの良さからは想像できないほど軽く、手を引くと簡単に持ち上がった。
「えっと、君は?」
「1年生の天沢です」
「どうしてこんな場所に?」
「友達が少ないもので、校舎裏で1人でご飯を食べていたんですよ」
軽くなったビニール袋を見せると、彼女は納得したように頷いた。
東雲のことをわざわざ伝える必要はない。食事をしていたのは俺1人だったし、言っていることも間違ってはいない。
次の授業も迫っているため話もそこそこで立ち去るかと思っていたが、神条先輩がその場を動く様子はない。
それならむしろ好都合。次に繋げられるようにもう少し会話を重ねておくとしよう。
「神条先輩ですよね。先輩こそどうしてここに?」
「私も天沢くんと似たようなものかな。特別棟でご飯を食べていたの」
「お友達は一緒じゃないんですね」
「ああ、うん。友達は先に教室に戻ったんだ」
「そうなんですね」
彼女が嘘をついているのは明白だが、彼女にとって俺は何も知らない通りすがりの生徒だ。不信感を抱かせないためにも話を合わせる。
しかし、どうして嘘をつくのか。もしかして特別棟に立ち入ったことに人には言えない理由があるのだろうか。
特別棟は昼休みに人が出入りすることは滅多にないが、立ち入りを禁じられているわけでもない。
簡単にバレる嘘をつかなきゃならないとすれば、彼女がそこで行っていた内容が関係していると見ていいだろう。
「倒れていたみたいですけど、何かあったんですか?」
「人とぶつかっちゃってね。急なことでびっくりして起き上がれなかったんだ」
「助けずに立ち去るなんて酷いことをしますね」
「私が悪いんだよ。ぼーっとしてたから」
90%くらい喜一が悪いと思うけどな。残りは俺のせいだ。神条先輩が悪かった部分は全くないと言える。
神条先輩の優しさか? いや、そうは見えないな。
視線を泳がせる彼女は何かに怯えているように見える。
喜一は1年生の中でも体格が良い。大柄な生徒とぶつかって怯える気持ちもわかるが、俺の知る神条紗耶の印象とは合致しない。
そもそも、凛々しく大人びた性格という前情報ですら今の神条先輩とは大きくかけ離れている。
風が吹けば倒れてしまいそうなほど弱々しく、男という存在に嫌悪感や恐怖心を抱いている。そんな雰囲気だ。
少女漫画的恋愛に憧れを抱く乙女や冷血と揶揄される女性とは到底思えない気弱な少女がそこに居る。
もう少し踏み込むべきか悩んでいると、授業開始の5分前を告げる予鈴が鳴った。
その音で正気を取り戻した神条先輩は誰もが知る冷静で落ち着いた彼女に戻っていた。
「助けてくれてありがとう。お礼はいずれさせてもらうね」
「助けるなんて大層なことはしていませんよ。怪我もないようで何よりです」
一歩引いて見せると、彼女は俺の想像通りに首を横に振る。
「そうはいかないよ。私に出来ることなら何でもさせてほしい」
何でもとはまた仰々しい物言いだ。もしかして喜一の印象を塗り替えてしまったのだろうか。全てを自分で仕組んだ仮初の白馬の王子様なんてごめんだ。
出会いの衝撃としては俺よりも喜一の方が大きいと思っていたが、第一印象が悪いというベタな展開は好みではなかったのかもしれない。
これは早急に軌道修正が必要だな。
「わかりました。では、一度カフェでお茶でもしませんか? 俺の親友が神条先輩に気があるようで、紹介させていただきたいんですが」
「……そんなことでいいの?」
「我儘を言えば親友と神条先輩が契約を結んでくれると俺としては嬉しい限りですが、神条先輩の気持ちを無視するわけにはいきませんからね。せっかく出来た縁ですから、せめて一度くらい話す機会を設けてあげたいと思いまして」
「……うん、わかった」
「嫌なら断ってくださいね。無理強いはしたくありません」
「ご、ごめん。そんなつもりは……」
妙な間を嫌悪感と捉えた俺だったが、その予想は少し外れている気がした。
カフェの話までは気になる部分もなかった。契約の話を持ち出した瞬間か、神条先輩の表情が一瞬暗くなったのを俺は見逃さない。
嫌悪感であることに違いはないが、理由は他にある。そんなところか。
俺は神条先輩のことをまだほとんど知らないし、気のせいと言えばそうなんだろうけど。
「神条先輩が嫌な思いをしないように配慮します。万が一親友が暴走しそうなら俺が止めますから」
「し、親友くんはそんなに危険なの?」
「いえ。見た目は多少厳ついですが、普段の彼は至って紳士的ですよ。ただ、好きな人を前にすると人は冷静では居られませんから。念の為です」
好きな人を突き飛ばしておいて逃げ去るような臆病者だ。喜一が神条先輩を無理やり襲うことは有り得ないが、まともに会話ができるとは思えない。
それに、神条先輩を男子と2人きりにするのは得策ではないと思う。
ただでさえ目立つ人だ。異性と、それも後輩と2人きりでカフェにいる姿を目撃されればあっという間にあらぬ噂が広がりかねない。
まあ、俺が立ち会うと言わなくても喜一から懇願してくるだろうし、男子2人に囲まれる方が先輩にとっては好ましくない状況かもしれないけどな。
「……天沢くんは私に好意はないんだね」
神条先輩は消え入りそうな声で呟く。
警戒。不信感。それ以上の安堵に似た感情。
やはり違和感があるが、今の俺にその正体を知る術はない。
彼女の恐怖心が何に起因しているかわからない現状。一先ず警戒されないことを最優先に言葉を選ぶ。
「俺は表面上だけで判断しないだけです。神条先輩は綺麗な方だと思いますが、それだけで好きになるのは軽薄ですから」
相手を傷つけないよう当たり障りなく、けれども下心はないことを強調しておく。
俺が神条先輩のことを好きだと勘違いされでもしたら、途端に相関図が崩れる。修羅場だ。
下心よりも厄介な好奇心を隠し精一杯の笑みを作ると、彼女もやや硬いながらも笑顔を返す。
「君は不思議だね」
「そうですか? 普通ですよ」
「そんなこと……いや、そうかもね。天沢くんのような価値観が本来持つべき思考なのかもしれない」
どこか含みのある言い方に首を傾げて見せると、彼女は「なんでもない」と話を切る。
「お礼の件、天沢くんがそれでいいって言うなら、私も時間を作るよ。放課後の方がありがたいけど……」
「そうですね。俺もその方が都合が良いです。いつにしましょうか」
「そうだね……もうすぐ授業が始まるし、連絡先を教えておくから、君たちで相談して連絡を入れてくれたらそれでいいよ」
「わかりました」
俺の提案を飲んだ神条先輩と連絡先を交換し、俺たちはそれぞれの教室に戻った。
まさかこうも容易く連絡先を入手できるとは。思わぬ収穫だったな。
それにしても、神条先輩は事前に聞いていた情報とは全く違う印象を受けた。
城塞だ冷徹だという話は、彼女が告白を断り続けたことから生まれた噂でしかなかったということか。
彼女については気になる点が多々あるが、それは追々探ればいい。
もしも何か問題を抱えているとしたら、それはチャンスにもなりうるしな。
※※
放課後を迎えると、喜一が一目散にこちらへ駆け寄ってきた。
焦りと困惑。それらが表情に滲み出ていた。
「祈織、お前昼休みどこに居たんだよ」
「カフェにでも移動しないか? ここじゃ少し目立つ」
「あ、ああ、そうだな」
教室という閉鎖空間で神条先輩の話をすると誰の耳に届くかわからない。
俺に矛先が向いても面倒なので、いつものカフェに足を運ぶことにした。
放課後のカフェにも人は多いが、各々が会話を楽しんでいる中で俺たちの話に耳を傾ける酔狂な人間は居ないだろう。
空いている席に座って、改めて話を切り出す。
「それで、昼休みの話だったな」
「ああそうだ。急に特別棟なんかに呼び出されて行ってみりゃ、びっくりドッキリな展開が待ってたんだよ」
「俺は特別棟で待っていただけなんだが、何かあったのか?」
「何かじゃねえよ。神条先輩が居たんだよ」
「そうだろうな。俺も神条先輩を見かけたから喜一を呼び出したんだ」
「え、そうなのか?」
そういうことにしておく。
俺が神条先輩とコンタクトを取って喜一に繋げるという話を勝手に変更して、喜一と神条先輩を直接接触させることにしたんだ。
そんなことを知られれば喜一が文句を言うのは目に見えている。
「神条先輩と何かあったのか?」
「それがよ、特別棟に行こうとしたら神条先輩と曲がり角でぶつかったんだよ。ビックリしたぜ。あんなベタな偶然があるなんてな」
喜一は興奮気味に話すが、残念ながら偶然ではない。
俺が気になるのはその後の話だ。適当に相槌を打って質問を続ける。
「神条先輩と話せたのか?」
「お、おう。ちょっとだけな」
喜一はそうあやふやに答えて目線を逃がす。
何故見栄を張るのか。ちょっとも何も一方的に謝って逃げ出しただけだろ。
逃げた理由やぶつかった際の神条先輩の表情、見えた感情について知りたかったが、動揺して話す余裕もなかった喜一に彼女を観察する余裕なんてなかったのだろうな。
喜一が1人で進展できるならそれに越したことはなかったが、やはり難しいようだ。
「つか、大事なのはそこじゃねえよ。何で特別棟に俺を呼んだんだよ。祈織が神条先輩と仲良くなって俺を紹介するって作戦だっただろ。急に呼び出されたせいで俺は……」
「その点は問題ない。神条先輩と連絡先は交換したし、今度カフェでお茶をする約束も取り付けた」
「えっマジかよ!」
「マジだ。その日程合わせのために呼んだんだが、神条先輩は移動教室だからって先に戻ったんだ。まさかそんなハプニングが起こっていたなんてな。悪かった」
「いやいや全然いいって! むしろ神条先輩が少女漫画好きなら俺にときめいたかもしんねえし、結果オーライ!」
現金だな。こうも手のひら返しに迷いがないといっそ清々しい。
喜一が考えているほど楽観視できる状況ではないが……俺から情報を与えすぎても怪しまれるだけだな。
俺は喜一と同じ目線に立っていなければならない。喜一が知る情報以上のことは吐露しないように気をつけなければ。
俺は届いていたショートメールに目を通し、返信を後回しにして画面を消した。
神条先輩はこちらで決めたら合わせると言っていたが、あまり期間を空けない方がいいだろうな。鉄は熱いうちに打て、だ。
どうにか再会の約束は取り付けられたが、俺たちはまだスタートラインに立ったに過ぎない。
喜一の印象が薄れる前に関係性を深めていく必要がある。
とはいえ、喜一も部活に勤しむ生徒の身。一応空いている日は確認しておこう。
「神条先輩からは放課後ならいつでもいいって言われたけどいつにする?」
「俺もいつでもオッケー。神条先輩のためなら時間くらい無限に作るし!」
「いつでもいいって言われているのにこっちもいつでもいいと返すのは心象が悪いんじゃないか?」
「そ、それもそうか……じゃあ明日でどうだ?」
「喜一がそれでいいなら」
「いややっぱ明後日にしてくれ。心の準備が……」
「心の準備も何も放課後に少し話すだけだろ」
「お前本当に人間か? あの神条先輩と個別に話せるまたとないチャンスだぞ。ビシッと決めねえと次に繋がらねえだろ」
まさか人間かどうか疑われる日が来るとは。人間が誰しも神条先輩と話すだけで緊張すると思っているのか。
少なくとも目の前の男は緊張しているな。2日後のことを考えているだけで既に心ここに在らずだ。準備期間を設けたところで上手くいくのだろうか。
「部活はいいのか?」
「明後日って木曜だよな? ちょうど休みだぜ」
「部活は二の次か」
「部活ももちろん大事だけど、神条先輩とのデートと比べられるもんじゃねえよ」
「デートとは言い難いと思うんだが……まあわかった。明後日だな」
神条先輩に日時を伝えると、すぐに了承の返事が来た。
「神条先輩も問題ないそうだ」
「ほんとお前すげえよ。祈織に頼んだ俺の目に狂いはなかったな!」
「まだ終わってないけどな。とりあえず約束を取り付けただけだ。それに……」
「……それに?」
「いや、何でもない」
「何だよ、勿体ぶるなって」
「喜一が上手くやれるかが全てだって話だ」
「祈織がサポートしてくれるんだろ?」
「サポートはする。だが、俺ばかり話しても神条先輩が喜一になびくことはないぞ」
「そりゃそうか。よし、ばっちり気合い入れてくるぜ!」
やる気だけは充分なようで少し安心した。あとは本番で空回りしないよう神条先輩との仲を上手く繋ぐだけだな。
神条先輩の挙動も気になるところだ。
特別棟で一体何をしていたのか。彼女の様子を見るに、その内容が一番の鬼門になる可能性が高い。
2人の年下に挟まれてそう簡単に真実を話すとは思えないが、俺か喜一に相談できるくらいの仲に運べばいい話だ。
すっかりテンションを上げた喜一と共にカフェを後にして、その日は何事もなく学生寮に戻った。
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