4.エナちゃん

 僕がこちらの島根県にある大学に訪れたのは、たたら製鉄特集という方向で会議が収束したからだった。無論、僕は記者としての力しかないためこう言った歴史学的な話は何も知らない。ただ一企業内記者として、上司から調べて来いと言われた文言だけを刺身のように、盛り付けと鮮度を保った状態で会社に提供する。それが僕の職務だ。


「『あの神』ですか。あれは実に不可思議なものです。一説には中国大陸からの渡来人とか言う話もあって・・・ああそうこれだ。」


 大学教授として鉱山儀礼を専門とする佐山さんは『邑南縁記抄』と表紙に書かれた、辞典よりも分厚いレンガ本を軽快な音を立てて捲っていく。開き始めて本の右下に一〇五と小さく書かれたところで彼の手は止まった。

彼はかけていたメガネを軽く小突いた。


「これが『あの神』と呼ばれているものの司るものです。火・鍛冶場など多々ありますが、まあ民間では主に金属でしょうね。それもたたらの。」


 そう佐山さんが私に差し出した本のページに、小さなフォントでびっしりと並ぶなか、パッと目に入る副題の大きめなフォント。


[是れ、蹈鞴たたらにうたわれしもの]


 そう堅苦しく始まった文言の先には、いろはで順々に並べられた『歌』と呼ばれるものが記されてある。


「これは?」


 僕がそういうと、彼は「仕事歌ですよ」と茶を啜る。


「とは言えど広義的でしたね。たたら歌、もしくはばんこ節と言った方が正しいでしょう」

「それらは一体?」

「昔は今と違って子供も大人の仕事を手伝うのが当たり前でしたからね、その仕事の中で歌ったりする文化があったんですよ。その歌です。例えばばんこ節なんかは、バンコという仕事を担う人が歌ったりとかね。『あの神』もそれらの歌の中に出てくるんです」


 なるほど。そう溢しながらいくらか眺めるようにして読んでいると、下の方に更に副題で[数へ歌]と書かれている項目があった。それは先ほどの仕事歌よりも長く、その全てが一から始まって十まで所々に歌詞が押韻されて紡がれている。


「数へ歌ですか。」


 僕の目線が数へ歌の方へ向いていたのに彼は気づいたのだろう。


「はい、すいません少し気になって。」

「いえいえ。それは近世では民謡の分類としてその名を重石に広く歌われていますが、古くは降神の呪言として用いられていまして。まあいわば言霊信仰の最たる例です。」

「それがたたらの文化圏に?」

「ええ。とは言え、前述の通り大半は民謡、つまり江戸時代ごろの手まり歌が元です。ですがたたら製鉄の一部地域の文化で、正月に『あの神』を降ろして祭をするというものがありまして。平安の時代の話になりますが、その当時この神降の儀で歌われたとされる歌と、この本に収録された一部の数へ歌には類似点のあるものが多々あります。例えばこれとか。」


 そう彼が指差した先には、『一で矢竹いやたけ』と題される歌が書かれてあった。その歌は概ね下記のようなもので。


 『一で矢竹 二で任都につの桃な 三で・・・』と言ったようにこれが十まで続き、最後まで言い終わると『えなちゃんが春に根の中かえった』で締められる。

途中の一から十までには全て植物名でその数に合う押韻が為されており。その中の十種のうち三種が木本植物で、竹を含む七種が草本植物という、何か意味があるのかもしれないが、韻だけを考えたような歌としか思いようがなかった。


「歌い回しまでは私もよく知りませんが、少なくとも『あの神』の神降になんらかの関連性がある可能性は大です」

「なるほど。ところでこの最後に出てくる『えなちゃんが春に根に帰る』とは?それになんというか、春は芽吹くというイメージが強いのですが」


 すると彼は先ほどと変わらない口調で、しかしどこか不気味さを感じる笑顔で話した。


「わかりません」


 そうですか、そう僕は答えて鞄に手をかけたんだと思う。

しばらくの余談を挟んで、佐山さんはそんな私を見送ると言って大学の校門前まで私の後を着いてきた。

 そしてもう大丈夫です。と僕が話した際、彼はそうですか。と安堵の混じったようなため息と共に私の方へ向き直って、一言告げた。


「かわいそうに」


 それだけ残すと、彼は静かに古びた大学の棟内へ帰って行った。

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