反旗を掲げしコキュートス

亜未田久志

序幕 カイナ


 それは穏やかな夕暮れだった。砂漠の国のさらに僻地にある集落。そこにいる銀色の髪が風で少し揺れている。両親よく似た碧眼、一族特有の褐色の肌を見せる青年は酪農で汗を掻きながら生きていた。家族や友人に囲まれ恵まれたこの日々がずっと続くと思っていた。

 その日までは。

「おい、アベル、あれって」

「どうしたの父さん?」

 とある村人が青年に向かって言う。指さした先には人の集団がいた。ただの集団ではない。武装した集団、砂漠を治める帝国軍の兵士たちだ。代々伝わる質素な自分達の民族衣装と比べてその恰好は物々しく見えた。そして彼の父はそれに気づくと息子に忠告をする。

「嫌な予感がする。お前は村から離れろ」

「え、でも、まだ母さん達が」

「いいから早く!」

 一喝されるがままに村から逃げ出すアベル。その背に聞こえてきたのは悲鳴だった。阿鼻叫喚だった。だがしかし、父の「いいから逃げろ!」という言葉が背を押してしまう。どれだけ離れただろう。小高い砂丘の上でアベルは地獄を見た。

 燃え盛る村、首を刎ねられる父、腹を貫かれる母、喉を裂かれる弟、背中から斬り捨てられる友人たち。列挙すれば暇が無い、小さい村だった。皆が家族のような存在だった。その命がいとも簡単に失われていく。幼馴染のイヴの姿を見た。彼女は必死に命乞いをしていた。それが届くようにアベルも願った。しかし、一太刀でその命も奪われた。父の言葉が無かったら青年もまた。村の皆と同じ運命を辿っていただろう。息を殺し、砂丘を降りて村から離れる。父がくれた命を無駄にしてはいけないと、その時は思っていた。

 夜明けが来る。アベルは慎重な足取りで村へと戻った。そこには無惨な死体の山と焼け焦げた町並みがあった。ふと、なにかに躓く。それは紛れもなく刎ねられた父の頭だった。苦悶の表情を浮かべ、その無念をアベルに焼き付けた。

 そして彼は決意する。自分の命の在り方を定義する。それは言ってしまえば簡単で、文字に起こせば呆気のない事柄。アベルの心の中には「復讐」の二文字しか頭になかった。青年は焼け落ちた村を後にする。行く宛もなく砂漠へと歩み出す。


 ・・・


 ただ帝国の首都を目指して歩を進めるアベル。しかし彼はただの農民で、兵士と戦う術など持ち合わせてはいなかった。

 手持ちの食料も尽きかけたところで通りすがりにすれ違った男から声をかけられた。

「おいおい、お前さん、なんて顔してやがる。何があったかは知らないが、うちに来い。飯くらい食わせてやる」

「……そんなに酷い顔をしているか?」

「ああ、今にも死地に向かおうとしてる。そんな感じの顔だ」

「そう、か」

 アベルは男の厚意に甘え、食事を振る舞われた。質素だが確かに美味しいものだった。

 そして男が鍛冶師である事を食事中の世間話から聞かされる。勿論、その場では虐殺の件を青年から話す事は無かったが。

「売れない鍛冶師でね、呪われてるというか、いわくつきの武器しか作れないってんで有名なんだ」

「いわくつき?」

「持ち主を蝕み殺す武器さ。本末転倒だろう?」

「……それでも構わない、俺のために剣を一本、打ってくれないか」

 アベルは男に復讐のための武器を作ってくれるように頼んだのだった。しばし男は思案した後に事情を聞いてきた。青年はついに虐殺の事を話した。それを聞くと男は驚いたような顔した後、何か得心したかのように頷いた。

「ああ、分かった。お前のために剣を打とう。けどな、これは復讐の道具じゃない。お前を護るための物だ」

 正直、アベルは何を言われたか理解出来なかった。持ち主を呪う武器でどう己を護ろうというのだろう。しかしそれは口にしないでおく。剣を作ってくれるのなら異論はない。

 それから数日、剣が出来るまで男――ヤコブと共にアベルは過ごした。毎晩、一族の夢を見た。燃え盛る村と殺されゆく家族たちの姿が瞼に焼き付いて離れなかった。そして剣が出来上がる。

「せっかくだ。銘を打とう。こいつの名はコキュートス。持つだけで己も敵も凍らせる魔剣だ」

 いわゆる両手剣、その刃は氷のように透き通っていた。

「……ありがとう」

「礼はいらない。ただ、お前の行く先をこいつが止めてくれることを願っているよ」

 その言葉と共にコキュートスを受け取るアベル。瞬間、持った手に刺すような鋭い痛みが走った。それは夜の砂漠の冷たさに似ていた。手がかじかんでいく。

「なるほど、確かに魔剣だ」

「こんなものしか作れない。だから砂漠を転々としてる。でもそのおかげでお前さんと会えた。アベル、またな」

「ああ、さよならだ」

 ヤコブと別れる。コキュートスの冷たさを感じながら、青年は帝国首都へと向かう旅を再開した。


 ・・・


 道すがら砂漠を警邏する帝国兵と遭遇する。剣を所持したアベルを捕まえようと彼らも剣を構える。

「一つ聞く、お前達はカインの一族を知っているか」

「知らん、それより剣を下ろせ、今ならまだ――」

「そうか、じゃあ――死ね」

 刹那の出来事だった。ただの農民であるはずのアベルでは考えられない動きをしてみせた。それはアベルが動いたというよりコキュートスが導いたという方が正しかった。ただ彼は魔剣の見せるビジョンのままにその刃を振るっただけ。ただそれだけで帝国兵は袈裟斬りにされた。血は吹き出ない。傷口が凍っているからだ。そして魔剣を振るった代償にアベルの腕の痛みが増す。仕方なくヤコブから貰った薬草の汁に漬け込んだ包帯を両腕に巻く。対処療法でしかないが、まだマシだ。

「これで一人、だけど、まだだ。まだ足りない」

 青年は帝国兵の全てを憎むようになっていた。見境なく膨れ上がる憎悪。アベルはコキュートスを腰に差すと。帝国兵の亡骸を足蹴にして先に進むのだった。

 そこに尊厳は無く、有情もなく、ただ復讐を果たす。その想いだけが彼の足を進めていた。

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