マスターなら聞いてくれる

雲条翔

水と涙と

 夜の街に、静かにネオンが灯る。


 喧噪の中、そこだけ静かな空間があった。

野良猫さえ寄りつかない路地裏で、さびしそうに光るそれは、バーの看板だった。


 私は、なんとなく惹かれ、そのドアを開ける。

 そこは、カウンター席しかない、奥に細長い作りの手狭なバーだった。


 客は、いない。


 天井は低く、ランプのような明かりだけで、全体的に薄暗い。

 店内のBGMは、レコードから流れるジャズ。

 好きな人にとっては、レトロで味わい深い雰囲気なのかもしれない。


 白い口ひげを伸ばしたマスターが、カクテルグラスを拭いていた。


「いらっしゃいませ」


 マスターは、よく通るバリトンボイスで答えた。

 見た感じ、結構な高齢に見えるが、発話も、背筋もぴんとしているし、身なりも上品だ。


 私は、酔ってふらついた足で、なんとかカウンター席に座る。


「ご注文は?」


「いつものやつ!」


「えーっと……お客さん、この店に来るの、初めてですよね?」


「言ってみたかっただけ! 常連感? 常連な感じ、出したかったの!」


「では、ご注文は」


「この店で一番強い酒! グラスじゃなくて、ボトルごと持ってきて! ラッパ飲みするから!」


「……冷たい水の方がよろしいですかね。何があったか知りませんが、若いお嬢さんが、そんなに酔っ払って……はい、どうぞ」


 マスターは、私の前に冷たい水の入ったグラスを出してくれた。

 ごくごくと、一気に飲み干す。喉と胸元が、すっと冷えていく。

 気分が少し落ち着いた。


 今の私は、マスターの目にどう映っているだろう。

 泣いてメイクの崩れた、キャバ嬢とか、そんなところだろう。

こんな時間に、派手なドレスで、高いヒールを履いた客は、そうそう来ないはずだ。


 この店に入るのは初めてだった。

白ヒゲのマスターとも初対面。

 

イヤなことがあった時は、誰かに話を聞いてもらいたくなる。

だが、知人や友人、家族の前で、失態は見せたくない。


だから、いつもは来ないエリアまで足を運んで、私のことを知らない「誰か」に、愚痴を聞いてほしくなったのだ。

そうやって気持ちをリセットして、再スタートするしかない。

 

「ねえマスター、水おかわり」


私が空のグラスを突き出すと、無言でマスターは受け取り、冷えた水を注いでくれた。

そしてまた、私はそれを一気に飲み干す。


「あのねえマスター、男の人ってさあ、どうして……」


 “愚痴語りモード”に、完全に入ろうとしたその時。


「……七百円」


 マスターが呟く。


「え?」


「水、一杯、七百円です。二杯で千四百円。消費税込みです」


「はあっ!? 金、取るのぉー?」


「無料だとは言ってません。あとで文句を言われるより、早めに教えておいた方が親切かと思いまして、このタイミングで申し上げました。三杯目、いきますか?」


「いらんわー! な、な、なんで!? 一杯で七百円っ!? ふざけんな!」


「この店に初めて来たお嬢さん、あなたも運が悪い。今日は、月に一度のウォーター・デー。当店の定期的なイベントで、本日注文できる飲み物は、一杯七百円の水だけなのです」


「だから私以外に客がいねーのかよ! 納得だわ!」


「でも、美味しいでしょう? 私が世界を旅して探し出し、厳選したスイスの山の湧き水に、東京の水道水を八割ブレンドした特別製で」


「スイスが二割!」


「キンキンに冷やせば、富士の名水も六甲の美味しいお水も、スイスも水道水も、水なんて全部一緒ですよ」


「うっわ、台無し発言来た! そしてちょっと、『スイスも水道水も』のあたりがリズム的に面白いと思った自分を殴りたい!」


「三杯目入りまーす! はいどうぞ」


「頼んでないのに来た! ぼったくりバーだな! 水ぼったくり!」


「だって、お嬢さん……いっぱい泣いたから、水分取らないと」


「えっ……」


急に優しい声色になったマスターに、私は不意を突かれた。


 私は、出された三杯目のグラスに、手を伸ばす。


「七百円、払うから……今から、話しながら、いっぱい泣くから……愚痴、聞いてくれる?」


「ええ、とことんつきあいますよ。どうせ今夜は、他にお客も来ませんし」


 にっこりと微笑むマスター。実は、いい人なのかも。


「泣いて、リセットして、再スタートしたい夜もあります。そんな夜のために、私みたいな人間がいるんです」


「……ありがと」


◆ ◆ ◆


 その晩の「ウォーター・デー」は、店内に泣き声が響いていたが、途中から笑い声に変わった。

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