『鈴の音』
翡翠
鈴の音
湿った風が鼻先を撫でる、午前七時四十分。地面いっぱいに広がる黄色い絨毯は、しなしなになって踏み応えもない。落ち葉の醍醐味を奪われた、なんて大袈裟に思ってみる。
今日は平日ながら仕事が休みであることをすっかり忘れ、大慌てで家を飛び出した。気付いてすぐは自分を恨めしくも思ったが、なんだかんだで外の空気を楽しんでいる。寒いばかりでない秋の朝などいつぶりだろう。ここに辿り着くまでに、気付けばいつもの二倍近い時間が経っている。
たったったったっ。軽く速い足音と共に、後ろから幼い声が近付いてくる。女の子だろうか、はやくはやく! と叫んでいる。もう少し後ろの方で答える声は、まだはっきりとは聞き取れない。
そういえば、私は追い掛ける側だったな。斜向かいに住んでいた同い年の女の子が前を走って、何歩分も遅れた私を急き立てるのが常だった。幼い私は、置いていかれないように、一人になってしまわないようにと必死に走って後を追った。今ならどうだろう。先に行っててと一言放って、友人の背を見送る気がする。まぁその前に、遅刻でもないのに走って急かしてくる友人もいないか。私たちは多分、それを小学校と一緒に卒業したのだ。
ふわりと柔い風が左手に当たる。楽しげにポニーテールを揺らす少女が、すぐ側を通り抜けて行く。ピンクのランドセルに、蛍光黄色のカバーを着けている。まだ一年生だろうか。そんな彼女から遅れること数秒、息を切らした少年が、かけ足で私を追い抜いた。その瞬間、チリンと乾いた音がした。
既に疲れているのか、少年は走っては歩き、走っては歩くのを繰り返している。それでも私との距離は次第に離れて、やがて二つの蛍光色は角を曲がって見えなくなった。
確か、駅を超えた先に小学校があったな。このまちに来てから、まだ一回も近くを通ったことがない。チャイムの音だけ知っている小学校。あるらしいことは知っていても、正確な位置やその姿までは分からない校舎。どうでもいいけど、都市伝説ってこうやってできるんだろうか。
間違えて家を出ただけの、行き当たりばったりな散歩道。どこまで歩くか全く考えていなかったことを思い出して、曲がり角の手前で立ち止まる。ここで曲がらずに行くとスーパーがある。お菓子を買って買えるのもいいな。
「でもなぁ」
一人呟く。いつもとは少し違う所を歩いてみたいと思った。こういう時でもないと、同じ道しか通らない気がする。
迷っていた時間は僅かに数秒、私は角を曲がった。伝説の小学校に行ってみることにしたのだ。まぁ、移住して半年のよそ者が場所を知らないというだけで、勝手に伝説にされても困るか。
駅目前で右手に逸れて、次の交差点で左に曲がる。ここから先は未知の領域だ。スマホで地図を出せば簡単に着いてしまうのだろうけれど、なんとなくそれは悔しいのでやめる。殆ど自力で考えずに謎解きの答えを教えてもらうのと、少し似ている気がする。
不意に何かを蹴った感覚があった。足元に目をやると、片手で握れる程度の小さなポーチが落ちている。水色のそれを拾い上げると、中からチリンと音が聞こえた。
「あれ、この音……」
さっき聞いた、少年の音に似ている気がする。中を開けると、銀色に光る鍵が一本。小さな鈴が付いている。彼が落としたのだとしたら、家の鍵だろうか。届けなければと使命感を覚えて、ポーチを閉じる。……届ける? どこに?
本当にこれが少年のものかどうかは分からない。鍵に鈴を付けることは珍しくないし、水色のビニールポーチも百均に売っていそうなシンプルなもので、むしろ中高生が落としたと言われた方が納得できる。こういう場合、交番に届けるのが普通だろう。
けれど、私は迷っていた。もしもこれが少年のものだとしたら。鍵を失くしたことに気付いているだろうか。焦って泣いているかもしれない。あるいは全く気付かずに家に帰って、そこで初めて鍵の不在を知るかもしれない。目の前の家に入れないのはかなり心細い。経験者は語る、だ。それなら小学校に持って行って、誰か大人に話を通して、彼に自分のものかどうか確かめてもらおうか。しかし、本来であれば大人しく交番に届けるべきところを、鈴の音を聞いたというだけで小学校に持って行くなど、ほぼ不審者に近いのではないか。信じて中に入れてもらえればいいが、このご時世だ。門前払いを食らう可能性だってあるし、最悪の場合、警察に通報されやしないだろうか。
うんうんと唸る勢いで考えた結果、小学校に行くことにした。なんとなく、あの少年には泣いてほしくないと思った。
こうなれば仕方がないので、大人しく小学校の場所を検索する。現在地から徒歩約五分とは、思っていたより近くにあるらしい。真っ直ぐ歩いて、最初の信号を左に曲がる。そこからまた真っ直ぐ行くと、右手にクリーム色の校舎が見えてきた。緊張しながら校門を通り、広いグラウンドの横を歩く。この小さなまちに、果たしてこのグラウンドを埋めるだけの小学生はいるのだろうか。
玄関が手前と奥に一つずつある。手前側は児童用らしく、開く気配がない。ならばと思い奥の玄関に向かうと、扉の横にインターホンを見つけた。恐る恐る押して、サワラと名乗った先生に事情を話してみる。駅に向かう道で少年から鈴の音を聞いたこと、ポーチはここに来る途中、少年が通ったはずの道で拾ったこと、手元の鍵にも鈴が付いていること。こうして言葉にしてみると、なんだか急に選択を誤ったような気がしてくる。やっぱり今からでも交番に届けようか、と考えていると、すぐに鍵が開いた。それまでの心配を裏切るように、サワラ先生の案内で簡単に中に入れてしまった。聞けば、ちょうど先生の担当クラスに鍵を失くした児童がいると言う。
「連れて来ますから、こちらに掛けてお待ち下さい」
そんなに簡単に子どもと会わせていいんだろうか、と自分の行為を棚に上げつつ、職員室で待つ。ここに来るのは初めてなのに、なんとなく懐かしさを感じる。建付けの悪そうな窓とか、黄ばんだ扇風機とか、どことなく自分の母校と通じるものがあるからだろうか。
「お待たせいたしました」
ものの数分で先生が戻ってきた。その後ろには、小さな男の子の姿がある。
先ほどの少年だ。
「アツトくん、これ――」
「あ! おれのかぎ!」
先生の言葉を皆まで聞かず、アツトと呼ばれた少年は先生の手からポーチを取った。
「そっか、良かった。そこのお姉さんが拾ってくれたんだよ」
先生に言われて、慌てて微笑む。少年と目が合う。すると、アツトくんは屈託のない笑みで言った。
「おばさん、ありがと!」
「おばっ…………」
まだ二十代と思っていたが、彼からすれば二十七歳も三十云歳も変わらないらしい。……まぁ、それもそうか。私だってそうだった。
苦笑する先生とアツトくんに別れを告げて、玄関を出る。気付けば、アツトくんを最初に見かけた時よりも陽が高い。乾き始めたアスファルトを軽い足取りで進む。イチョウの葉は、未だぐったりとしている。
明日からまた、仕事が始まる。
『鈴の音』 翡翠 @Hisui__
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