秘密
石田くん
第1話 君に産声を上げさせる
君に産声を上げさせる。
それがいい。
目を開けると、眩しさの後に女性の顔が見えた。
その女性はこちらの目を覗き込むように首を前に傾けているので、ボブヘアが柔らかに重力に従って流れている。
不可解な状況に言葉が出ないままでいると、その女性が口を開いた。
「大丈夫?」
髪と同じで、春の太陽の光のように柔らかな声をしている。
おはよう、でも、状況の説明でもなく、開口一番に大丈夫かと聞かれたことを不思議に思いつつ、大丈夫です、と答えようとして口を少し動かすと、
「痛っ!」
こめかみあたりに激しい痛みが走ってすぐにその理由がわかった。
「あぁごめん!何もお話ししなくて大丈夫だから!」
体の不調があるときに話しかけられたりすると話しかけてきた人を疎ましく思ってしまうのはよくあることだが、この女性の声や、本当に心配してくれている様子が、そうはさせない。
少しの間その女性と僕は黙っていた。
どうやら僕は少し前に怪我をして、その場に居合わせたこの女性が隣町の公園のベンチで僕に膝枕をして介抱してくれている、ズキズキと痛む左側頭部には、濡らしたタオルが当てられている、という状況だろう、と、少しの沈黙の間に考えた。
しかしなぜそんな状況なのかは、よくわからない。なんだか頭がぼんやりして、それ以上はまだよく考えられないと思ったので、そこで考えるのをやめてしまった。
また少しして頭も冴えてきた。今病院にいるわけでもなくこの同年代の高校生ぐらいの女性に介抱してもらっている状況は不可解だが、とりあえずこの女性には帰ってもらった方がいいだろう。迷惑であろうから。と思い、先ほどのような痛みがくることを恐れながらも口を開いた。
「すみません、ありがとうございます」
まだ言葉を続けようと思ったのだが、次の言葉を発するまでの間に割り込むようにして女性が口を開いた。
「大丈夫?」
「少し痛みますけど大丈夫です」
「そっか、」
とりあえず膝枕から抜け出して、女性の隣に座り直す。
「動かなくていいよ」
気遣ってくれるが、
「いや大丈夫です」
と答えた。まだ頭は痛むが。
「ごめんなさい介抱してもらっちゃって」
なぜ救急車を呼んでくれなかったのか、と思いつつ、感謝の言葉を伝えると、女性は不思議そうに
「何でそんな敬語使うの」
と、返した。
訳がわからない、と思いつつも、
「いやもちろん、だって初対面の方ですよね?」
と聞くと、
「違うよぉ」
と、女性は笑って返した。
記憶を辿っても、どこにもその女性の姿はない。
少し息を呑んでから、
「私だよ、君の彼女だよ」
と、その女性は言った。
笑いながら答えるその女性は僕の言葉を冗談だと思っているのだろうが、本当に全く誰だかわからない。一瞬黙った後、僕ははっきりと伝えた。
「ごめん、ほんとにわかんない。」
僕が口を開いた瞬間にはまだ笑っていた顔が、段々と真剣になっていく。あまりに真剣に言う僕を見て、事の重大さに気付いたのだろう。眉尻を下げて、少し悲しそうな顔になった彼女は
「え…?」
と言った。どうやら僕は、この怪我で彼女のことを忘れてしまったらしい。
とりあえず病院に行かなくてはならないと思い、自分の彼女と思しき女性には一度帰ってもらうように言ったが、その女性は今すぐ病院に行くよりこのベンチで安静にした方がいい、と、やけに強く主張した。そんな訳はないだろう、と思ったので、やはり病院に行くことにすると伝えると、心配なので着いていくとその女性は言った。とても心配してくれている様子を見て、本当にこの人は僕の彼女なのかもしれない、と思った。
病院に行く道で、彼女は僕の怪我について説明してくれた。
彼女は僕と同じ高校二年生で、名前を明日香というらしい。今日は僕と彼女で散歩していた。そこで曲がり角に差し掛かった。彼女より少し先に曲がった僕は、角の反対側から来る自転車を避けようとして、ブロック塀に頭をぶつけた。そして倒れて、今に至る。とのことだった。記憶喪失とはいえ本当に初対面のような気がしてしまったので、なぜ救急車を呼んでくれなかったのか、と聞く気にはならなかった。
病院では医者に何度も不思議そうな顔をされた。本当に明日香のことだけを綺麗に忘れてしまっているからだ。自分の名前も、住所も、友人との思い出も、他のことは全て思い出せる。医者がパソコンを見ている間に、頭の中で半角の公式も導出できた。親まで呼ばれて、CT検査をしたが異常はなかった。駆けつけてくれた母親に明日香のことを伝えたことは無かったらしく、僕に恋人がいることに驚いていた。明日香の明るさもあってか二人はすぐに打ち解けていて、とても安心した。
それから三か月が経った。今日は20日。記憶喪失になる前を含めても初めて、明日香の家に行くことになっている。自転車に乗って、LINEで送られてきた住所に向かう。
こじんまりしているが存在感のある一軒家に着いた。インターホンを押して「明日香さんの友人です」と母親らしき人に伝えると、今日僕が家に来ることを伝えられていなかったのか、慌てた様子だったが家に上げてくれて、今明日香は出かけているので二階の明日香の部屋で待っていて、と言ってくれた。明日香の方から家に招いてきたのに家にいないのはなんだかな、と思いつつも、そんな違和感は愛情で十分に埋め合わせが利いた。きっと明日香も忙しいのだろう。そういえば明日香が日頃何をしているのかという事についてはあまり聞いたことがない。今日は時間もたっぷりあるわけだし、家なので誰にも邪魔されないし是非聞いてみよう。そんなことを思いながら、これから訪れるであろう楽しい時間に胸を躍らせて、明日香の部屋へと続く階段を上った。明日香の母親によると、二階の一番奥が明日香の部屋らしい。ほんの少し湿ったドアノブに手をかけて、明日香の部屋の扉を開けた。
ドアを開けるとすぐに、少し甘い匂いがした。明日香の部屋は角部屋で、ドアを開けた瞬間に奥の壁二面にカーテンの閉まった窓が見える。窓のある壁でつくられる角にはまるようにベッドが置いてあり、寝具は少し乱雑な感じで、少し前まで使っていたかの様にも見える。ベッドの向かいを見ると、勉強机が置いてある。勉強机の横の壁には、大きなコルクボードが立てかけられていて、そのボードにも入りきらないほどの量の写真と付箋が、壁にまではみだしてそこには貼ってある。
ドアを閉じて完全に部屋に入り、その机に歩み寄る。
そのコルクボードに貼ってあるもの達を見た瞬間、僕はなぜだか鏡を思い出した。そして次の瞬間、その理由がわかった。そこには僕の写真が大量に貼ってあった。制服で歩く僕の写真、私服で角を曲がる僕の写真、僕の学生証の写真、自分の部屋で寝る僕の写真、そして公園のベンチで彼女の、明日香の膝の上に眠る僕の写真があった。それぞれの写真には数枚の付箋が近くに貼ってあって、日付や場所等が書いてある。きっと写真を撮った時と場所の情報に違いなかった。傍らにセロハンテープで誰かの髪の毛が貼ってある写真も多々あった。
僕は息を呑むと同時に一歩引いて、
秘密 石田くん @Tou_Ishida
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