狐面のヒト

翡翠

狐面のヒト

 ある夜、近所の神社にて。会う度に常に面を着けている男――かどうか判然としないが、便宜上「彼」とする――は、その理由を「醜いからだ」と答えた。

「なになにし辛いという意味で、難いを動詞の後ろに付けるだろ。食べ辛いは食べ難い、押し辛いは押し難い、見辛いは見難い。醜いの語源は、きっと見難いだ。見ているのが難しいから、見るに耐えないから醜い。この言葉だけ別の字が充てがわれたのは、人間の感情に直結するからだと思っている。この言葉から滲み出るのは、強い嫌悪だ」

 声には相変わらず温度がない。

「ヒトは、己の持つ物差しで測った『普通』から、外れたものを忌避、嫌悪する。だから大体の人間にとって、醜いことは恐怖や悪と同じなんだ。「醜」という字の左側は酉、要するに酒だ。そして右側が鬼。鬼はヒトの敵だ。今度昔の絵巻でも見てみるといい。鬼が美しく描かれていることなどまず無い。怖い、悍ましい、そして醜い。それが鬼だ。人命を脅かす恐ろしい敵が酒を飲む異様な光景。すぐにでも目を逸らし、可能ならその場から立ち去りたいと願うだろう。醜いという字はそういう字だし、つまり根底にそういう感覚がある。醜いは怖い、怖いは憎い。だから、隠している」

 私は彼の、文字通り素顔を知らない。安易な否定もできず、かと言って肯定するわけにもいかず、結果としてその場を支配したのは沈黙だった。私の困惑が分かったのか、彼は言葉を繋いだ。

「醜いのは事実だ。あの人間たちにも、何度言われたか知れない」

 緊張感に貼り付く喉を抉じ開けて、人間? と絞り出すと、彼はピタリと手を止め、緩慢な動きで首だけをこちらに向けた。

「人間は人間だ。戸籍とやらの上では『親』にあたる存在らしいが、オレ自身は別にそうとは思っていない。そもそも、同種の生物かどうかも怪しい」

 笑う狐面の下で鈍く光る視線と、私の視線がぶつかった。

「人間とは、社会的なヒトのことを指すらしい。であれば、恐らくオレは人間ではない。まぁ、遺伝子的にはヒトで間違い無いだろう。手も足も耳も、疑う余地も無いほどにお前たちと同じ形をしている」

 目を逸らすことができなかった。首から下の装いは、私たちと何ら変わらない。それなのに、腹の底から湧き上がるような震えを感じる。異質だ。異様だ。異常だ、彼は。何が。面を着けていることじゃない。まるで機械でも相手取っているかのような無機質さと、寸分の光も見えない彼の背景が、だ。これは、底無しの闇だ。

 いつの間にか彼は立ち上がり、ゆっくりと遠ざかって行く。私はそれを、ただ黙って見送った。


 以来、彼に会うことはなかった。

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狐面のヒト 翡翠 @Hisui__

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