秘密

つきたておもち

秘密

 湯気立つケトルの細長い注ぎ口からゆっくりと、ふたり分用意したカップそれぞれに準備したドリップコーヒーにお湯をまわし淹れる。お湯を含んだコーヒーの粉はふわっと膨らむと、すぐに部屋の中に良い香りを漂わせた。

「この日はタカユキさん、ぼろぼろだったわね。」

 対面式キッチンカウンターの向こう側、隣の家に住むいとこのカナが椅子に座りダイニングテーブルの上に置きっ放しになっていた、つい先日、式を挙げたふたりの子どもたちのハレの姿が散りばめられているアルバムを捲りながら、少し可笑しそうに笑う。

「まぁ、仕方がないか。タカユキさん、サヤちゃんのこと凄く可愛がっているし。まんま、目に入れても痛くない存在だもんね。サヤちゃんは。」

 綺麗だよね、サヤちゃん、と、そのアルバムをゆっくりと捲りながらカナはしみじみといった感で、そう呟いた。

「ホンと、ごめんね。」

 どうぞ、と淹れたばかりで良い香りが匂い立っているコーヒーカップをカナの前に置いたのと同時に、カナはアルバムへと落としていた視線をあげ、そう謝る。

 わたしはカナの謝罪の意味がわからなくて、え?と訊き返しながら、自分のカップ片手に持ったまま、彼女の隣の椅子に腰を掛けた。

「イケオジのタカユキさんが、ぼろぼろだった原因。ほら、ウチだから、さ。」

 苦笑しながら彼女がアルバムの中の指差す一枚の写真には、カナの息子でサヤの夫になったトモくんが写っている。

 それはとても柔らかで優しげな瞳で、サヤを見ているトモくんだった。

「イケメンだよね、トモくん。とても優しいし、穏やかだし。サヤを小さな頃から、大事にしてくれていたし。小さいときからトモくんにはお世話になったなぁ。」

 しみじみといった口調でそうカナへ言葉を返すと、わたしは手にしていたコーヒーをひと口、口にする。

 カナもわたしに倣い、カップを持ち上げソレを口にした。

「サヤがトモくんと一緒になったことは、パパも嬉しいんだけどね。嬉しさ半分ってとこで、あと半分はサヤが自分の手から巣立って行った淋しさと、トモくんにサヤを取られた悲しさだな。アレは。」

 アルバムがサヤたち夫婦の手から届けられたその日の夜から、タカユキはそのアルバムを肴に毎晩飲んでいる。その後姿は、一気に老け込んだように見える。

 家族が増えたんだよ、と慰めを言っても彼は、理解に感情が追いつかない、と言い、いまだ時折うっすらと涙を浮かべる。

「あぁ、コレがいちばん、パパは堪えたみたいだわ。」

 カナがパラリと捲った先にあった、一枚の写真。ふたりの誓いのくちづけの決定的瞬間を捉えた写真だ。

 帰ってきてからのその夜も、彼を慰めるのが大変だった。

 サヤが幸せそうで良かったじゃん、や、トモくん良い子なのパパも認めているでしょ、と言っても彼はわたしの言葉は耳に入らず、彼は家に入ったその足で真っ直ぐに台所へ向かい、冷蔵庫からアルコール濃度の高い缶中ハイを取り出すと、陰鬱な雰囲気を醸し出しながら、ひとり飲みをし始めた。

 もともと自棄飲みをするつもりで彼が買い置きしていたアルコールだったし、その行動はわたしからすれば予定通りのモノだったので、わたしも黙ってソレに付き合った。

 最初は陰陰鬱々で、黙って飲んでいた彼だったが、酔いが回ってくると、小さい頃はパパと結婚すると言っていたのに、と愚痴が入り出し。それでも、トモくんの悪口を一切口にしなかったということは、なんだかんだ言っても、タカユキもトモくんのことを気に入っている証拠だった。

 わたしたちはサヤがわたしのお腹の中にいるときに、カナの家の隣の建売を購入して、引っ越してきた。

 だからタカユキは、トモくんのことは彼が幼いときから知っていたし、サヤが生まれてからも、トモくんがサヤの面倒を見てくれていたところもあったから、トモくんは自分たちの恩人だと認識はしている。ただタカユキは、それを理解はしているけれども、父親の感情として、淋しさを、ひとり娘で愛娘であるサヤが巣立っていた淋しさを、どこかにぶつけたい思いを持て余していることも、彼の妻であるわたしはなんとなく、わかる。

 もともとアルコールに強くないタカユキは、アルコール濃度の高いロング缶の缶中ハイを一本空ける頃には酔いつぶれてしまっていた。

「この夜、『パパがサヤのファーストキスの相手だもんね』って言って、パパ、酔いつぶれたんだけどね。」

 わたしの苦笑交じりのその科白に、カナがアルバムに落としていた視線を勢いよく上げる。

「タカユキさん、知らないんだっけ?」

 そのカナの瞳には、哀れみと申し訳ないといった色が浮かんでいる。

 タカユキが言ったように、普通は子どものファーストキスは、家族だと思う。父親が、母親が子どもに愛しさの意味を込めて、生まれてすぐの頃に口付けを贈る。

 けれども、サヤの場合は。

 産科からサヤと一緒に退院した当初は、タカユキはサヤをうまく抱っこできなかった。くにゃくにゃのぐらぐらで、怖い、と言って、サヤをおっかなびっくり抱っこするのに、2週間くらいは時間を要したと思う。育児をしたい、といったタカユキの前向きの気持ちはよく見えていたので、ゆっくりと根気良く教えながら、またわたしも彼と一緒に学びながら育児をしてきた。幸運なことに、隣家はいとこのカナの家族が住んでいて、育児についてはすでに3人の子持ちのカナの家族は、わたしとタカユキにとっては大先輩だった。

 困っていることはない?と、カナは1歳を過ぎたばかりのトモくんの弟を連れて、頻回に様子を見に来てくれていた。とてもありがたい存在だ。

 そして、事件は起きた。

 けれどもソレは、わたしからすれば、まったく気にならない出来事だ。

 産科から退院したばかりのわたしを気にかけて、手伝うことはないか、とカナが退院後初めて来てくれた日だった。その日はトモくんも一緒に来てくれていて。

 最初はトモくんは弟の面倒を見ていたのだけれど、気が付けばトモくんはサヤの寝ているサークルベッドを覗き込んでいて。そして、大人が止める暇なく、寝ているそのサヤにくちづけをしたのだ。

 その当時、カナの家では家族でキスをする遊びが流行だったらしい。キスは仲の良い人同士の挨拶なんだよ、ってカナたちは教えていたらしい。

「僕と仲良くしてね、って挨拶のキス、だよ。」

 と、トモくんはサヤにくちづけた理由を、ケロリ、とした表情でそう述べた。

 カナは、ごめんねっ、といたく恐縮していたが、サヤと仲良くしたいといったトモくんの気持ちは嬉しかったので、これからサヤと仲良くしてね、とわたしは笑ってトモくんにそう返した。

 この事件後、カナの家では、キスの遊びは家族限定で、と再度、きつく、決まりごとの念押しをしたようだけれど。

 サヤは新生児だったので、そのできごとの記憶はもちろんなく、トモくんも幼かったからか、忘却の彼方のできごととなったようだ。

 だから、そのできごとは、わたしとカナだけしか記憶になく。

 サヤのファーストキスはパパだと、タカユキは信じて、現在はソレにすがって心の平衡を保っている現状に、ホントウのことを知らせるには忍びなく。

 とても申し訳なさそうな表情のカナに、わたしは悪戯っぽい笑みを浮かべながら立てた人差し指を、自分の唇に当てた。

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秘密 つきたておもち @tenganseki

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