贖罪の始まる日

透水

第1話

 雑に巻かれた布のせいで、満足に叫び声も上げられないまま、レンの身体は宙を舞った。幸いにも、狭い路地を縁取る壁にはぶつからず、地面を滑った衝撃で布が外れる。背中側で両手首を戒めていた縄は、元から緩かったのは知っていたので、激しく身じろぎすれば両腕は自由になった。


 自分を攫っておいて放り投げるなんて、と身を起こせば、先を走っていたはずの男が、目を見開いたまま倒れ伏していた。彼のそばで立っていたのは二人だけで、ついさっきまで自分を抱えていた男と、彼に対峙する男だ。


 仲間割れでないのは、レンにもすぐわかった。さっき自分を捕らえてすぐ走り出した彼らは、確か三人はいた。しかし、似たような格好をしていたようだから、自分を抱えていた人攫いと向き合う彼――フードを目深に被り、さらに目元を何かで覆いかくしているせいで、目玉のきらめきが逆に目立って見えるその男の乱入が、自分が放られた原因であることは確実だった。


 その新たな男は、人攫い達を襲った。だからこうして、レンを抱えていた人攫いは刃物を抜き、殺気を露わにしているのだ。だというのに、男は構えるどころか、ただ突っ立っているだけだった。


 レンが立ち上がると、さらに奥にもう一人、人攫いの仲間が倒れているのが見えた。男の目玉が動いてレンを捉えるのを、人攫いは見逃さなかったようだ。切っ先を男に向け、全身の力をかけて突き刺さんと突進した。


 レンが声を上げる間もなく、二人の男がぶつかる。レンはその光景を見たつもりだったが、まばたきした瞬間、そこには一人の人間――人攫いの姿しかなかった。


「失礼」


 頭上から声が降ってきたかと思うと、いまだ少年の域を脱し切れていないレンの身体が、いとも簡単に抱え上げられた。そして、またもや宙に放り投げられるような浮遊感に襲われる。

 だが、今回はそのまま落ちることなく、むしろ最後までしっかり支えられていた。降ろされた場所は、今までいた路地を見下ろせる、屋根の上だったことには驚いたが。


「ここでじっとしているんだ、いいね」


 大きな手が、レンの肩をすっぽりと包む。何が起きているのかさっぱりわからないままレンは振り返るが、そこには青空が広がるばかりだ。そこに、眼下となった路地から叫び声が上がれば、レンの注意はそちらに向けられた。


 最後の人攫いが、腹を押さえながら地に伏したところだった。全身を覆い隠すようなマントを翻し、男がこちらを見上げてくる。彼の目元を覆っていたのは、どうやら仮面のようだった。


 もっと目を凝らそうと覗き込むと、また彼の姿が消えた。途端にレンの視界が、大きな何かで遮られた。革に布。これは脚だ、と理解した時には、脚の主は屈み込み、レンの顔を正面から見据えてきた。


「怪我はないかな」


 男の声は先ほどと違い、くぐもっていた。さっきまではなかった布が、彼の口を隠してしまっていたからだ。寒い日ではないのにどうしてだろう、とレンは思ったが、その声色も、仮面から唯一見える黒っぽい目も優しげで、この人は自分を、悪いやつから助けてくれたのだ、という思考にやっと至ることができた。


「平気です。すごい、将軍様の力を間近で見れるなんて」


 レンははしゃいだが、当の男のほうは、一転して伏し目がちになった。その様子に、レンは首を傾げる。


 普通の人が持ち得ない異能。それらを身に宿す者は、将軍の地位を得る。戦いに特化しないものであれば例外はあるらしいが、それでも高い地位を得られるのは間違いない。小さな村で暮らすレンですら知っている、この国では常識のことだ。


「すまないね。ぼくは将軍でも、偉い立場の人間でもないんだ」


 確か、異能を持つ人達のことを指す呼び名があったはず。しかしレンは、異能を持つ者はつまり将軍様である、という“当たり前”だけを覚えていた。まさか、将軍様でないのに異能を持つ者が存在するとは思わなかったので、レンはその呼び名がなんというか、まったく思い出せなかった。


「では、これから王城に向かわれるんですね。ぼくも一緒に行って、助けられたことをお話ししたら、お力添えになりませんか?」


 あわよくば城を見に行けないだろうか、という下心も乗せて、レンは提案した。きっとこの人は、力に目覚めたのがごく最近だったに違いない。

 異能の発現する時期には、個人差があるらしい。ほとんどは言葉を話し始めた頃から、畑の管理や狩りを一人前にできるようになるまでには、と言われている。


 だが、レンの前にいる彼は、それに当てはまらないように見えた。背は村の大人達より高く、十五にもならないとはいえ決して軽くはない自分を、軽々と抱えたのだ。それが異能の一部である可能性もあったが、彼の声は、薄っぺらなレンの服が震えているのでは、と思うほど低く、またしゃがれてもいた。


 よじれたレンの服を整えてくれた手は骨ばっていて、皺もよく見えた。下手をしたら、孫が生まれるのを待つばかり、といった年齢かもしれない。


「ありがとう。ぜひ頼みたいところだが、ぼくは王城に行くところではないんだ。このあたりに出ているという、人攫い達を探していてね」

「もう殺されたではないですか」

「うん、でも噂を聞きつけてそれに便乗しようと、別の一団が寄ってくることがあるんだ」

「なるほど、まとめてやっつけるんですね。ぼくは村からここに来てるだけですが、町の人にも聞いてみます、役に立つ話がもらえるかもしれません。あと三、四日は通うので、お話しできる場所と時間を決めませんか」


 隣に腰を下ろした男は、不思議そうにレンを見やった。王城には行かない、と告げたのに、助力を申し出てくるのだから、当然でもある。


 マントがめくれて見えた、彼の厚い布の衣服には、レンが見たこともないくらい、大小のベルトがいくつも巻き付き、そこには小ぶりのナイフが並んでいたり、小物を詰める袋が下がっていたりした。


 さっきの人攫いのように、村人や旅人を襲う集団は少なくない。彼らを退けながら旅をするには、これくらいの武装は当然だろう。この武装にどこか違和感を覚えたレンだが、その正体をこの場で突き詰めることは考えなかった。


「情報をもらえるのは嬉しいが、ぼくはまた別の町に向かうんだ。助けてもらっても、お礼として君を連れてはいけないよ」

「構いません。あなたの力になれるだけで、ぼくには一生ものの自慢話ができるんです」


 レンは確かに、王城について行けないことにはがっかりした。だが、よそから来た人間の、しかも異能を駆使する男の手助けをする、というだけで、十分に心躍る非日常だったのだ。

 男は空を見上げて、小さく息を吐いたようだった。諦めの悪い子供だと呆れたのか、その熱意に恐れ入ったのか、レンにその真意を知る手がかりはなかった。


「わかったよ。では一つだけ、守ってほしいことがある」

「なんでしょう」

「ぼくのことを、誰にも話さないでほしい。ああ、ぼくがこの町にいるあいだだけだ、心配しないで。ぼくという人間がここにいること、君とぼくに関りがあることは、黙っていたほうがいい。これは君を守るためだ。どんな形で、新たな人攫いの耳に入るかもわからないからね」


 それもそうだ、と、レンは身を乗り出しながら、迷わずはい、と返事をした。男がわずかにのけぞったように見えたのは、その声があまりに大きくなってしまったからだと、レンは叫んだ後に気づいたのだった。

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