それはそこにいる:02
部屋にどうにか帰れた千尋は、化粧も落とさず、シャワーも浴びずに布団の中へ逃げ込んだ。
エアコンをつけるのすら忘れて。
電気はつけたまま、エアコンもつけ忘れ、蒸し暑い部屋の中で、布団の中で千尋は震え、蒸し暑さを我慢し続けた。
千尋は布団から出るのさえ怖かった。
エアコンのリモコンはすぐそこにあるのに、手を伸ばせばすぐ届くのに。
それすらできなかった。
布団の中から手を伸ばせば、その手を掴まれる気がして、それすらできなかった。
今安全なのはこの布団の中だけだと、そう思えてならなかった。
今の千尋にできることは、息を殺して、蒸し暑さを我慢し流れ出す汗も我慢し、布団の中で震えることだけだ。
帰りにコンビニで買ったアイスももう完全に溶けてしまった頃だろうか。
千尋は意識を失って布団の中で寝ていた。
極度の緊張状態に精神が疲労してしまっていたのかもしれない。
その結果、夢を見た。
そこは自分の部屋だ。
現実と同じく布団の中で寝ている。
新しく春から住みだした、自分だけの部屋。
生意気な弟も、口うるさい母もいない、自分だけの、自分しかいない部屋。
そこに誰かがいる。
誰かはわからない。
夢の中でも千尋は布団の中で寝ているのだから。
それでも誰かがいると千尋には理解できてしまった。
それは玄関の方から、ゆっくりとゆっくりと一歩一歩近づいてくる。
目に見えていたわけじゃない。
でも千尋には、自分に、布団の中で意識を失ってしまい、寝ている自分に近寄ってくるナニカがいることがはっきりと分かっていた。
もしかしたら、この時点で夢だとは理解できていたのかもしれない。
逃げ出そうとしても体が動かない。
夢だからなのか、半覚醒状態だからなのか、それとも金縛りという奴だからなのか。
それすらもわからない。
ただ千尋は焦ってもがこうとするも、体は思うように動いてくれない。
息苦しい。
暑苦しい。
今すぐに起きなくちゃいけない。
様々な思いが頭の中をめぐる。
そうこうしている間にそれはどんどん近づいてくる。
もうすぐそばまで近づいてきている。
千尋が寝転がっているすぐそこまで来ている。
千尋が、起きなくちゃ、起きなくちゃ、起きなくちゃ、と必死に願っていると、暑苦しいはずの布団の中に、さっと冷気が流れ込む。
布団を捲られたわけでもないのに、底冷えするような冷たい空気が布団の中に流れ込んでくる。
その瞬間に千尋の思考が完全に停止する。
何者かの息が千尋の頬に掛かる。
とても生臭い、そして、非常に冷たい、それでいて湿ったいる、そんな息がかかる。
頭の上から布団をかぶっているはずなのに、未だ布団の中に全身あるはずなのに、そんな生臭くも冷たい息が千尋の頬にかかる。
そして、その息を発する口から、何か音が発せられる……
と言うところで、千尋の目が覚める。
やはり自分は布団の中にいることを千尋は確認する。
そして、夏用の布団を透かして電気の明かりが見えていることに安心する。
もちろん、布団の中には何者もいない。いるわけもない。
千尋は恐る恐る、布団の隙間から辺りの様子を伺う。
部屋の中には何者の気配もない。
誰かがいた形跡もない。
意を決して千尋は布団から頭を出す。
そこはもう住み慣れた自分の部屋だ。
もちろん、自分以外誰もいない。
いるわけもない。いてはいけない。
電気も煌々とついている。
千尋はとりあえずテレビの電源を付ける。
そして、テレビから流れ出る音に安心をする。
時計を見ると、真夜中の二時半だ。
テレビの音量を落とし、買って来たお茶の封を切り、その半分ほどを一気に飲み干す。
一息ついてから、エアコンの電源を入れる。
お茶と一緒に買って来たアイスは完全に溶けている。
千尋はそのままもう寝る気にもなれずに朝になるまで、ただ茫然と震えながらテレビを見続けた。
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