秘密の彼女

ねこじゃ じぇねこ

秘密の彼女

「そういえば、知っている?」

 彼女がそんな事を言ったのは、まさに蜜を巡る秘め事を行っている最中のことだった。短い問いを返す余裕すらなかったわたしの心情を察してか、彼女はそのまま会話を続けた。

「東の花園でね、事件があったらしいんだ。詳しい事はよく知らないけれど、花園を守護する魔女様がお困りだそうだ」

 ごくりと息を飲んでしまう。このさり気ない仕草が彼女に悟られていないといいのだが、と、願わずにはいられなかった。

「そういえば、君は東の花園出身じゃなかったかな。何があったか聞いていないかい?」

「わ、分かりません。それよりも、どうか手を休めないで。憐れなわたしを早く楽にしてくださいな」

 震えてしまったこの声が、懇願しているように聞こえたからだろう。

「それもそうだね。さっさと終わらしてあげるよ」

 そう言って、彼女──蜜蜂は、いったん口を閉ざしてくれた。

 再びその口が開いたのは、それからしばらく経った後のことだった。

 あられもない姿にされてもなお、蜜を巡る秘め事の余韻に心を縛られ、何も出来ないまま天井を見上げているしかないわたしに対し、蜜蜂もまた荒くなっていた呼吸を整えながら言ったのだった。

「相変わらず、いい蜜だ。さすがは東の花園出身の蜜花というべきかな。王国の付近じゃ、なかなかこんな蜜は集められないんだよ。きっとみんな喜ぶだろうね」

 そう言って、蜜蜂はわたしの頬を撫でると、軽く唇を重ね、そして名残惜しそうな表情を浮かべながら立ち上がった。

「それじゃあ、私はそろそろ行かないと。また来るよ。それまでの間、野蛮な蝶にはくれぐれも気を付けて」

「はい、あなたもどうかお気をつけて」

 別れを告げると、蜜蜂はあっけなく立ち去ってしまった。

 静寂が戻ってきて、すっかり落ち着いてしまうと、わたしは周囲に散乱した衣服をかき集め、着なおすと、石ころで閉め切られた部屋の奥へと顔を覗かせた。

 その隅で、気配を殺している彼女を見つけ、微笑みかける。彼女は微笑みを返してくれた。けれど、すぐに笑みを薄めて、彼女は自嘲気味に言ったのだった。

「野蛮な蝶ですって」

 そう言って軽く揺らすのは、背中に生えた透明に近い白の翅。見事な形のその翅をもつ彼女こそが蝶である。

 部屋の中へと入り、わたしは彼女のもとへと近づいた。

「あなたのことじゃないわ」

「だといいけれど」

 軽く笑う彼女は目を合わせてくれない。けれど、わたしは彼女を見つめたまま、そっとその体に寄り添ってみた。

「それよりも、どうするつもり?」

 目を合わさぬまま、彼女は訊ねてきた。

「噂になっているらしいじゃない。今にここも知られてしまうでしょうね。あなたはどうするつもり? いつでも引き返したって──」

「いいえ!」

 思わず声を張り上げてしまい、わたしは慌てて口を閉じた。必死に気持ちを落ち着けてから、努めて声を潜め、わたしは彼女に言った。

「わたしの気持ちは変わりません。だって、そうじゃなかったら、初めからこんな事はしないもの」

 そんなわたしの必死さに、感じるものがあったのだろうか。蝶は再びわたしへと視線を向けて、そして軽く目を細めながら言ったのだった。

「……ありがとう」


 それは、今よりも少しだけ、けれど決して戻る事の出来ない過去の話である。

 蜜蜂の言う通り、わたしは東の花園に暮らしていた。そこはわたしと同じ蜜花や、蜜を欲しがる数多の妖精たちが暮らし、繁栄する賑やかな楽園でもある。

 だが、最初から安全な地だったわけではない。北西には糸の張り巡らされた城があり、南西には樹皮で出来た黄金の城があり、それぞれに妖精たちの血肉を食す魔女が暮らしている。彼女らの命令によって、配下たちは花園に侵入し、恐ろしい妖精さらいを行っていた。

 そのままであれば、花園の妖精たちは一方的に狩られるだけ。

 けれど、怯える事しか出来ない妖精たちのもとに、救い主は現れた。それが、花園の守護者たる白き魔女だ。

 一見すれば蜜花と同じようにしか見えない彼女だが、妖精をさらいに来た魔女の配下たちを返り討ちにする強さを有していた。

 だから、彼女のお陰で、花園は平穏に恵まれ、楽園となったのだ。

 ところが、白き魔女にもまた見返りが必要だった。危険から多くの妖精たちを護るためには、魔女にもまた栄養が必要だったのだ。

 そのために決められたのが、特別な身分の妖精であり、それはつまり生贄であった。

 白き魔女の舌を悦ばせる一族として蝶のある家系が選ばれて以降、彼らは尊ばれ、卵から大切に、大切に、育てられるようになった。

 そして、優遇を受ける代わりに、生贄として短い生涯を終えることが運命づけられたのだった。

 長きに渡り、その蝶たちの犠牲によって花園は楽園となっていた。

 だが、その生贄であるはずのうちのひとりが、今、ここにいた。


「ねえ、おなかすいちゃった」

 蝶に言われ、わたしはすぐに無言で応じた。

 彼女に身を捧げたのは、数えきれないほど。それでも飽きるということはなく、むしろ、肌に手が触れただけで準備が整ってしまうほどだった。体の火照りを感じながら抱き着いていると、彼女は少しだけ遠慮がちに囁いてきた。

「大丈夫? さっきあのひとに蜜をあげたばかりよね?」

「ご心配なく。あなたのための蜜はいつでもとってありますから」

 すると、蝶は安心したのか、それ以上は何も言わずに食事を始めたのだった。

 尊き生贄たちの体を作るには、それなりの品質の蜜が必要となる。

 花園が白き魔女の庇護を受けたばかりの頃、蜜の味にうるさい妖精たちが集い、共に反映する蜜花たちを集めて、蜜の味を品評し、選び抜いていった花たちの子孫。その一人がわたしである。

 大人になったわたしの役目は、やがて食される運命にある生贄の体を美味しく整えるための生餌。楽園のために犠牲になる彼女らに、せめて好い思いをさせてやることもまた、わたし達の役目だった。

 割り切らねばならない立場だった。これは尊いお役目で、仕方のない事だと。どんなに親しくなっても、どんなに縁が出来てしまっても、彼女たちを白き魔女に生贄を捧げなければ、花園の安全は脅かされてしまうのだから。

 それでも、わたしはきっとこの役目に向いていなかったのだ。

 この蝶が、わたしの初めてを奪った時、わたしもまた彼女にとっての初めてだった。

 初めて同士、丁度いいと引き合わされたのだろうが、そのために彼女はわたしにとって大事な存在となってしまい、一度そうなってしまった以上、日に日にわたしは耐えられなくなっていった。

 ──このひとを、失いたくない。

 気づけばわたしは、そう思い始めていた。

 大罪だということは、よく分かっていた。愛する故郷への裏切りである事も、二度と、帰れなくなる事も。

 親しいものたちの姿が頭を過り、躊躇いそうになったりもした。

 それでも、結局は、このひとを失う恐怖の方が大きくなってしまったのだ。

 ある時、わたしは彼女をさらっていった。花園から抜け出すと、南西へとひたすら逃げて、苔むした朽木の中に隠れ潜んだ。

 それが刹那の逃避にしかならないのだとしても、何もしないままただ諦め、苦しむことが怖かったのだ。

 以来、ここはわたしと彼女の隠れ家である。

 彼女の存在は、わたしの蜜を求めてやって来るいかなる妖精たちにも秘密だった。


 好きなだけ蝶に蜜を与えてやると、彼女はうっとりとした目つきを浮かべた。そのままわたしに寄り掛かる形で脱力し、微睡む。

 そんな彼女にわたしもまた寄り添いながら、今のこの瞬間の幸福と、何も分からない未来への不安を同時に抱えながら、静かに願った。

 どうか、どうか、この時が末永く続きますように。

 この秘密が、暴かれる時が来ませんように。

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