存在書留
小狸
短編
拝啓
「君は、誰かその本を読んだことのない人に向けて、紹介したいと思ったことがあるかい?」
昼休み、図書室で本を読んでいた時のことである。
その日も、彼はまた良く分からない話で口火を切った。
図書室で雑談をする――というのは、他の利用者にとって迷惑であると、遺憾の意を表明したくなる気持ちも理解できるが、残念ながら図書室には、私と彼の二人しかいない。元より昼休みには運動をすることが推奨されている小学校である。図書室には、二人っきりであることが多い。
司書の先生は今、席を外している。私は図書委員として、司書に全幅の信頼を置かれているのだ。私などに信頼を置く人の気が知れないが、まあそれは良いとしよう。
そして人が読書している最中に人に話しかけるという行為そのものはどうなのかと、これまた
友人。
唯一の、読書友達である。
出会ったのは小学校3年生の時、やはり図書室であった。
結局6年になる今まで、クラスが一緒になることはなかったけれど。
一体いつの間にか私の隣に座っていたのか、最初こそ莫迦みたいに驚いたものだったけれど、もう慣れた。
音を立てずに気配を消してわざわざ隣に座って来たという彼の意味不明な配慮に、
いつだって彼――
謎な人なのである。
謎であることが、唯一彼の分かることだと言っても過言ではない。
「紹介? うん。まあ、あるよ」
私が今読んでいるのは、もう故人ではあるが、短編長編多くの作品を残した、推理小説家である。加えて小学生の夏休みでも時折推薦図書になっていることがあるため、その作家の名前にはある程度箔がついている。親にいちいち詮索されることがない小説というのは、子どもながらにありがたい。
私は答える。
「少しでもこの先生の小説が他の人に読まれれば良いと思っているし、それで面白いって思ってくれる人がいたら、私は嬉しいかな」
「どうして嬉しい?」
彼は間髪入れずに返した。
「どうして……どうしてかなあ」
私は考える。
「共感してもらえるっていうか、何か、お互いに分かり合えることがあるって、そこ、それを、私は嬉しいと思うからかな。人が生きていく上で一番大事なコミュニケーション。誰かと同じものを好きっていうのは、その中でかなり上位に来るものだと思う」
「コミュニケーション、ね。流石は
そう言い、彼は視線を、読んでいる小説に落とした。
私が伊櫃くんと出会った時から、彼はその紺色のブックカバーを使用している。
彼が何を読んでいるかは、私には分からない。
前述の通り、分からなくて良い友達なのである。
「僕はそういう意味では、人が生きていく上での逆を行っているのかもしれない」
「逆? どういうこと」
「自分が読んでいる本が面白かった時、逆にこう思うんだ。誰にも教えたくない。この面白さは、自分だけで独占したい」
「……それは」
気持ちは、分からないでもなかった。
私には四つ下の妹がいる。おもちゃやお人形、ぬいぐるみの奪い合いは日常茶飯事であった。
であった。
過去形である。
私ももう小6だ。
そんな子どもみたいな気持ちとは、既に決別したはずだった。
だからこそ、「そんな子どもみたいな」感情を抱く伊櫃くんを見て、どこか懐かしさを覚えた。
「だから、僕は、大好きな小説を人に教えない。誰にも伝えない。僕のその行為で、その小説家が日の目を見ることがなくなったとしてもね」
「それは、普通じゃないね」
私は、思ったことをそのまま言った。
こんなことを言えば、大抵の子はキレる。
でも、伊櫃くんは違う。
「そうだね。僕も、僕のこの生き方が、普通でないって分かっている。外れているって理解している。異常だって、思っている」
「どうして? 異常だってことは、人とは違うってことだよ。そしてそれは、コミュニケーションから外れるってこと。分かり合えないってこと。輪から外れるってこと。それは――」
――寂しいよ。
少しだけ、
伊櫃くんは、答えた。
「そうだね」
まるで、私のその問いを、あらかじめ分かっていたかのように。
「それでも僕は、この生き方を選ぼうと思うんだ。異端で、異常。だって、それが僕なんだから。多様性って言葉があるけれど、きっと僕はそこには一生含まれない。どんな救済処置でも救われない。それでも、承知の上で、理解の上で――」
覚悟の上だよ。
それは、宣言だった。
ここを境に、私と伊櫃くんの間に、決定的な何かが生まれてしまうかのような。
まるで暗示のように、伊櫃くんと図書室で会うことは無くなった。
風の噂で、別の学校に転校したという話を聞いた。
音もなく、跡を残さず、静かに消えた。
進んで異端の道を選んだ、伊櫃糺という彼の
ここに書き留めておく。
敬具
存在書留 小狸 @segen_gen
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