ショートショート 青い空
阿賀沢 周子
青い空
背後で自動ドアの閉まる音がした。早歩きで南へ向かう。ショッピングモールの日よけから出ると日差しが健一を捕らえた。振り返って誰も追ってこないのを確認した。バリアフリーの長い歩道を過ぎてバス通りへ出たところでふうっと息を吐いた。今まで呼吸をしていなかったような解放感があった。続いて深呼吸を数回繰り返す。空を見上げる。雲一つない青空が広がっている。肺に満たされた空気と青空で、健一の胸に安堵感が広がる。買い物に入った時の鬱積した閉塞感、苛々が消えていた。手にした洋品店のビニール袋を振るリズムと歩行が一致して足取りが軽くなっていた。
健一の勤める部署で、同期の谷田が昇進したことを知った春先から妻の好恵が冷たくなった。健一は、最初はただの嫉妬だと受け止めて、務めて冷静に谷田の能力を褒めて見せたが好恵の態度はひと月たっても変わらなかった。勤めを終えて帰宅しても、以前のように夕食の支度をしながらその日の話をすることもなくなった。夕食の間中話が途切れなかったほどのおしゃべりが、だ。冷めたままの夕食を一人で食べることになった。
五月に入って暖かい日が続いたので、夕食を取りながら好恵に薄手のシャツを出してくれと言ったら「古い下着は全部捨てました。新しいのを買ってきて」という。健一は着ているものはこれまで好恵任せで、結婚して二十年ほとんど買い物はしたことがなかった。反論しようとしたが「自立して、そろそろ」と先に言われては返す言葉がなくなった。飲んでいた缶ビールの味が急に苦くなった。
四月末、谷田の昇進祝いで職場の同期が集まった時、七割が自分より上の役職にいるのに今更のように気づき、何気に回りと話すのがせつなかったのを思い出す。好恵の立腹は自分のふがいなさのせいか。
自分は人の上に立ちたいと考えたことはない。五十近くなった今でも、人前でしゃべるのは苦手なままだし、競争とか切磋琢磨とか、最近流行りの自己啓発という言葉にさえ一歩退くところがあった。目立つのも嫌いだった。酒を酌み交わすほど仲の良い友人知人もいない。妻と二人で穏やかに暮らせればよかった。
会話のきっかけにでもなればと、どこへ行ってどんなものを買えばよいのかしつこく聞いたら、テレビを見ながら振り返りもせず、面倒くさそうな返事があった。
「モールへ行けばなんでもあるわよ」何を選んでよいかわからないというと「自分で着る物でしょ。行けば買えます」
『そういう言い方はないだろ』直接好恵にそう返せない自分に苛立った。
下着を全部捨てたというのも納得がいかなかった。好恵に理由を聞きたかったが反駁が怖く、糾せない自分がいる。子どもはいないがそれなりに仲良くやってきたと思っていた。喧嘩をしてもこんなに長い間不仲でいたことはない。
谷田が原因か。昔、谷田と好恵に何かあったのか。下着のことから谷田に考えが移るとさらにビールの味がまずくなった。
好恵は健一たちの一年前に会社に入っていた。誰にでも優しいかわいい女の子だった。就職してまもなく同期の誰某の職場恋愛や、同棲や不倫といったことが耳に入ったが、健一は初めから好恵しか目に入らず、会食などで同席しただけで喜んでいた。三年ばかり経った頃、好恵とひょんなことから二人きりになり、思い切って告白したら、すんなり受け入れられたのだった。
自分に自信を持てた一番いい頃だった。若い頃、その場面は健一の頭の中で繰りかえし再生されたものだ。しかしである。谷田と何かあったのか。そんな噂があったような記憶もあるが、当時は自分が選ばれたと自惚れて気にならなかった。こうなってみると谷田を選ばなかったことを悔やんでいるということか。夕食もビールも喉を通らなくなった。
最初に入った洋品店で適当に下着を買い物かごに突っ込んでレジに並んだ。店内は靄のようにざわめきが滞り暑苦しい。前に並ぶ年寄りが小銭を出すのに手間取っている。好恵と谷田の関係をあれこれ想像し何日も不眠だったせいか、健一は両の掌に脂汗をかき、苛立ちで吐き気がした。
「こちら、Mサイズですが大丈夫でしたでしょうか」レジの女の一言に自分の腹を指さされているような屈辱をあじわう。金を払うと「ありがとうございました」と屈託のない笑顔を向ける若い女に「爆弾を仕掛けた」と小さな声でいい、洋品店を後にした。
健一は青空を見上げ、胸の痞えが消え去っているのを確認した。
ショートショート 青い空 阿賀沢 周子 @asoh
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